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第90話 最後の特訓

 タウンハウスでの最初の夜は、お風呂に入り、割り当てられた部屋のベッドで横になるだけで終わってしまった。ずっと船に乗っていたせいで、地上にいるのにゆらゆらと揺れている感じが抜けなかった。

 侯爵家のタウンハウスはさすがに客室が多く、おそらくはその中でも小さい部類であろうという部屋が3人にはそれぞれ割り当てられた。


 船の中ではあまりだらしない格好をしているとタマラに怒られたが、ここは違う。ベルを鳴らせば用を聞きに侍女がやってくるが、それ以外ならベッドにうつ伏せになってぐうたらしていても怒られはしない。

 カモミールは真剣に「お金が儲かったら良いベッドを買おう」と思い始めていた。



 王都滞在の初日、本番用ではなく簡素に作られたシュミーズドレスを着てカモミールはお披露目会の予行練習をしていた。

 当日はクリスティンの店舗の2階にある支配人室で準備をし、侯爵夫人に呼ばれたのを合図にしてヴァージルのエスコートで階段を降りて行くという登場の仕方になっている。練習もそれを模して侯爵邸の階段を使って行われていた。


 練習から履いている靴は白く染色した革を使った、柔らかい履き心地でヒールの高さがないものだった。これはドレイク夫人の発案で、妖精なら素足とまでは行かなくとも、ヒールのある靴など履かないだろうということからだった。

 おかげで、窮屈さは全くなく、肌の色に近い靴なので目立ちもしない。本番は靴下も履かずに素足なので、余計に妖精らしさがある。今は汗を掻いて内側がペタペタしたりしないように、白い靴下を履いてはいるが。


「ヴァージルの手には指先が触れる程度に軽く手を乗せてね。あくまで軽くよ。体重を感じさせないように、踵までべったりではなくて爪先の方で歩くようにして。

 そう、残り3段くらいになって店内が見渡せるようになったら、スカートを摘まんでいる手を放してもう少し広げて――その角度よ、なかなか綺麗だわ。そのまま、小首を傾げて膝を曲げながらにっこりと笑って。バラの花が咲くようにね」


 カモミールは言われるがままに笑顔を作りながら、頬を引きつらせていた。

 侯爵夫人のイメージする「妖精らしく」見せるために、結構な注文を付けられているのだ。グリエルマと必死に練習した礼儀作法とはもはや全然違う物になっている。それはそれで、お披露目会の最中に人と話すときには必須の物ではあるだろうが。


「今の手の感じを忘れないようにね。そうそう、開いたときに手はビシッと伸ばさないで、自然に曲げて。――自然に見えるように曲げて。何かおかしいわね。中指を伸ばしてみて、小指はもっと曲げてみて。そう、それね! タマラ、スケッチしてあげて」

「かしこまりました」


 所々のポーズは決まる度にタマラが細かく描き留めていた。この形を完全に出せるように明日も練習なのだ。明日はタマラは外出し、侯爵夫人は王宮へ上がる。そして、カモミールの特訓にはヴァージルとイザベラとイヴォンヌが付く予定だ。

 イザベラが付くと聞いた時点で一度カモミールは目が死んだ。きっと侯爵夫人よりも厳しく指導されることだろう。


「ここの場面のポーズは決まったわね。ではもう一度、階段を降りるところから始めましょう」


 休憩を挟みつつもそれを何度繰り返しただろう。顔の筋肉が強ばりすぎて、明日笑顔を浮かべられる自信がなくなったところで続きは午後にということになった。

 何度も階段の上り下りをしたため、カモミールは歩き疲れてしまった。このまま会談に座りたいというのが正直な気持ちだ。カモミールの小さなため息を聞き取ったのか、ヴァージルがエスコートとは違う力強さでカモミールの手を握ってきた。


「階段の上り下りで疲れたよね? そこのテラスに出ようか。テーブルセットがあったから。部屋よりは近いし、外の空気も吸えるからいいと思うよ」

「ありがとう、ヴァージル。このまま連れて行って……」

「侯爵夫人、テラスでミリーを休ませて参ります」

「お願いね、ヴァージル」


 疲労困憊のカモミールの手を引いて、ヴァージルがゆっくり歩いてテラスへと連れ出してくれた。

 日頃から工房に籠もることが多く、外出も納品と買い出しと食事程度でしかないカモミールは、体格の割には力があるが体力はそれほどあるわけではない。

 こどもの頃はもっと走り回っていたせいで体力があったはずだが、街中で錬金術師をしているのと、農家のこどもとではそもそも運動量が違った。


 テラスには日除けのパラソルとテーブルセットが用意されていた。ここで庭を眺めながらお茶をするためのものだろう。カモミールは一番近い椅子にぐったりと座り込むと、テーブルに突っ伏した。


「ああああー、疲れたぁー。ありがとう、ヴァージル。しばらく休んでから部屋に行くわ」

「僕も付き合うよ。果実水でも持ってきて貰おうか?」

「そうね、今はお茶よりそっちが良いわ。助かる……ヴァージル本当に気が利くし優しいわね」

「おだてても何も出ないよ。――ねえ、ミリー。ミリーは、僕が急にいなくなったらどうする?」


 いつものように軽い口調で彼が言った言葉の中身だけが妙に重くて、カモミールは顔を上げて怪訝そうな表情を見せた。


「え……考えたことも無いわ。だって、ずっとあなたが側にいるのが当たり前だったんだもの」

「それは、この先もってこと?」

「んー、そうね。ヴァージルがいないのは想像つかないなあ。……って、私何か変なこと言ってない? そういう意味じゃないわよ!?」

「どんな意味でも、君がそう思ってくれるなら僕は嬉しいよ。果実水を頼んでくる」


 カモミールがひとりであたふたとしていると、ヴァージルはいつもの彼らしいふんわりとした笑顔を浮かべて席を離れた。

 それを見送って、カモミールは赤くなった頬を扇ぎながら空を見上げる。


「暑い……のは、レッスンのせいよね。ヴァージルのせいじゃなくて」


 ときどき、ヴァージルのことを考えると妙に胸が騒ぐことがある。今日もそうだった。

 その気持ちをまっすぐに見つめるのはなんだか怖くて、カモミールは見なかった振りをして横にどかしてしまうのだ。


 繊細そうで実際繊細なのに、見た目にそぐわず大食いで、自分にはとびきり甘い幼馴染み。自分のことをいつでも気に掛けてくれる、一番近しい友人。

 ――それでいいじゃない、と頭の中で誰かが囁く。

 そうよね、と声に出さずに誰かに返事をしたところで、笑顔の優しい幼馴染みが硝子の大きな水差しとコップを持って戻ってきた。

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