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第96話 通じ合う想い

 ヴァージルが選んだ真珠の髪飾りは、実際に15万5千ガラムだった。しかもそれを「付けていきます」と彼は言い切り、カモミールの髪に挿してあった髪飾りを抜いて新しく買った髪飾りを自分の手で杏色の髪に付ける。付けてきた髪飾りは布で包んでカモミールのバッグにしまわれた。


 支払いをどうするのかと思ったら、まさかの小切手だった。何度も驚かされてカモミールは声も出ない。


「あ、これ? 王都にせっかく行くんだし、もしかしたら大きい買い物をするかもしれないと思って準備してきたんだ。現金をたくさん持ち歩くのは大変だしね」


 察したヴァージルが先回りして答えてくれた。言われてみれば納得である。カモミール自身も、「王都で何か大きい仕入れをするかもしれないから」と小切手帳を持ってきているのだから。


 観劇の前に、歩き疲れているだろうとヴァージルが気を遣ってくれて手近な店に入って昼食にした。いつもはよく食べる印象のあるヴァージルが、今日は普通の一人前しか食べていないのが少々意外だ。

 しかしカモミールもあまり食が進まない。胸が圧迫されるような妙な緊張感を感じていた。


 劇場の近くまで歩いたところで、ヴァージルが立ち止まって左腕を軽く曲げた。


「どうぞ、お嬢様。もうすぐ劇場だからね」

「あ、ありがとう」


 ヴァージルのエスコートが照れくさい。彼の腕に軽く手を掛けて歩きながら、気恥ずかしさで顔が熱くなってきた。

 昨日は妖精を演じていたから、エスコートされてもなんとも思わなかったし、「侯爵様みたいにエスコートして」と以前要求したと言うが酔っ払ったせいで憶えていない。

 彼に贈られた宝石を身につけ、腕を組んで歩くなんてまるで恋人同士のようではないか。


 劇場の入り口で侯爵家の紹介状を出すと、一般席ではなく見晴らしの良いボックス席に案内された。少し右寄りではあるがほぼ真正面と言ってもいい、相当に良い席だと思われる場所だった。

 周囲を見渡せば、見える範囲ではボックス席の女性はドレスを着ており、1階の平土間席の後方や、立ち見の客の中には上流の庶民とおぼしき人も見える。

 ボックス席の中では、やはりドレスでないと見劣りがする。しかしそんなことが気になったのは席に入って最初のうちだけで、すぐにカモミールは別のことに意識が向いてしまった。


 まばゆい照明を浴びながら歌い踊る舞台上の人々でもなく、迫力ある音楽を奏でる楽団でもなく、どこを見ているのかと言いたくなるほどあらぬところを見ている人が多いボックス席の貴族たちでもなく――隣にいる青年に意識が向きすぎてしまうのだ。


 席に入ってすぐ、ヴァージルは一度その場を抜けて飲み物を買ってきてくれた。

 そういう風に、彼に気遣われることが気恥ずかしく、嬉しい。

 観劇の間も、舞台の上の物語はろくに頭に入ってこなかった。

 ヴァージルの目は何を見ているのか、彼は何を考えているのか。そんなことばかりがカモミールの胸を巡っていく。


 結局、かなりの長さがあったはずの舞台は、内容がほとんどわからないままに終わっていた。周囲に合わせて拍手をしながら、今更ながらに「侯爵夫人が席を取ってくれたのにとんでもないことをしてしまった」と反省しきりだ。


「ちょっとここで待ってて」

「わかったわ」


 観客たちがそれぞれ席を立つ中、ヴァージルはカモミールを残して外へ出て行った。混んだところを通っていくより、今はまだ席にいた方がいいのも確かだ。

 間もなく戻ってきたヴァージルは、右手を後ろに回して明らかに何かを隠していた。

 個室のドアが閉まり、けれども周囲の喧噪はまだ届く中で、ヴァージルは片膝をついて手に持っていた物をカモミールの前に差し出す。


「ミリー、これを」

「え?」


 ヴァージルが差し出したのは、一輪のピンク色をしたバラの花だった。思わずそれを受け取ってから、カモミールは我に返って慌てた。


「こんなにいろいろしてくれなくていいのよ? どうしたの? 髪飾りを貰っただけでもとんでもないことだと思ってるのに」

「君が、このブローチを選んでくれた。僕にとってはそれが何よりのお返し――というと順番が変だね。でも、実際そうなんだ。ミリーがその宝石を選んでくれて、それを僕の目と同じ色と思ってくれて、凄く嬉しい。真珠の髪飾りやバラの花じゃ足りないくらいだよ。

 本当は、抱えきれないくらいの花束を贈りたい。でもそれを持ち歩くのは邪魔になるから、劇場の小間使いに一輪だけバラを買ってきて貰うように頼んだんだ」


 自分の心臓の音が、カモミールには妙にうるさく感じた。

 ふたりきりのボックス席の中、ヴァージルはカモミールに向かって手を差し伸べてくる。よく見慣れたはずの青年の緑色の目が、熱を帯びて自分を見つめていることにカモミールは気づいていた。


「僕は、君を愛してる。本当に身勝手な願いだとはわかってるけど、僕の手を取って欲しい。ずっとミリーと一緒にいたい」

「私を……ヴァージルが?」

「何年も君のことだけを想ってきたんだ。僕を照らす太陽、僕のひまわり。ミリー、どうか僕の気持ちを受け取って欲しい」


 カチリ、と頭の中で音がした気がした。ヴァージルの言葉が引き金になって、今まで彼によって封じられ、あるいはカモミール自身で抑え込んでいた気持ちがあふれ出す。


「私も――そうよ、私もヴァージルのことが好き。どうしてこの気持ちを今まで忘れてたのかしら。このブローチを選んだのは、ヴァージルの目の色だからだってわかってたのに」


 差し出された手に自分の手を重ねながら、カモミールはぽろぽろと涙を流した。胸の中で蘇った感情に翻弄されていて、涙は自分で止めることができなさそうだ。


「僕は、以前一度君に告白されたことがある」


 ヴァージルの思わぬ言葉にカモミールは目を見開いた。それは自分の記憶の中にない事柄だったのだ。


「でも、その時僕はミリーの愛を受け入れることを拒んだんだ。『幼馴染み』として側にいるのが一番楽だったから、君との距離が変わるのが怖くて、自分勝手な都合で君を傷つけた」

「まさか、私にその記憶がないのは、その時のショックが激しすぎたせい?」

「そう――だね、多分。僕が勇気を出せれば、君を苦しめることもなかったのに」


 苦しげに目を伏せたヴァージルの頬に、カモミールはそっと手を伸ばした。

 ――そして、彼の頬を軽く摘まむ。驚くヴァージルに口を尖らせて彼女はぼやいた。


「なんでもっと早く言ってくれなかったの?」

「ごめん」

「そうじゃなくて、私の告白を断ったことであなたが苦しんでたんでしょう? ああっ、思い出したわ! そうよ、新しい服を買って、ヴァージルがあんまり照れながら褒めてくれたものだから、その時にやっと私はあなたのことが好きだって気づいたの。それでタマラに相談しに行って――繋がった、繋がったわ! タマラはあの時私の背を押すために一緒に来てくれたんだった。だから、ヴァージルが私を振るところも見てたのね?」

「そこまで思い出したの? ミリー、頭痛はしない?」


 ヴァージルが心配げにカモミールの顔を覗き込む。カモミールはただ首を振って彼の言葉を否定した。


「タマラとヴァージルが突然仲良くなったなと思ってたんだけど、その時のせいでしょう?」

「う、うん……気を失った君を抱きかかえながら、僕は君のことを愛してるけど幼馴染みでいるのが一番いいんだってタマラさんに言ったんだ。それから、いろいろ僕のことを気に掛けてくれるようになって」

「タマラって優しいもんね。……そっか、船の中でもタマラに相談してたんでしょう」

「船の中だけじゃないよ。昨日のお披露目会の時も、君が綺麗になりすぎて動揺した僕に、他の男に取られるのが怖いんじゃないのかって背中を押してくれたのはタマラさんだった」

「そうなのね。タマラには後で御礼を言わなくちゃ」


 カモミールの小さな顔を、ヴァージルの両手がそっと包む。その手からじんわりと何かが流れ込んでくるような気がした。


「ヴァージル……今のあなたの目、紫色になってるわ」

「そう? ミリーが言うならそうなんだろうね。だから、そのブローチは僕の目の色なんだよ」

「えっ、えっ、目の色が変わるなんてことあるの? この紫色まで同じ色なの?」

「……ミリーは、前にもこの色を見たことがあるはずだよ。でも今はそんなことはいいから、目を閉じて」


 囁かれる声が何を示しているのか、カモミールですら察することができた。

 まぶたが引きつるような緊張を憶えながらぎゅっと目を閉じると、唇に温かくて柔らかい物が触れてくる。

 彼に触れられているところが全部熱くなってしまいそうで、カモミールはくらくらとしてきた。手でもなく、額でもなく、ただ唇同士が触れていると言うだけで、何故こんなにもドキドキとするのだろう。


 どれほどの間、そうしてキスを交わしていたのかよくわからない。長い時間だった気もするし、僅かの間だったかもしれない。

 ヴァージルが離れたので目を開けたカモミールは、彼が泣いていることに気づいてしまった。その目元に指を伸ばしながら、胸が締め付けられる様な苦しさを感じつつカモミールは問いかける。


「どうして、泣いてるの?」


 カモミールの細い指で涙を拭われて、ヴァージルはその手をそっと握りしめてそこに頬を寄せる。


「僕は、幸せになるのが怖いってずっと思ってきた。幸せになったら、その幸せが失われたときに余計に辛いから。――でも今、幸せで、嬉しくて」

「幸せを怖いなんて言わないで。私も、今とても幸せよ」

「うん。ミリー、愛してるよ」

「私も」


 男性にしてはヴァージルは細い方だが、その胸に抱きしめられると頼りなさなど何も感じはしなかった。

 自分をずっと間近で見ていてくれた幼馴染みと想いを通じて、やっとカモミールは彼の腕の中で安息を得ることができたのだ。

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