そこに立っているのは20歳の貧乏性な錬金術師のカモミール・タルボットではない。現実離れして美しく、可憐で、手で触れることが出来ない妖精・カモミールとして人々には見えていたのだ。
動く度にふんわり揺れるあんず色の髪に白いバラを飾り、目元は髪と同じ色で彩られてきらきらと輝いている。艶めく唇は主張の強くない優しいピンク色で、頬にもうっすらと紅が入っている。
注意深く見れば、それが丁寧な化粧を施された生身の人間だと思えただろう。
けれど、様々な演出やドレス、髪型に雰囲気と全てに気を配られた今のカモミールはまさに人間味を感じない「妖精」だった。
最初に拍手をしたのがどの令嬢かはわからない。その場の女性たちが皆呆けたようにカモミールに見とれたままで、拍手はどんどん広がっていった。
それを受け止めて微笑みながら、カモミールはもう一度礼をした。
「これらの品々はわたくしが花の妖精たちと、乙女の幸せを祈りながら作り上げたものでございます。全ては、美しさと幸せを求める女性のために。どうぞ、皆様への妖精からの贈り物を存分にお試しくださいませ」
「まあ……私も乙女かしら」
娘らしき令嬢を連れた貴婦人が、夢見るようにうっとりと「真珠の夢」を手にしている。カモミールは足音を立てずに彼女の側に寄り、その腕にそっと手を載せた。
「ええ、女性はいつだって麗しの乙女ですわ。心ときめかせる女性はなんて美しいのでしょう。あなた様のその笑顔をわたくしの化粧品が引き出せたのだとしたら、この上なく光栄に存じます」
ヴァージルをお手本にした穏やかな笑みを湛え、低い身長を利用して婦人を下から覗き込むと、真珠の夢を手にした彼女はまさに年頃の令嬢のようにはにかんだ。
「私のような年齢でも、このようなお化粧をしておかしくはなくて?」
「あら、おかしなことを仰るのですね。人間の命など、妖精の命に比べればほんの一瞬ですわ。ご自分が似合うと思われる、一番お好きなお化粧をされた方が楽しいのではありませんか? お化粧に年齢は関係ないと思いますの」
小首を傾げて見せるカモミールは妖精そのものだった。「なんと可憐な」「まるで名工の作り上げた人形のように美しいわ」とあちこちでカモミールを褒めそやす声が聞こえてくる。
「皆様、『真珠の夢』は試されましたか? ミラヴィアとの最大の違いはこの『真珠の夢』と、クリーム白粉、そして化粧水に香水に石けん。それはもう、皆様に喜んでいただきたくて毎日頑張って作りましたのよ。全部全部、お試しになってくださいな」
くるくると招待客の間を移動しながら、体重を感じさせない動きでカモミールは化粧品を勧めて回る。
「まあ……この香水は華やかなのにとても軽やかで素敵ですわ。『妖精の楽譜』という名前もとてもロマンティック。カモミール嬢にはこの香りが音楽として聞こえているのね。天才だわ」
香水を試した貴族の令嬢が褒めてくれたので、にっこりと笑みを湛えて礼をする。
軽やかなイメージからなんとなくで付けましたとは、この状況では決して言えない。
世の中、黙っていた方が良いことも多いのだ。
「愛しの君、ですって。名前に違わず情熱的なバラの香りですわ。これを恋文に付けたらどうかしら」
強めのバラの香りに心を躍らせている令嬢がいるので、カモミールは今度はそちらへ向かった。
「なんて素敵な思いつきなのでしょう! ――恋をしていらっしゃるのね。どうかわたくしの香水があなた様の力となりますよう」
胸の前で手を組んで祈れば、令嬢は感激に目を潤ませた。こうなると段々カモミールも「妖精を演じる」のが楽しくなってきていた。
「カモミール、そんなにくるくると動き回っていては、お集まりの方々がゆっくり品物を見られないわ。こちらへいらっしゃい」
「はい、マーガレット様」
侯爵夫人が笑いながらカモミールを呼ぶ。それに従って彼女の横に戻ると、小声で「甘えるようにして親しさを出して」と指示があったので、侯爵夫人の腕に自分の腕を絡め、カモミールは甘えるように彼女に頭をもたれかけさせた。
誰がどう見てもカモミールの存在は平民ではなく、「ジェンキンス侯爵夫人が領地で見いだした妖精」に見えるだろう。ふたりの親しげな様子に周囲も驚いている。
妖精、という言葉があちこちから聞こえてくる。その度に侯爵夫人とカモミールはクスクスと笑い合った。
「白粉にも香りがついているのね」
「はい、それはカモミール嬢が、お化粧する方がそれを楽しみながらできるようにと思われたからだそうです」
商品の説明は店員に移行していた。
カモミールの側に集まっているのは、カモミール自身に惹き寄せられた人々だ。
「とても美しいドレスですわ。まるで花びらのように重なって、色の重なりが素敵」
「ありがとうございます。バラの花で作られた妖精のドレスですから、とても軽くて着心地もよろしいのですよ」
「お母様、わたくしもこんなドレスを着てみたいわ! 軽やかで涼しげで、見たことのないデザインなんですもの」
年若い令嬢がそう言うのも当然だろう。シュミーズドレスが流行ったのは今から45年ほど前で、令嬢はおろか親世代でも実際に着ていた人はいないはずだ。
「それでは、バラの花からこのドレスを作り出してくれたドレイク夫人のお店に行ってみてはいかがでしょう? 同じ物はなくても、姫様にお似合いのドレスを仕立てて頂けるのではないかしら。姫様はとても艶やかな黒髪をしていらっしゃるから、サクラソウのようなドレスがきっとお似合いになりますわ」
ドレイク夫人すら「バラの花からドレスを仕立てた」とおとぎ話の中に引きずり込む。これで、シフォンの買い占めがようやく効いてくるのだ。
カモミールが思ったよりも楽しげに妖精を演じているので、侯爵夫人は満足そうに微笑んでいた。
その日一日で、先行してクリスティンに運び込んでおいた商品はあらかた売れてしまった。船で一緒に持ってきた在庫もあるのでそれを並べるにしても、話題性は非常に大きいだろう。
目の前でどんどん商品が売れるのを見ながら、カモミールは「やったー!」と叫びだしたいのを堪え、中身があるようでないような会話を令嬢たちと交わしていた。
「皆様、夢のように楽しいひとときをありがとうございました。またこうしてお目にかかれる日を心待ちにしております」
「カモミール嬢、思い出にずっと残る素敵な出会いでしたわ。ヴィアローズもとても素晴らしい化粧品ですわね。ああ、まるで夢のような時間でした」
締めの挨拶をすると、「ひとときの夢」にひたった招待客から賛辞と拍手が惜しみなく寄せられた。登場時と同じようにスカートを軽く摘まんで小首を傾げる可憐な姿でそれに応え、最後のひとりが店を出るまでカモミールは「妖精」として見送った。
「お疲れ様、ミリー。期待以上の出来映えよ」
「ありがとうございます、マーガレット様。本当に夢のような――わたくしにとっても素敵な時間でした。クリスティンさん、店員の皆さん、ご尽力ありがとうございます」
いつものカモミールに戻って深々と礼をすると、あちこちではっと息をのむ音がする。
「そ、そうよね。妖精じゃなくて、ヴィアローズの制作者で、れっきとした人間なのだわ」
「なんだか私たちまで妖精のように思ってしまって」
「カモミール、本当に侯爵夫人の仰るとおりの妖精だったわ。あなたにこんな才能があるなんて」
カモミールの変貌ぶりに、クリスティンすら驚いていた。
「タマラのデザインしてくれた衣装と、ヴァージルのお化粧、そして、妖精らしく見えるようにレッスンを施してくださった侯爵夫人を初めとする侯爵邸の皆様のおかげです。お化粧を落としたら、妖精のカモミールから、錬金術師のカモミール・タルボットに戻ります」
冗談めかして言うと、あちこちで和やかな笑いが上がった。
カモミールにとって忘れられない、「デビュタント」はこうして幕を閉じた。