船の中でレシピを書いておけとテオに言われてはいたが、カモミールは初めての船旅にそれどころではなかった。
乗船してきた場所は船内に入ればすぐラウンジになっており、ソファとテーブルのセットがある。周囲はガラス張りで景色も楽しめる。
食事室は厨房と一緒にひとつ下の階にあるので、こちらは本当に日中の居場所でくつろぎながらお茶などを飲むために使うのだろう。
カモミールはラウンジのドアを開けて甲板に出た。陸の上にいたときとは違うように感じる風が興味深い。
川幅は大きく、船も大きいのでそれほど速度が出ているようには見えないが、一番近い岸を見ていればそれがみるみる遠ざかるのがよくわかった。馬車の揺れは荷馬車から侯爵家の馬車までいろいろ乗っていて「これでもか」というくらい知っているので、この速さで移動しながらも振動が少ないというのが感動だ。
船の動力は現在は主に風だが、それに変わる安定した動力を研究している錬金術師もいるそうだ。それは果たして錬金術師のやることなのだろうかと少し疑問になるが、面白そうと思ったことには首を突っ込まずにはいられない人たちなのだ。元々が錬金術師なら、どんな研究をしていても不思議ではない。
そういう自分も、錬金術師とは少し言い難い分類に入るだろう。
今日はバラ色のワンピースを着ているので、髪の毛はいつものお下げではなく、編み込んでアップにしている。それをカモミールは良かったとしみじみ思った。甲板で感じる風は結構強く、お下げにしていたら髪が暴れただろう。
「ミリー、ここにいたんだ」
ラウンジに上がってきてカモミールの姿を見つけたのか、ヴァージルが甲板に出て来た。
「うん、だって外が楽しそうだったんだもん」
「大きい船はいいね、揺れがあまり感じなくて。それとも、川だからなのかな?」
「どうなんだろう? もっと激しい流れの川なら確かに揺れるかもね」
「ミリー、そんなに身を乗り出すと危ないよ」
「ちゃんと手すり掴んでるから平気平気」
いくらなんでも、こんな川に落ちるつもりはない。川を見ていると時々白波が立つことがあり、よく見ると魚が跳ねるのも見える。
「魚が跳ねてる! 凄い! もしかして船の上から釣れるかしら。今晩は魚料理だったりして!」
「この速さで走ってる船の上から? うーん、網の方が確実そうだね」
ヴァージルは風上に回ってカモミールに当たる風が弱くなるようにさりげなく位置取りをして、たわいないおしゃべりに付き合ってくれた。自分ひとりで川を見ているより、こうして彼が隣にいて相槌を打ってくれたりするととても楽しい。
それに、わざわざ回り込んで風除けになってくれるのがいかにもこの幼馴染みらしい優しさだった。カモミールの胸の中が、それにじわりと温かくなる。
「ミリー、ヴァージル、川を見ていたの?」
今度はイヴォンヌがやってきてふたりに話し掛けた。彼女は強い風に髪とスカートを押さえている。
「はい、大きい船に乗るのもロフ川を上るのも初めてで、とても楽しいです」
「ミリーがこどもの頃舟から川に落ちたことがあるので、隣で見張っているんです」
「まあ、ミリーったらそんなことをしたことがあるの?」
「夏に川遊びをしているときに釣りに使う小舟に乗ったんですが、身を乗り出しすぎて落ちてしまいまして……舟の上のヴァージルが慌てて手を差し出してくれて、兄も乗っていたので助けてくれましたが。そもそもその川は、それほど大きな川ではなかったので」
「それでも大事に至らなくて良かったわね」
「イヴォンヌ様は、マーガレット様の御用はないんですか?」
「前もって船に荷を積んで置いたから、今すぐ広げなければならない荷物は少ないのよ。もう少ししたらお茶にするけれど、それまでは船室に籠もっていることはないから私とメリッサは見物していらっしゃいとの仰せなの。
お隣、いいかしら?」
イヴォンヌがヴァージルとは反対側のカモミールの隣にやってくる。それを見てヴァージルがすっとふたりから離れた。
「一旦失礼します。イヴォンヌ様、くれぐれもミリーが危ないことをしないよう、ご注意をお願いいたします」
ゆったりと揺れる船の上でも、ヴァージルの礼は優雅だった。船酔いを心配している人間とは思えないくらいだ。
「もしかして、お邪魔してしまった?」
「いえ、そんなことはございませんのでお気になさらず。久々にイヴォンヌ様とお話し出来て嬉しいです」
「もう、ミリーったら本当に可愛いわ! 以前のように怯えなくなったけども、その素直さが残ってよかったと思っているのよ」
今でもカモミールは多少の緊張はする。けれど、それは「必要な緊張」であって、「過剰な緊張」ではない。
イヴォンヌを始め侯爵夫人やクリスティンにも心配を掛け、侯爵夫人に至っては「荒療治」をとったわけだが、申し訳ないという思いと共にカモミールは感謝の気持ちも持っていた。
しばらくふたりで出会った頃の話などをしていると、ヴァージルが腕に何かを抱えて戻ってきた。
「甲板の上は思ったより風が強いですから、お風邪などを召されませんよう」
ヴァージルが持ってきたのは大きなショールだ。カモミールとイヴォンヌのことを心配したのだろう。先にイヴォンヌの肩にショールを掛け、カモミールのこともショールで包んでくれる。
「あら、ありがとう、ヴァージル。あなたはとても優しいのね」
イヴォンヌのお礼の言葉に、ヴァージルは目を細めてはにかむように微笑んだ。
「ほら、ミリーも。お披露目会の前に風邪を引いたら大変だよ」
「ありがとう。本当にヴァージルってよく気がついて優しいわよね。……前にドレスのデザインを決めたときなんて、下着一枚で立たされたままでタマラとマーガレット様とドレイク夫人の議論が白熱しちゃって、そのまま放置されちゃってね……。肌寒いし、いつまでこうしていればよろしいのでしょうと聞こうとしたら、タマラとマーガレット様に『あなたの意見は取り入れないわ!』って言葉を封じられてしまって。ドレイク夫人が気づいてショールを掛けてくれたんだけど」
「ああ、あの時のことね。私が側にいれば気づいてあげられたのだけれど、あの時は部屋の外で控えているようにとのことだったの」
「そうですね、イヴォンヌ様があの場にいらっしゃったら、きっと私は下着一枚で立ちっぱなしということはなかったと思います。今ヴァージルがしてくれたようにショールを掛けてくださったかと。――しみじみ思うのです。私は周りの人に恵まれているのだと。タマラとヴァージルがいなかったら今の工房を持って仕事をすることはきっと適わなかったでしょうし、イヴォンヌ様があの日いらっしゃらなかったら、ドレスを貸していただくこともなかった。こうして今でもイヴォンヌ様に気に掛けていただいて、私はとても幸せです」
「ミリー、そう思って貰えて私も……」
「ミリー! ……あ、ごめん」
ヴァージルが青い顔でカモミールの腕を掴んでいた。しかし別に船が大きく揺れたわけでも、強い風が吹いたわけでもない。
「どうしたの? 急に」
「いや……君が幸せそうに笑った顔がいつもと違って見えて、このまま消えてしまいそうで……ごめん、ミリーは最近急に綺麗になったから、ふっとどこかへ行ってしまいそうに見えるときがあるんだ」
「綺麗になったから消えてしまうって……面白いことを言うのね、ヴァージル。衣装合わせでドレスは着て見せたじゃない。でも別に私は飛べるようにもならないし、妖精でもないわ。ただの人間よ」
「ふっとどこかへ……消えて……ミリー、消えてはいやよ。あなたまで私の前からいなくならないで」
僅かに目の焦点の合っていないイヴォンヌがカモミールの手を取り、ぎゅっと握りしめる。
「イヴォンヌ様? 大丈夫です、私はどこにも行きません」
「そうよ、いなくならないで、私の弟のように――トニーのように」
「イヴォンヌ様!」
カモミールの前で目を閉じたイヴォンヌがふらりと上体を揺らし、カモミールは思わず彼女の名を呼んでいた。
イヴォンヌがそのまま倒れ込もうとしたとき、彼女を抱き留めたのは青い顔のままのヴァージルだった。