倒れたイヴォンヌは一刻ほどで目を覚まし、体調もすぐに回復した。
しかし彼女は倒れる直前のことは憶えていないらしく、「弟のトニー」については彼女が名前を出したことはおろか、その存在すら不明だった。
昼食前のお茶の相手をしてちょうだいと侯爵夫人から言われ、ラウンジのテーブルではカモミールとイヴォンヌも共にお茶をいただいていた。
「顔色は大分戻られましたが、どうぞご無理はなさらないでくださいね」
イヴォンヌを気遣ってカモミールが言うと、イヴォンヌは優しく微笑んだ。
「心配を掛けてしまってごめんなさいね。こんなことは初めてなのだけれど、倒れてしまうなんて。ヴァージルにまで凄く心配を掛けたようね。後で謝らないといけないわ」
「先程そっと船室を覗いてみましたけど、今は眠っておりますから昼食の折にでも一言くだされば喜ぶと思います」
「ヴァージルは……なんというか、繊細なのね。顔を合わせた程度の付き合いでしかないイヴォンヌのことでこんなにショックを受けるなんて」
クイーン・アナスタシアにミルクと砂糖をたっぷり入れて楽しみながら、侯爵夫人が目を伏せる。いくらかヴァージルのひととなりを知るイヴォンヌと、良く知るカモミールは思わず目を見合わせた。
「そうですね、見る限り彼は接客も化粧の腕もとても上手ですから、相手の気持ちを汲む力が強いのでしょう」
「時々こちらが驚くほど大雑把なときがありますが、繊細なところもありますし、人柄的にとても優しいのは間違いございません。わたくしとイヴォンヌ様が強い風で体を冷やさないようにとわざわざタマラからショールを借りてきてくれましたし……ですから、目の前でイヴォンヌ様が倒れたのは驚いたと思いますし、おそらく彼は知り合いならば誰が倒れてもショックは受けると思います」
カモミールは言葉のうちに「だからイヴォンヌが気にすることではない」という気持ちを含ませたのだが、それは正しくイヴォンヌと侯爵夫人に伝わったらしい。ふたりは軽く頷いていた。
「クリスティンが以前言っていたことがあるわ。化粧が上手い人は絵を描かせても素養がある事が多くて、人物画を描いている人に化粧筆を持たせると上手に化粧をしてくれる、って。
きっとヴァージルも画家のようなセンスと繊細さを持っているのでしょうね」
侯爵夫人の言葉にカモミールは無言で頷き、すっかり好物になったミルクティーを味わう。
そんな繊細でセンスのあるヴァージルは、屋台へ行けば「とりあえず串焼き3本」なのだと思うと内心カモミールは少しだけおかしくなった。
「あら、どうしたの、ミリー。何か面白いことでもあったのかしら?」
けれど顔に出やすいせいか、口の端の角度が変わった程度しか自覚がなかったのに、侯爵夫人には看破されてしまう。イヴォンヌは隣に座っていたために気づかなかったのだろう。
「いえ――その、繊細なヴァージルですが、一緒に屋台に食事に行くとまずは肉串焼きを3本頼んで、それを食べながら薄焼きパンを買って食べ歩くものですから。あれは繊細と呼んで良いものかどうかと考えましたらおかしくなってしまって」
「屋台で食べ歩きなんてするのね、楽しそうだわ。もしかして、王都でも食べ歩きをしてみたい? 私は経験がないけれど、市井の人たちにとっては一般的なものなのよね?」
「もし予定的に問題ないようでしたら、一度行ってみたいとは思いますが……よろしいのでしょうか?」
王都での滞在は僅か4日間だ。2日目に王妃セレナへの謁見とヴィアローズ一式の献上があるが、カモミールはそこは同行しない。翌日にあるお披露目会に向けて、王都に着いたら立ち居振る舞いのレッスンが詰められている。
「4日目は自由に過ごしてもいいと思っているわ。例えば美術館を見に行ったりして刺激を受けるのもあなたにとっては良いことでしょうし、興味があるなら今話題の舞台なども行って良いわよ。その時は事前に言ってくれれば侯爵家で席を押さえられるし」
「美術館に舞台……素敵ですね」
カモミールは侯爵夫人の提案を受けて考え込んでしまった。化粧品を作る上で、美術館や舞台は確かにアイディア的に参考になりそうだ。けれど、せっかくこの国の中心である王都に行くのだから、素材にできる珍しい物も探したい。
それを正直に打ち明けると、侯爵夫人は笑って4日目に舞台の席を押さえることを約束してくれた。その前後に街歩きをしながら店を見て歩き、時間に余裕があれば美術館に行けば良いということだ。事前に押さえておかなければならないのは舞台の席だけなのだから。
そして、屋台で食事をして帰ってきて、翌朝また船に乗り込んでカールセンへ向かう。スケジュールはそう決まった。
そして昼食時にはヴァージルも何事もなかったように起きてきて、船内で料理人が作ったという昼食のご相伴にあずかった。
それからの船での行程では、カモミールは暇な時間にラウンジに行ってはレシピを片っ端から紙に書き写し、それを終わらせてからはお披露目会での演出について侯爵夫人と打ち合わせを重ねた。
タマラは船室で壁に寄りかかって習作のデザインをいくつも描き上げ、ヴァージルはその隣でカモミールの顔を模して大雑把に輪郭と目鼻を書き込んだ紙に、唸りながら色を配して化粧の仕方を研究している。
カモミールから見て意外なくらいに、この船旅でタマラとヴァージルは仲が良かった。元々はカモミールを介して知り合ったふたりであるから、カモミールにとっては友人同士が仲が良いのは嬉しい。
けれど、たまにはラウンジに出てくれば良いのに、とも思う。
おそらくタマラはイザベラと鉢合わせるのが嫌なのだろう。最低限しか侯爵夫人と場を共にしようとしていない。ただ、直接声が掛けられればお茶にも出向いてくる。
ヴァージルの方は女性ばかりの場に遠慮しているのだろう。要らぬ遠慮ではあるのだが。
カモミールは侯爵夫人とお茶の席を共にすることにもすっかり慣れ、むしろお茶菓子目当てに待ちかねているような状態だった。なので、せっかくなのだからふたりも一緒にお茶をすれば良いのにと思っている。
特に、余ったお菓子を部屋に持ち帰るとタマラとヴァージルの手がさっと伸びてくるので、つい小言のひとつくらい言いたくもなるというものだ。
快適な船旅は3日目の夜には予定通りに終わり、王都シルヴェルの船着き場に待っていた侯爵邸の馬車で一行はタウンハウスへと向かったのだった。