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第86話 船旅の始まり

 初夏の装いに身を包み、今回の王都行きのために買った大きなトランクに荷物を詰めてカモミールは船着き場へとやってきた。タマラとヴァージルもそれぞれ大荷物である。――正しくは、ヴァージルの荷物が一番少なくなったので、カモミールの化粧品一式は彼が持っているのだが。


 船着き場はカールセンの街外れにある。昔はこの川が国境になっていて、攻め込まれるときにはかなり防衛有利だったようだ。逆に、隣国に攻め込む場合には川を渡り、川を背にして戦わないといけないので苦戦したと聞く。

 テオドール・フレーメの追求心に端を発した戦争の痕跡ではあるが、今は川は穏やかに悠々と流れ、悲惨な戦争の歴史など一切感じさせない。


 この国の物流は馬車ももちろん重要だが、川が多いために船も多い。今日も荷揚げをする人足などの景気の良い声が飛び交っている。

 その多くの船の中に、趣の違う一際大きな船があり、一目で侯爵家の船とわかった。そもそも側面に紋章が入っているのだから見間違えようがない。


 荷物を運ぶためではなく、人を運ぶための客船である。その大きさにカモミールの胸は弾んだ。実家の近くにも川はあり、小さな船に乗ったことはあったがこんなに大きな、しかも設備が整っているであろう船に乗るのは初めてだ。


 水面を渡る風に吹かれながら、カモミールはこれからの道中を思った。

 船で約3日掛けて王都へ行き、お披露目会に出席し、王都のいろいろな物を見てからまた船で帰ってくる。それだけといえばそれだけなのだが、この国の文化の中心である王都に行けるということがまず嬉しいし、更には船旅というのも楽しみだ。


「ミリー、嬉しそうだね」


 バラ色のワンピースを着ていなければ、カモミールはぴょんぴょんと飛び跳ねていただろう。それをヴァージルに見抜かれて、カモミールは照れ笑いを浮かべる。


「だって、あの船に乗るのよ? しかも船旅! ロフ川で船に乗るのも初めてだし、すっごく楽しみ! ヴァージルは楽しみじゃないの? タマラは?」

「うーん、船酔いしないかなってことが心配だったりはするね」

「私は船そのものより、王都の方が楽しみよ! いいんじゃない? ミリーは全部が楽しみってことよね」

「ヴァージルって船酔いするたちだっけ? 昔うちの近くで一緒に川船に乗った時は平気だったわよね?」

「小さい船と大きい船を一緒にしないで欲しいよ……あの時はミリーが身を乗り出しすぎて川に落ちて大変だったじゃないか。船酔いどころの話じゃないよね」


 痛いところを突かれ、カモミールはぐうと呻いておとなしくなった。

 そこへ馬車が近付いてくる音がしたので、ぴしりと立ち直して侯爵夫人の到着を待つ。


 侯爵家の馬車からはまずはイヴォンヌが降りてきた。イヴォンヌが手を貸して侯爵夫人と侍女らしき人が続けて降り、最後に降りた年嵩の侍女が馬車の中を全て確認してから扉を閉める。もう一台の馬車の方からはふたりの男性の使用人が、荷物を持って降りてきた。荷物は一見少なく見えるが、既に船に積み込まれているのかもしれないと心当たる。


「マーガレット様、この度はこのような機会を設けていただき、誠にありがとうございます。船旅を楽しみにしておりました」

「まあ、ごきげんよう、カモミール。楽しみにしていてくれたの? それはよかったわ。ふふ、前のように緊張で3日間ガチガチになったりしていたら保たないものね。タマラもヴァージルもごきげんよう。王都に付き合って貰えて嬉しいわ」

「マーガレット様、こちらこそ望外の栄誉に預かり、光栄にございます」

「侯爵夫人におかれましてはご機嫌麗しゅう存じます。この度の一行の末席に加えていただき、感謝にえません」


 タマラとヴァージルも侯爵夫人と挨拶を交わす。このふたりの礼はやはり美しい。タマラは騎士爵家の嫡男として過ごした長い年月に裏打ちされたものであり、ヴァージルは普段から動作に優雅さがある。


「ちょっと厳しい侍女がいるけど、あまり堅苦しく思わないでちょうだいね。イヴォンヌのことはみんな知っているわね? こちらはイザベラ、私が幼い頃から面倒を見てもらっている最古参の侍女よ。グリエルマ先生よりある意味厳しいの。そしてこちらはメリッサ。タウンハウスにも侍女はいるから、こちらから連れて行くのはこの三人ね」


 カモミールもイザベラの話は何度か聞いていた。サマンサとドロシーからも聞いているし、侯爵夫人からも聞いている。逗留していたときに顔を合わせていたはずだが、改めて紹介されたのでふたりにも頭を下げた。


「イザベラ様、メリッサ様、道中よろしくお願いいたします。お手を煩わせる様なことはないと存じますが……」

「ええ、カモミール嬢はご自分のことはご自分でできる大人だと伺っております。心配しておりませんよ」


 髪に白い物が混じったイザベラが鷹揚に頷き、侯爵夫人は口元に手の甲を当てて苦笑した。


「嫌だわ、イザベラったら。私が身の回りのことができないこどもみたいな言い方をして」

「奥様はそのようなことはする必要がない、と育てられておりますしね。さあ、おしゃべりは船の中にいたしましょう」


 イザベラが手を叩いてその場を締める。侯爵夫人にさえ有無を言わせない貫禄はさすがの物だった。

 ゆらりゆらりとゆっくり大きく揺れている船に恐る恐る乗り込むと、イヴォンヌがカモミールとタマラの部屋と、ヴァージルと使用人の部屋を案内してくれた。どちらもベッドが4つ壁にくっつけて置かれている部屋で、寝るとき以外はラウンジなどにいることになりそうだ。


「わあああ! まだ出港してないけど、思ったより揺れないのね! この揺れ方だったら逆によく眠れそう」


 はしゃぐカモミールに、窓際のベッドに腰掛けてトランクを置きながらタマラが呆れる。


「ミリーったらお気楽ね。ここには椅子もないから、書き物をするにもラウンジに行かないと厳しいわよ。そして、ラウンジに行くとマーガレット様だけじゃなくてイザベラ様もいるのよ?」

「……タマラが恐れるくらい厳しいの?」

「そりゃもう! だって、ロンズデール侯爵家からマーガット様についてきた筆頭侍女よ? 侯爵様すら頭が上がらないのよ? 隠居なされた大旦那様と大奥様が邸内にいらっしゃらない今では、侯爵邸内の最高権力者と言っても過言ではないわ。まあ、その権力を振るうことってそうそうないんだけどね。

 とにかく、礼儀作法には厳しいしねー」


 以前晩餐の時に侯爵夫人が言っていた「礼儀作法に厳しい人」はイザベラのことなのだろう。

 今回は侯爵邸に逗留したときのようには扱われないはずだが、できるだけ食事も侯爵夫人とは別にさせて貰おうと決めたカモミールだった。

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