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第97話 バラの花と試験管

 劇場から出て、ふたりで腕を組んで街を歩く。カモミールは左手にバラの花を持って、そうして歩いているだけでも幸せと思えた。


「あっ、どうしよう、バラがしおれてきちゃう」


 それに気づいたのは、夕食にちょうどいい時間まで素材探しをしようと、先程とは違う場所を歩いていたときのことだった。


「取っておきたい、よね?」

「もちろん」


 ヴァージルのことだから「何度でも買ってあげる」と言いそうだとカモミールは思っていた。そう言われたら「これは特別」という準備もできていた。

 けれど、思っていたよりもヴァージルはこの一輪のバラの価値をわかってくれている。カモミールがしっかりと握っている理由は、これが他の何にも変えられない物だからだ。


「濡れた紙で茎を包んで――うーん、そうすると持ち歩くのにちょっと問題があるかな」

「もしかして、花束の方が持ち歩きやすかった?」

「花を保たせるという意味ではそうだったかもしれないけど、多分かさばったわ。一輪で良かったのよ」


 カモミールが花を見つめて嬉しそうに笑うのを見て、ヴァージルも目を細めている。


「そんなに花を喜んでくれるなら、もっと早く贈れば良かった」

「違うわ。劇場の簡単には入れないような凄い席で、ヴァージルが跪いて差し出してくれたから特別なの。――私自身はバラの花って柄じゃないし、もちろんヴィアローズにとってはバラは特別だけどもね」

「そういえば、ミリーが好きな花ってどんな花?」


 ヴァージルが足を止めてカモミールに尋ねた。長いこと付き合ってきて、彼にこんなことを聞かれるのは初めてだ。

 けれど、確かに他の人にも特に話したことはない。カモミールにとっては思い出深い花が、今日もうひとつ別の意味を持った。


「私が好きな花はね、ひまわりよ。小さい頃は家からほとんど出られなかったでしょ? ロクサーヌ先生とあの夏初めて出会ったとき、先生がひまわりの花をたくさん抱えてきてくれたの。それが私に外の夏の景色を教えてくれたわ。

 あの花が私の憧れ。太陽に向かって明るく咲くような、私に夏を教えてくれたロクサーヌ先生のような、そんな人になりたいと思って錬金術師になったの。

 だから、『僕のひまわり』って言ってもらえてとても嬉しかった」

「うん、ミリーが夏に憧れたみたいに、僕は君の明るさに惹かれたんだよ。小さい体で元気いっぱいで、いつも明るくて、僕はミリーの笑顔に何度も心を救われてきたんだ」

「私の笑顔が、あなたの心を? ――そうだとしたら、私も少しはロクサーヌ先生のようになれてるのかもね。でもね、私もヴァージルにはたくさん助けてもらってるから、きっとそれはお互い様なのよ。

 ロクサーヌ先生の葬儀の日、ガストンに家を追い出されて一番心細かったときに、ヴァージルが駆けつけてくれて本当に嬉しかった。タマラも助けてくれたけどね。……あっ! ちょっと待って、あそこに錬金術ギルドがある!」


 カモミールがふと視線を上げたとき、ヴァージルの肩越しに見えたのは四角の中に太陽と月を描いた錬金術ギルドの看板だった。それを見た瞬間、あるアイディアが浮かんでカモミールは思わず弾んだ声を上げていた。


「寄っていい? 買いたい物があるの!」

「うん、いいよ」


 部外者のヴァージルにはあまり面白くはないであろう錬金術ギルドだが、今のカモミールにはどうしても行きたい理由ができたのだ。


「こんにちは!」


 ギルドのドアを開け、明るく挨拶をする。様々な薬品や用具を取り扱っているので、ここならば「うってつけ」の物があるに違いないとカモミールは踏んでいた。


「こんにちは。おや、初めましての方ですね」


 眼鏡を掛けた男性が窓口にいて、カモミールを一目見てそんなことを言う。やはりギルドに来る人間は限られているので、大体は憶えられているのだろう。


「ええ、私はカールセンに住んでいる錬金術師なんです。王都に来たのは初めてで、カールセンにない素材があったら買いたいと思って。それと、試験管を1本今ください」

「試験管を……ああ、なるほど!」


 カモミールが持っている花を見て、一回りほど歳上に見える職員の男性が声を上げて笑った。ヴァージルはきょとんとしているが、さすが錬金術ギルドの職員はカモミールの意図に気づいたらしい。


「試験管は1500ガラムですよ。今試験管に水を入れて持ってきますね」

「ありがとうございます!」


 一度バラの花をヴァージルに預け、バッグから1500ガラムを出して窓口に置く。すぐに職員は試験管の8分目まで水を入れて持ってきてくれたので、カモミールはそれにバラの花を生けた。


「バラを試験管に生けるのか。なるほど、僕じゃ思いつかなかったよ」

「ギルドの看板を見た瞬間にひらめいたのよ、どうせギルドも見たかったしね」

「ははは、面白い思いつきですよ。今度妻に花を贈るときは僕もこうしよう。うちは僕がギルドで働いていて、妻が生活錬金術師でね」

「そうなんですか。試験管は結構使うから、無駄にならなくていいし喜んで貰えたらいいですね。私も生活錬金術師なんです。いろいろ作ってますけど、今は石けんの勉強中ですね」


 化粧品を作っている、ということは迂闊に言えない。カールセンから来た錬金術師で化粧品を作っているなんて、素性を明かすようなものだ。石けんならば、需要が絶えないので生活錬金術師の中でも作る人は多い。


「石けんねえ……手堅いから妻も作っているけど、レシピが出回っているからそんなに勉強することはあるのかなあ」

「ここだけの話ですけど、カールセンでマルセラ石けんじゃない石けんが出回り始めてて、今話題なんです。きっと王都でもすぐに噂になると思いますよ」


 声をひそめてカモミールは男性に耳打ちした。カールセンでのお披露目会も昨日だったので、「今話題」という部分は盛っているが1週間も経てばそれはもう本当の話になるだろう。


「話題になるほどの石けん? そのレシピはまだ出回っていないのかな」

「あっ、そうだ……ちょっといいことを思いつきました。紙とペンを貸してください」


 石けんの話題に興味津々の職員から紙とペンを受け取り、カモミールは自分のカールセンでの住所と「アトリエ・カモミール」という工房名を書いた。それを男性に渡して、本当のことをぼかして伝える。


「私、ここの工房で働いてるんです。石けんは師匠が作っているんですけど、奥様が王都で話題になる石けんについて知りたいと仰ったらここに手紙をください。多分ですけど、工房主も同じレシピで石けんを作ってくれる人が王都にいたら、お仕事を頼むんじゃないかと思うんですよ」

「ああ、なるほど。これは妻に渡しておきますよ、ありがとう」

「じゃあ、ちょっと扱ってる物を見せてくださいね」

「デートの予定が詰まらない程度に、ゆっくり見ていってください」


 さすがに既婚者はいろいろと察しが早い。カモミールがヴァージルとのデート中であることも見抜かれていた。バラの花を持って歩いていれば、デートと推測するのは容易いかもしれないが。


 王都シルヴェルのギルドでは、カールセンで売っているのと少し違う色合いの染料が売られていた。聞けば、寒冷地で咲く花なのでこの辺りまではぎりぎり出回っているが、もっと南のカールセンでは扱っていないのだろうと言うことだった。

 染料は混ぜて他の色にできるので、確かに少しの色合いの違いではわざわざ流通させる意味はあまりない。これは買うかどうか少し悩んだ。

 他には、カールセンよりも少しだけ松の精油が安かったので、こっちは大瓶で10本買っておく。松の精油は香りが清々しく、これで香りを付けた石けんは男性にも喜ばれるだろう。


 大瓶10本を持ち歩くのは少々厳しいので、配達を頼む。配達先はヴァージルが「クリスティンの店舗にアトリエの名前で送れば、明日船に乗るときに持ってきて貰えるよ」と言ったので、図々しくクリスティンを利用させて貰うことにした。

 クリスティンの店舗はここからはそれほど遠くはない。カモミールが顔を出すのは危ないが、ヴァージルが伝言に行くのなら問題ないだろう。



 その後は、ヴァージルがクリスティンへ行ってきてから食事にいい頃合いになるまで路地の店を見て歩き、屋台でカールセンとは少しだけ違う食事をふたりで楽しんだ。

 バラの花の試験管は落とさないように交互に持ちながら食事をしたが、そういう不自由も今は楽しい。


 日がすっかり暮れてから侯爵邸に戻ったとき、カモミールとヴァージルが腕を組んで歩いているのを見たタマラがいかにも慌てた様子で駆け寄ってきた。


「うまくいったのね? おめでとう、ミリー、ヴァージル」

「いろいろ心配してくれていたのよね、ありがとう。タマラのことも大好きよ」

「タマラさんのおかげだよ。本当に、ありがとう」

「うん、うん、良かったわぁ……」


 いかにも幸せいっぱいという様子で笑うカモミールとヴァージルに、タマラが感極まったのか泣き出した。そんな彼女を宥めながら、ふたりはお互いを見つめて微笑んでいた。


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