ヴァージルが手際よくテーブルの上に化粧に使う道具と化粧品を並べる。まずここに着くまでに付いてしまった埃を取るためにカモミールの顔を化粧水で拭いてから、改めて化粧水を手のひらで押し込むように付けてくる。
「こちらが新しい製品のひとつ、クリーム白粉です。下地クリームと白粉を混ぜ、塗りやすくムラにならない固さに調節しております」
クリーム白粉をまず侯爵夫人に見せて説明し、カモミールはそれをヴァージルに渡した。ヴァージルは昨日カモミールに化粧を施してからこのクリーム白粉の塗り方について相当考えたのだろうか、昨日とは違う手順でカモミールの顔に白粉を伸ばしていく。
まぶたの上にも白粉を塗り広げるヴァージルの指の感触はとても優しい。
「さすがクリスティンの店員ね。とても手際がいいわ」
「お褒めに与り光栄です」
白粉を塗り終わり、柔らかな笑顔でヴァージルが頭を下げた。
「下地クリームを付けてから白粉を粉の状態ではたくのとは、また違った仕上がりになっております。マーガレット様はどちらがお好みでしょうか?」
キャリーとヴァージルがこれは人によって好みが分かれると断言したものだ。侯爵夫人はカモミールの顔をしみじみと見た後で頷いた。
「私自身は下地クリームを塗ってから白粉を付ける方が好きよ。お化粧の手順は確かに面倒と思う人は面倒でしょうけども、侍女がしてくれるものだし、ひとつの工程を重ねる毎に自分が変わっていくのが楽しみでもあるの」
「大変参考になります。確かに、主な購買層である貴族の方々の場合は、自らの手でお化粧をされるということはあまり考えられませんね……」
「それはそうだけれど、人によってはこの自然な仕上がりを好む人も必ずいるわ。それで、『新しい製品のひとつ』とあなたはさっき言ったけれど、詰まるところこれひとつではないのよね?」
さすがに侯爵夫人は話が早い。カモミールは今度は雲母の粉を入れた容器を開けて見せた。
「左様にございます。こちらがもうひとつの新商品で、雲母を砕いた粉で作られております。毒性はなくほとんど色も付かず、肌に載せることできらめきと艶を出すことができるものとなっております。ヴァージル、実演をお願い」
目を閉じると、ヴァージルが大きなブラシでさっとカモミールの顔に雲母の粉を塗り広げる。あくまで筆の動きは軽く、すぐにまぶたを除く顔全体に薄めに粉が塗られたのを感じた。これからアイシャドウだと思って目を閉じたままでいると、思った通りヴァージルの指がまぶたの上を滑っていく。
仕上げに小さなブラシでまぶたの色の上に粉を重ねられ、筆が完全に離れたことを確認してからカモミールは目を開けた。
「まああ……素敵ね! この粉ひとつでこんなに仕上がりが変わって。特にアイシャドウの上に濃く粉を重ねた部分がいいわ。きらめく目元が夜会では絶対にもてはやされてよ。
驚いたわ。あなたが帰ってからまだ三日なのに、新しい物をもう作り出したのね。これはとても面白いわね。間違いなく流行するわ。それで、何という名前なの?」
カモミールの化粧が終わったことを確認して、一旦イヴォンヌがポットを持って下がった。熱い湯と入れ替えてくるのだろう。
名前という問題に直面して、カモミールは困り果てた。白粉の方はクリーム白粉というわかりやすい名前でいいかもしれないが、こちらは「きらめく粉」という雑な名で済ませるわけにはいかない。
「名前……はまだございません。わたくしは名付けはあまり得意ではなく、いつも苦心して絞り出しております」
「では私が付けてもいいかしら。『真珠の夢』というのはどう? この光沢は真珠を思わせるわ。材料を明かさないのなら、高級感を感じさせる名前の方が良いはずよ。それでなければ『月の輝き』なんていうのも良いわね。とにかくロマンティックな名前にしましょう」
「真珠の夢に月の輝き……どちらも素敵で、わたくしには選べません。最初に雲母を見つけるまでは真珠を実際に使うことも考えておりましたが、原料として高価すぎるので候補からはずしたのです。ですので、真珠の夢という名もしっくりときますし、淡い輝きがまるで月のようとも感じます。困りました……」
真剣に悩むカモミールに、侯爵夫人もしばし考え込んでいたがふと何かを思いついたように手を叩いた。
侯爵家に勤める女性たちが交代で呼ばれ、雲母の粉とカモミールに施された化粧を見て「真珠の夢」と「月の輝き」のどちらがより心躍らせる商品名なのかを選んでいく。
結果として、僅差ではあったが支持されたのは「真珠の夢」だった。理由としてはいろいろあったが、まとめると「月の輝きは手の届かない美しい物ではあるが、真珠は実物がそのまま高級感に繋がり、真珠の見る夢はどのようなものだろうとロマンティックな空想をかき立てられる」というものだ。
この場でより多くの女性の支持を得られたと言うことは、一般に流通させても似たような感想を持って貰えるだろう。
「名付けまでしていただき、光栄にございます。白粉の上から重ねてもよいものですので、この『真珠の夢』はこれだけでひとつの製品と考えております。おそらく、使われる方によって使い方が変わってくるものでもございますし」
「そうね、私も最初はまぶたに濃く塗るというのは想定していなかったわ。ヴァージル、あなたのお化粧の腕はとても確かなものね。クリスティンにも伝えておくわ。――それで、ミリーは午後の行儀作法の授業があるから昼食も一緒にと思っているのだけれど、あなたはどうかしら? 都合さえ付くのなら食事にお誘いしたいわ」
「侯爵夫人直々のお誘い、ありがたく存じます。ですが店の仕事が残っておりまして、失礼ながらわたくしはここでおいとまさせていただきます」
てっきりヴァージルも侯爵家で昼食を食べていくとばかり思っていたカモミールは、「えっ、帰っちゃうの?」と言いそうになってぐっと言葉を飲み込んだ。確かに、ヴァージルには急に予定を開けて貰っている。侯爵夫人ならともかく、カモミールが引き留める筋合いの話ではない。
「そう、残念だけどまた会う機会もあるでしょう。それではごきげんよう」
「失礼いたします」
ヴァージルは化粧道具を手早く片付けると、クリーム白粉と雲母の粉だけを残し、侯爵夫人に辞去の挨拶をする。そして、『真珠の夢』の名前を決める間にお茶を淹れてくれ、そのままその場に控えていたイヴォンヌにも深々と礼をして去って行った。
ヴァージルがいなくなった後で、侯爵夫人がカップを傾けてしみじみと「面白い子ね」と言った。
「面白い、と仰いますと?」
「クリスティンは基本的には女性しか採用していないのよ。そこに採用されて、礼儀作法にも通じ、私の前で緊張を見せないなんてかなりの逸材だわ。ミリーはいつもお化粧は彼にして貰っているの?」
「大事な場面ではヴァージルにして貰っております。以前お茶にお招きいただいた際に、きちんと部屋を借りて済むようにとのお言葉をいただきましたので隣家に間借りをしておりますが、そこは元々彼の知人の家で、彼も同じ家に間借りをしているのです」
「そうなの? もしかしてミリーの恋人なのかしら?」
「いいえ、恋人ではございません。幼馴染みなのですが、彼は私を妹のように思っているのかとても面倒見がよくて……」
「まあ、ミリーったら」
侯爵夫人はカップを置いて呆れたようにため息をついた。この反応は非常に見覚えがある。タマラがヴァージルとカモミールの関係についてつついてくるときと同じ種類のものだ。
「……いえ、私が言うのも野暮というものね。ふたりが親しくて、ミリーのお化粧については一番安心して任せられる相手というのは間違いないのよね?」
「はい、それは間違いございません。昨日試しにしてもらった時よりも、今日は格段に手際がよくなっておりました。まぶたの上に濃いめにアイシャドウを塗り、雲母の粉を多めに付けることも彼の発案ですし、彼の腕については全幅の信頼を置いております。……そういえば、そのお茶にお招きいただいた際、イヴォンヌ様から借りた服に合わせて化粧を施したのも彼でございます」
「なるほど、わかりました。では、王都に行くときには彼にも一緒に行って貰いましょう。ミリーを最高に美しく見せるためには、きっと彼の腕が必要だわ」
侯爵夫人の突然の宣言と有無を言わせぬ笑顔に、カモミールは思わず息を止めた。