カールセンに着いたのは3日目の夕方だったが、船着き場には侯爵家の馬車が来ていたのでカモミールは思わず首を傾げた。侯爵夫人は一緒に帰ってきていないという連絡が届いていなかったのかと思ったのだ。
「メリッサさん、それにカモミールさんたちも、帰りは時間が遅くなるだろうから馬車で送るようにと旦那様から言いつかってます。どうぞ」
御者が降りてきて侯爵からの命だと明かしてくれる。カモミールたちは礼を言ってありがたく送って貰うことにした。
途中でタマラを下ろし、メリッサの家らしき場所に止まり、最後は例の馬車が入れない路地の前で止まる。
御者が何度も会ったことのある人なので、カモミールは馬車を降りてから丁寧に礼を言った。
「いつもありがとうございます。ここは奥に入れないせいでお待たせしてしまうことも多くて、申し訳ありません」
「気にすることはないですよ。庶民がみんな大通り沿いに住んでるわけじゃないんだしね。そういう私もカールセンの反対側の、やっぱり馬車が入れないアパートメントに住んでますよ」
御者が気さくな様子でカモミールの謝罪を打ち消してくれる。やはり彼もこの都市に住む庶民だった。
「そうなんですか。前に住んでいたところは比較的前の通りが大きかったので、余計この道が狭く感じちゃって。兄が実家の農場から荷馬車で来てくれたときも、ここで詰まって進めなくなっちゃったんですよ」
「ああー、それはまあ、仕方がないね。それでは、私は侯爵邸に戻って旦那様にみなさんを無事に送り届けたとお知らせしなければ」
「侯爵様にカモミールが御礼を言っていたとお伝えください」
御者はにこりと笑って了承を示すと、再び馬を走らせて去って行った。ふたりが話している間にヴァージルは一足早くカモミールの分まで荷物を持って行ったらしい。振り返ったら荷物もなく彼もいないのでカモミールは慌てた。
御者が妙に早く話を切り上げたと思ったら、ヴァージルが荷物を持って奥の家に入っていくのが見えたのだろう。
「ヴァージル、荷物持ってきてくれたのね、ありがとう」
「僕は会釈で済ませたけど、ミリーが丁寧に御礼を言ってたからね」
エノラの家に入ると、ドアの前にヴァージルが立っていた。その置くにはエノラもいる。僅か10日しか離れていなかったのに、この家が随分久しぶりに感じた。
「エノラさん、ただいま戻りました」
「ふたりともお帰りなさい。私ったら、ふたりがいるのにすっかり慣れちゃったのね。ひとりで寂しかったわ」
エノラがヴァージルとカモミールに次々に抱きついてくる。そして、ふとふたりの顔を交互に見た。
「あら、あなたたちとうとうお付き合いし始めたのね? おめでとう!」
「えっ!?」
まだ何も言っていないのにエノラに見抜かれ、カモミールもヴァージルも声を上げて驚く。
「あ、はい、確かにそうなんですが……」
「エノラおばさん、どうして気づいたの?」
カモミールよりもヴァージルの方が狼狽している。エノラは悪戯っぽく笑い、ヴァージルの手を引いて奥に連れて行くと何やら耳打ちをしていた。
カモミールから見てわかったのは、ヴァージルが顔を真っ赤にしてしゃがみ込んだことだけだ。
「うふふふ、ミリーちゃんは後でヴァージルちゃんからお聞きなさいな。そうそう、ミリーちゃんがいない間にお客さんが来てね、これを置いていったわ」
「お客さん?」
わざわざ自分を訪ねてくる人間には心当たりがない。
家族もカモミールが王都に行くと知っていたのだから、この時期に来るはずがない。
「そう、30代から40代くらいかしらねえ、男性で少し険しい顔の人で。ミリーちゃんを訪ねてきたんだけど、今は王都に行っていていないと言ったら『知ってます』って。おかしな人ね、留守なのを知っていて来るなんて」
「まさか……」
30代から40代に見えて、険しい顔の男性。そしてカモミールに直接会いたくはないらしい、そんな男性には心当たりがある。
カモミールはエノラから受け取った封筒を慌てて開けた。中にはお金と2枚の紙が入っている。
1枚はクリスティンで発行されるミラヴィアの売り上げ明細。もう1枚は、カモミールにとっては見慣れた角張った字で書かれた素っ気ない手紙だった。
「この売上金は、母がいない以上カモミールが受け取るべきと考える。渡す機会を作れないでいたが、クリスティンでカモミールの新しいブランドのお披露目会が開かれ、君が王都に行っていることを聞いた。
私に言われたくはないだろうが、おめでとう。私の不当な仕打ちにも心折れることなく、独り立ちして成功を収めた君に心からの祝福を。そして、あの時は済まなかった。許せとは言わないが、冷静になって振り返れば全く非のないはずの君に対して酷いことをしたと今は思っている」
それは、カモミールを家から追い出した兄弟子、ガストンからの手紙だったのだ。
「ミリーちゃん、どうしたの?」
「あ――ええと、兄弟子からの手紙で……なんて言ったらいいのかなあ。私が家から追い出されたのも、ミラヴィアの名前を使えなくなったのもガストンのせいなんですけど。ミラヴィアの最後の売り上げ明細もきちんと同封されてるし、その売上金も入ってるんです。
真面目な人だから、案外このお金も『自分の物にすべきじゃない』と思ってずっと取っておいたんでしょうね」
複雑な心境には変わりないが、今ガストンを恨んでいるかと聞かれたら「そんなに恨んではない」とカモミールは答えるだろう。
全く恨んでいないと言ったら嘘になるが、彼から家を追い出されなければ工房を手に入れて独り立ちする時期は大幅に遅れただろうし、こちらも冷静になって考えればいくら亡きロクサーヌの弟子だったからといって、血のつながりもない男性と同居し続ける方が不自然だ。
「こういう人だから、何事にも真面目な人だって知ってるから、……だからこそ、家から荷物ポンポン出されて話し合いの余地もなく、一方的に追い出されたのがショックだったんですけどね」
「ミリー、考え込みすぎない方がいいよ。ガストンさんもガストンさんで、何か気持ちが変わるようなことがあったんじゃないかな」
カモミールがなんとも言えない表情になっていることに気づいたのか、ヴァージルが戻ってきてエノラの前だというのに抱きしめてくる。
「そうね、2ヶ月以上経ってるんだもん、そういうことがあってもおかしくないかもね」
こちらも、その間にいろいろとあったのだ。
別にガストンは返事を求めているような文面ではなかったので、カモミールはそのお金をありがたく受け取るだけにして、特に手紙などは出さないことにした。
「ヴァージル、ご飯食べに行こう? そういえばさっき、エノラさんに何を言われたの?」
一通り荷物を自室に片付けてから、カモミールは隣のヴァージルの部屋を訪れていた。ヴァージルはカモミールより荷物が少なかったので、既に片付けは終わっているようだ。
「ああ、それだけどね」
ヴァージルが眉を下げてちょっと情けない顔になりつつ、自分が腰掛けているベッドの隣を叩いた。そこにカモミールが座ると、小さな声で彼が答える。
「僕から普段は付けてない香水の匂いがして、その匂いがカモミールが付けてるのと同じだって、順番にハグしたからわかっちゃったんだって……」
「い、いやーぁぁぁ!」
それはつまり、今日船室でふたりでイチャイチャとしていたのがバレてしまったということだ。恋人とふたりきりなのだから、と色気づいて香水を付けたせいでエノラにはあっさりと気づかれてしまった。
「恥ずかしい……消えたい」
「さっき僕も同じことを考えたよ」
そしてふたりは、揃って羞恥にしばらく顔を赤らめていた。