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第88話 もう、これ以上

「ミリー、イヴォンヌ様を中へ運ぶからドアを開けて」

「わかったわ」


 カモミールがドアを開け、ヴァージルがイヴォンヌを抱きかかえてラウンジへと運ぶ。

 ラウンジのソファにヴァージルがイヴォンヌを横たえると、彼女の顔色は白く、まぶたは固く閉ざされていた。


「ど、どうしよう……お医者様は一緒に乗っていないのよね?」

「侯爵家の使用人の中にいなければいないと思う。顔色は悪いけど、呼吸は安定してる。眠っているようにも見えるけど、気絶じゃないかな。――失礼します」


 律儀に断りを入れてからヴァージルはイヴォンヌの手を取った。そして少し眉を曇らせる。


「手が冷たいかな。もしかして冷たい風に急に当たって貧血とか起こしたのかもしれない。時々ミリーが倒れるときも、こんな感じなんだ」

「そうなのね、私自身はよく憶えてないんだけど――ヴァージル、このショールもイヴォンヌ様に掛けてあげて。私、メリッサ様にイヴォンヌ様のことを伝えてくるわ」

「わかった。ミリー、船が揺れるかもしれないから走らないようにね」


 カモミールは頷くとラウンジを出て階段を下った。

 だから、背後でヴァージルが小さく呟いた声は彼女には届かなかった。



「お姉様……あなたは今でも僕のことを忘れきってはいなかったんですね……」


 掠れる声で呟いたヴァージルの方が、イヴォンヌより顔色が悪い。

 冷えたイヴォンヌの手を握りしめ、ヴァージルはその手に頬を寄せた。


「ごめんなさい、記憶を完全に消せれば良かったけど、僕の未熟さのせいで優しいお姉様に辛い思いをさせていた……」


 誰かに見られれば、イヴォンヌとヴァージルの関係を疑われるところだ。

 ヴァージルは自分の目に滲んだ涙を手の甲で拭って、カモミールから受け取ったショールをイヴォンヌに掛ける。そのまま、彼女の頭の近くに立って控えていた。


 バタバタという足音がヴァージルの耳に届く。こういうときカモミールは気配を消したりすることがないのでわかりやすい。走らなくても、早足になるのを堪えられなかったのだろう。


「イヴォンヌ? まあ、本当に顔色が悪いわ。でもヴァージルも酷い顔色よ。立っていないでソファにお掛けなさい」


 カモミールの後に続いてやってきたのは、メリッサではなく侯爵夫人だった。その後にイザベラがゆっくりと続いている。


「お気遣いありがとうございます。失礼します」


 ヴァージルはソファに座り、深くため息をついた。ヴァージルの焦燥した様子に気づいたらしい侯爵夫人が視線を向けてくる。


「目の前でイヴォンヌ様が倒れられたので驚いてしまいました。呼びかけても意識は戻りませんが、呼吸は落ち着いております」

「あなたがイヴォンヌを運んでくれたのね、ありがとう。それにしても、そんなに青くなるほど驚かせてしまったのね」

「いえ、マーガレット様、ヴァージルが顔色を悪くしたのはその前からなのです。わたくしがイヴォンヌ様と話して笑っていたとき、急に『消えてしまうかと思った』と青くなって私の腕を取って。

 そう、その後です。イヴォンヌ様が少し様子をおかしくされ、『あなたまで私の前からいなくならないで』と仰って。……マーガレット様、イヴォンヌ様に弟様はいらっしゃるんでしょうか? いえ、いらっしゃったのでしょうか。トニーのように、と確かに仰いました」


 カモミールの説明に、ヴァージルは俯き、侯爵夫人は顎に手を当てて考え込んだ。


「エドマンド男爵家には男子はいないわ。ただ、『私の知る限り』という注が付くけれども。私が嫁ぐ前のことまでは詳しく知らないから、もしかすると幼いうちに亡くなったイヴォンヌの弟がいるのかもしれないわね。そういった話は一度も聞いたことがないのだけれど……」


 エドマンド男爵家はカモミールが養子に入る話も出た家門である。その話は立ち消えたが、書類上男子がいるという話はなかった。


「脈拍も特に問題ございませんね。まぶたの裏は……やはり貧血のようでございます、奥様」


 イザベラがイヴォンヌを診て、貧血らしいと言う診断を下した。経験豊かな侍女であり、女性の側に長く仕えているだけあって、女性が陥りやすい症状に詳しいのだろう。


「イヴォンヌが目を覚ましたら、今日は無理しないように休ませましょう。もしかすると準備で疲れていたのかもしれないわ。このショールは?」

「それは私とイヴォンヌ様が外にいたときにヴァージルが風が冷たいからと持ってきてくれた物です」

「ショールはタマラから借りて参りました。貧血と言うことでしたら、何か掛ける物をお持ちした方がよろしいですね」

「イヴォンヌとメリッサの部屋はミリーたちの部屋の向かいよ。ベッドにある毛布を持ってきてあげてちょうだい。ミリー、場所を案内してあげて」


 ヴァージルが立ち上がったので侯爵夫人が頷き、指示を出した。それに応えてカモミールとヴァージルは階段を下り、侍女たちの部屋へと向かう。


「イヴォンヌ様が心配だわ」

「そうだね……僕も心配だよ」


 カモミールは自分の部屋の前に辿り着き、反対側のドアをノックした。いらえがないのでメリッサは今中にはいないのだろうと勝手にドアを開ける。

 この部屋もカモミールたちの部屋と同じようにベッドが4つだった。しかしどれがイヴォンヌのベッドかわからないので、カモミールは一番手近なベッドから毛布を取り上げる。


「どれでも同じよね。ここが別の方のベッドだったら、後でイヴォンヌ様のベッドから毛布を移せばいいだけだし。――マーガレット様も心配していらっしゃったわね。私が侯爵邸で倒れたときもきっと凄くご心配をお掛けしたのよね……」

「待って、侯爵邸で倒れたって? そんな話僕は聞いてなかったよ?」


 カモミールを覗き込むヴァージルは相変わらず顔色が悪い。うっかり口を滑らせた話でこの過保護な幼馴染みを心配させたと気づいて、カモミールは少し顔をしかめてからわざと軽く話した。


「いつもの頭痛よ。頭痛の薬を持って行ってなかったものだから、侯爵様とマーガレット様との晩餐中にまた急に頭痛を起こして倒れたの。ちょっと痛みが酷くて気を失ったんだけど、次の日にはもうなんともなかったわ。おかげで次の日は一日中安静にしてなさいって言われちゃって……そっちの方が大変だったのよ」

「ミリー、そんなに意識を失うほど辛い頭痛が何度も起きてるの? 僕の前以外で?」

「たまーに、たまーに、よ。それにヴァージルが頭痛の原因のわけはないでしょ。いつどこで起きるかわからないだけ」

「……良くないよ。絶対良くない」

「そうね、その時診察してくださったスミス先生は、原因がわからなければ錬金医に見てもらうのもひとつの手だと仰ってたわ。通常の医学を飛び越えて、原因を解決することがあるからって。でも私の知ってる腕のいい錬金医って、ガストンなのよね……。それで行くに行けなくて、そのままになってるの」


 ヴァージルが毛布を抱えて歩きながら俯いていることは、前を歩くカモミールからはわからなかった。



 ラウンジに戻るとカモミールはイヴォンヌに掛けられたショールをどかし、ヴァージルがそこへそっと毛布を掛けた。


「それでは、わたくしは失礼いたします。意識のないご婦人の側にいるのも無作法かと思いますので」

「あら、イザベラにお茶を用意させているところよ。あなたも顔色が悪いのだし、温かい物を飲んでからにしたら?」

「侯爵夫人のお気遣いはありがたく存じます。――ですが、わたくしも少し船室で休みたいと思いますので」

「ヴァージル、本当に顔色が悪いわ。大丈夫?」


 カモミールはヴァージルの異変に気づいて、その手を取った。先程外にいたカモミールよりも手が冷たくなっている。


「まさかヴァージルまで貧血?」

「貧血を起こしたことがないから自覚症状はよくわからないけど、頭から血が下がったような感じだよ」

「それは良くないわ。王都についてからが大変なのだから、今はゆっくりお休みなさい?」

「はい、失礼いたします。――ミリー、そんなに心配そうな顔をしなくてもいいよ。部屋で横になってるから。君はお茶を楽しんで」

「辛かったらすぐに言ってね? 私に何ができるかわからないけど」


 カモミールの言葉にヴァージルは弱々しく微笑んで頷き、ラウンジを出て行った。



 ヴァージルに宛がわれた船室は使用人と一緒だったが、幸い今部屋には誰もいなかった。

 精神的にショックを受けたせいで、少し具合が悪くなったのは確かなことだった。自分のベッドに潜り込み、壁を向いて丸くなりヴァージルは独りごちる。


「もう……ミリーに魔法は絶対使えない。駄目だ、これ以上彼女を苦しませるなんて。僕の役目は終わってないけど、ミリーを壊したくない……いざというときには、またあそこから離れるしか……でも、その時に記憶を消すことでミリーに負担が掛かるなら……僕は、どうしたら」


 きつく目を閉じると、涙がこぼれて顔を伝い枕を濡らした。

 誰にも見られぬように頭から毛布を被り、いつしかヴァージルは眠りに落ちていた。

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