侯爵夫人は、恐ろしく酒に強かった。
晩餐の途中でカモミールはそれを思い知り、翌日を楽しく過ごすためにこれ以上一滴も酒は飲むまいと心に誓ったほどだ。
二日酔いで酒の匂いをさせたまま、王都でも最高の劇場に行くなど考えられない。
王都滞在最終日の朝食の席に侯爵夫人はおらず、使用人に尋ねれば「奥様はお休みでいらっしゃいます」という答えが返ってきた。おそらく羽目を外したせいで飲みすぎたのだろう。
途中で酒を切り上げたカモミールとタマラとヴァージルだけで朝食を食べ、三人はそれぞれ外出の準備を始めた。
タマラは朝起きて人前に出る前にひげを剃ったり何もかもを済ませているが、カモミールはまだ外出用の化粧はしていない。当然のようにヴァージルに頼んでいる。
「お披露目会で会った人から見て、私だってわからないようにしなきゃね。夢を壊しちゃう」
「そうだね。服からして雰囲気が違うから大丈夫だとは思うけど」
カモミールはタマラがデザインしたバラ色のワンピースを着ていた。侯爵夫人が誂えてくれた服は可愛らしい物が多く、一番大人っぽく見えるのがこの服だったのだ。
ヴァージルが施した化粧は、目元をキリリと切れ長に見せて青いアイシャドウを付けた「大人らしい顔」に見えるものだった。
髪も編んでアップにし、ヒールのある靴を履いているので、昨日のお披露目会のふわふわとした「小柄な妖精」のイメージからはかなり離れている。
髪色ばかりはごまかせないが、極端に珍しい色でもないので問題ないだろう。
最後に胸元にフローライトのブローチを飾り、「弟子の晴れ舞台」とマシューからプレゼントされた真珠のあしらわれた髪飾りを付け、カモミールは鏡に向かって仕上がりを確かめた。
「よし、さすがヴァージルね。昨日と別人に見えるわ」
「ミリーに真珠の髪飾りは似合うね。マシューさん、いいものを奮発してくれたなあ」
「そうね。自分が作った石けんが大々的に売られるのもとても喜んでたし、元々弟子が欲しかっただけで生活に困ってたわけじゃないから、渡したお給料の三分の一くらいこれに注ぎ込んじゃったんじゃないかしら。マシュー先生、石けんに関わることでしかお仕事をしないからそんなにお金をもらってるわけじゃないのにね」
「多分だけど、それだけ『弟子』を大事にしてるんだよ」
「それはあるわね! 私も弟子がいて、その子が王都で華々しくお披露目会をすることになったらきっと凄く誇らしいと思うもん。よし、マシュー先生には何か面白いお土産を買っていかなきゃ」
錬金術師には、珍しい物が一番喜ばれる。例えそれが役に立たなくても。それをカモミールはよく知っていた。
カモミールとヴァージルは王都の中でも比較的劇場に近く、様々な商品を扱っている商店が並ぶ通りに足を運んでいた。これはあらかじめ使用人に聞いて教えて貰った場所で、そこを中心に路地に入れば店の格も下がり、様々な層の品物を比較的狭い範囲で見ることができるそうだ。
あちこちウロウロとして、複雑な形で色合いが面白い拳ほどの大きさの鉱石を見つけたので、マシューにそれをプレゼントすることにした。役に立たなければ、手紙を書くときに紙を押さえる重しにでもすればいい。
マシューへの土産はついでであり、カモミール自身は新しく材料にできそうな物も物色していたのだが、残念ながらそちらの収穫はなかった。
「他にもお土産は買うのかい?」
布でくるまれた鉱石を受け取るカモミールを覗き込んで、ヴァージルが尋ねてくる。
「別に買わないわ。マシュー先生は特別よ、髪飾りの御礼ね。まがりなりにも師匠だし」
「じゃあ、僕もミリーに何かプレゼントしたら、お返しをくれる?」
「えっ? どういうこと? 何か欲しいものがあるの? それを直接買ったらいいんじゃないの?」
「うーん、そうじゃなくて、マシューさんが羨ましいっていうか……僕もミリーに何かプレゼントしたいなって」
なんだか煮え切らない態度でヴァージルが悩んでいる。
カモミールはヴァージルの口からプレゼントという言葉を聞いて思い出したことがあり、ハッと胸元のブローチを触った。
「そういえばね、この服をデザインして貰ってブローチを買った日に、最初はタマラがデザイン画にペンダントを描き込んでたの。それでペンダントなんて持ってないって言ったら、『ヴァージルにプレゼントさせなさい。ミリーがおねだりすれば給料注ぎ込んで買ってくれるわよ!』って言われて」
「タマラさん……あの人は何を言ってるんだ。それにしてもミリー、タマラさんの真似が上手いね」
「でしょ? そういうときのタマラって勢いがあるから真似しやすいの。私もね、いくらヴァージルが私に甘くても、そんなことは頼みませんって言ったのよ。その後宝飾店に行って、一目惚れして買っちゃったのがこのブローチなの。……これ、後で気づいたけどヴァージルの目と同じ色よね」
そういえばこのブローチをヴァージルの前で付けて見せたことはなかった。ヴァージルはカモミールの言葉に目を見開いてブローチを見つめ、顔を両手で覆うとその場にしゃがみ込んでしまった。
「うわー……これか、タマラさんが言ってたブローチって」
「こんなところでしゃがみ込んだら邪魔よ? どうしたの、ヴァージル」
「いや、いろいろ思うところがあって。ミリー、このブローチ、いくらしたんだい?」
「35万ガラムよ」
「えっ! 35万!? ミリーがそんな大金をこのブローチに出したの?」
「えーと……私も最初は買うつもりはなかったんだけどね、キャリーさんが『宝石は資産になるから、手元に価値が残り続けるんですよ』って言うから……ほ、ほら、このワンピースと色合いもよく合ってるでしょう? タマラが最初からバラ色で作って貰うって言ってたし……うーん、だって、一目見てこのブローチが絶対にいいって思っちゃったんだもん!」
「僕の目と同じ色だなって宝石のブローチに、35万」
「そうよっ! びっくりでしょ? 私もびっくりよ!」
言い訳がしづらくなってきたカモミールが半泣きになって開き直る。ヴァージルは片手で顔を覆ったまま立ち上がったが、その顔は見るからに赤い。
「35万はさすがに無理だけど、お店に行こう」
「え? 何のお店?」
「アクセサリーを置いてる店だよ。ほら、行くよ」
いつものヴァージルからは考えられないほどの強引さで手を引かれ、カモミールはわけがわからないまま宝飾店に連れて行かれていた。特に下調べをしてきたわけでもなく、ここに来るまでに歩いていて偶然見かけただけの店だ。
「いらっしゃいませ。何かお探しの品物はございますか?」
店の入り口に近いところにいた店員が丁寧に尋ねてくる。カモミールもヴァージルもそれなりに良い服装をしているし、何よりカモミールが目立つ場所に宝石を身につけていることが効いたようだ。
以前カールセンの宝飾店で最初に受けた扱いとは雲泥の差がある。
「真珠のアクセサリーをいくつか見せてください。できれば――彼女に似合いそうな髪飾りを」
「ま、待って、ヴァージル。どうしたの? 急に」
「いいから君はそこに座ってて」
店内には他にも何組かの客がいて、それぞれに店員が付いて接客している。ヴァージルは臆することなく、案内されたソファで店員が選び出してきた髪飾りを吟味し始めた。
その隣にちょこんと座りながら、カモミールは手のひらに冷たい汗を掻いていた。ヴァージルが何を考えているか全てはわからないが、ひとつだけわかることがある。
この幼馴染みは、よりによって孫がいる年齢のマシューに対抗心を燃やしているのだ。
髪飾り、とわざわざ指定したところにそれがよく現れている。
「うーん、こういった感じではなくて、できれば小粒の真珠をいくつも使って花をモチーフにしたような。地金は銀がいいかな」
ベルベットを張った台に載せられた品々を一瞥して、ヴァージルはすぐにそれらを下げさせた。その思い切りの良さに、カモミールは久しぶりに心の中で「ひえぇぇぇぇ」と悲鳴を上げる。
具体的な指示が出たせいか、今度は店員が品物を持ってくるまでに時間が掛かった。
「ねえ、今日は舞台を見に行ったりするから宝石を付けてるけど、私普段はそういう物に興味がないのよ? ヴァージルだったら知ってるでしょう?」
「知ってるよ。でも、僕がミリーにプレゼントしたいんだ」
「さっきのマシュー先生にだけお土産って話? 宝石を買って貰ってもそれに見合うお返しなんて上げられないわよー。マシュー先生は錬金術師だから、安くても面白そうな物なら喜んでくれそうだって思っただけだもの」
「お返しが欲しくてプレゼントするわけじゃないよ。ミリーは僕が選んだ物を受け取ってくれればいいから」
そこまで言われては仕方ない。カモミールは黙っておとなしくしていることに決め、ヴァージルは次に店員が持ってきた品々の中からひとつの髪飾りを選び出した。
それはヴァージルの注文通りに地金に銀を使っており、小粒の真珠が銀の枝に咲く花のように配された物だった。優美なカーブを描く髪飾りはほっそりとした形が可憐で、頭の側面に縦に付けるための髪に引っかける小さなリングが付いている。
「これをお願いします」
値段を確かめずにヴァージルが即決したので、カモミールは思わず彼の腕を握っていた。
「どうしたんだい?」
涼しい顔で笑っている幼馴染みがちょっと怖い。カモミールが小声で「値段を確かめなくていいの?」と尋ねると、彼は得意げに笑った。
「僕がいつもどこで働いてると思ってるの? 宝石はこれでも見慣れてるんだよ。使われてる地金と石の種類と大きさで大体の値段はわかるよ。これは15万くらい」
そう言われてみればそうだ。クリスティンは貴族と富裕層を主な客層とする店で、着飾った客が多い。ヴァージルが目利きになるのも当然だろう。
けれど、さらりと彼が言った金額の方にカモミールは悲鳴を飲み込んだ。