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第73話 日常へ戻る時

 時刻は既に夕刻となっている。侯爵邸でのレッスンの日程を終了し、カモミールは晩餐を辞退して帰りの支度をしていた。

 晩餐を辞退したのは、王都に行っても貴族と食事の席を共にする機会はまずないだろうという理由からだ。――表向きだけの理由であるのだが、早く帰りたい理由がカモミールにはある。


 サマンサとドロシーの手を借りてドレスを脱ぎ、着てきた白いブラウスと紺のスカートに着替える。髪もいつものお下げにしようとしたが、ドロシーが素晴らしい手際で編み込んでアップスタイルにしてくれた。

 化粧は落とそうかどうしようか迷ったが、ジョナスの夢を壊さないようにこのまま帰ることにした。



 侯爵一家が居間に集まっていると聞き、挨拶のためにそちらへ向かう。案内してくれたドロシーが扉をノックし、中からイヴォンヌが扉を開けてくれた。


「カモミールです、失礼いたします。おいとまいたしますのでご挨拶に参りました」


 侯爵邸で身につけた礼を披露すると、全員が立ち上がって迎えてくれた。


「ミリー、もうかえってしまうの? また来てくれるわよね?」


 真っ先に話しかけてきたのはやはりアナベルだった。カモミールの間近から見上げるその姿は、本当に愛くるしい。


「はい、グリエルマ先生から後2回は礼儀作法の授業を受けに来るようにと言われておりますし、お茶会でも、お仕事でも、機会があれば参ります」

「わたし、ミリーにねり香水を作らせてもらって、とってもむねがはずんだの! ほんとうにほんとうに楽しかったわ」

「姫様、どうかそのワクワクする気持ちを大切になさってください。

 世界は広くていろんな知識が溢れていて、それに触れることはいつでも心躍る体験なのです。近寄りがたく見えるものもあるかもしれません。『恐れるべからず』とは錬金術師が最初に学ぶ心得なのですが、未知の暗闇を恐れずに切り開いた人々の知識が、今の時代を作ったのです」


 知識を得ることはとても楽しいことだとカモミールは知っている。今日の体験がアナベルの今後、未知なることへ踏み出すときに背中を押す出来事になってくれたら嬉しいと思った。


「ミリー、あなたも『恐れるべからず』よ」

「はい、マーガレット様が仰るとおりです。私は知らないことで上流階級の方を恐れていました。ありがたくもこうして皆様に身近に接していただいたことで、今は恐れはなくなりました。錬金術師の誇りを持って、これからも未知の部分を知識の光で切り開いて参ります」


 侯爵夫人の一言に、カモミールは短い間の逗留で得たものがあることを伝えた。彼女とはまた何度も会うのだ。これからも成長していく様を見てもらえば良い。


「大変立派な心がけだと思うよ。知識と知恵と勇気が備われば、大抵の苦難は乗り越えていける。カモミール嬢は私の目から見てもそれを兼ね備えていると思うね。

 君はジョナスに大事なことを教えてくれたようだ。当代の侯爵として礼を言う」


 侯爵が簡易的だが礼を取って見せたのでさすがに少し慌てると、カモミールの気持ちを看破した侯爵夫人がそれを代弁してくれた。


「あら、あなたは前のミリーを知らないからそんなことを言えるのよ。今でこそ堂々としているけれど、この子の本来の気質は大地に根付いた市民としてのものなの。領主がそのように頭を下げたら、驚いてしまうでしょう?」

「ははは、そうか。では領主らしく威厳を持って言うとしようか。

 ――カモミール・タルボット、我が領地に対する日頃の貢献、また当家の嫡子に対する誇り高きを求める行動に礼を言う。そなたがタイムの枝が表す勇気と、これからも共にあらんことを祈ろう」

「ありがたきお言葉にございます。カモミール・タルボット、そのお言葉を生涯の栄誉といたします」


 威厳のある領主として言葉をくれた侯爵は、カモミールが深々と礼をするとまた親しみやすい笑顔に戻った。こちらの方が素なのだというのがよくわかる。


「妖精の君――いえ、カモミール嬢。お帰りになってしまうのですね」


 最後に声を掛けてきたのは、見るからにしょんぼりとしたジョナスだ。カモミールはその前に屈んで、同じ目線の高さで彼を見る。


「ジョナス様、わたくしはおいとまいたしますが、今生の別れというわけではないのですから、そのように悲しい顔をなさらないでください。これから先も何度だってお会い出来ます。

 ……タイムの逸話で、ひとつ思い出したことがございました。300年近く昔にこの地が戦場となったのは、隣国が錬金術師の技術を狙って攻め込んできたためと聞き及んでおります。

 切っ掛けとなったのは奇しくもこの地に住んだテオドール・フレーメというひとりの錬金術師――彼は錬金術の頂点に至り、金を作り出したのです。テオドールが自らの好奇心に正直に一心不乱に探求を続けた結果が、彼の死後に戦争を引き起こしました。

 テオドール自身は悪ではありません。金を作ることもそれ自体は罪ではございません。ですが、結果として不幸を招いてしまった……人の欲というものは恐ろしいですね。

 その後、金の作成は各国の法で禁じられました。現代の錬金術師では金を作り出すことは適いませんが、法で禁じられたという事実は大変に大きいのです。

 ジョナス様、未来のご領主として、勇気と共にふさわしき知識を得られますよう。法の力は領民を守る力にもなるのです。テオドールに連なる錬金術師として、わたくしはこの技術を誤った方向へ向かわせない義務がございます。その義務を負いながら、この地でジョナス様のご成長を見守って参ります」


 まさか自分の工房の過去の持ち主であり、テオの最も崇敬する主であるフレーメが、この地を最前線の戦場にした原因だとは今朝まで気づかなかった。

 それが繋がったとき、錬金術を決して間違った方向に向かせてはならないのだとカモミールは新たな使命を背負ったのだ。カモミール自身は狙われるような技術を持っているわけではないが、錬金術師全体の心得として伝えて行かなければならない。


 ゆっくりと一言一言カモミールが伝えた言葉に、ジョナスは表情を改めて頷いた。


「いただいたタイムの枝に誓って、領民が誇れる領主となれるよう学びます。――ですから、私が成人の暁には是非妖精の君には」

「おにいちゃま、しつこい男性はきらわれるというおはなしをご存じないの?」


 ジョナスは我が伴侶に、と続けようとしたのだろう。それを察したアナベルが言葉を遮る。相手の話に途中で口を挟まないことという先程暗唱した心得に反する気がするが、ジョナスとアナベルが会話をしていたのではないので大丈夫と言うことなのだろうか。なんにせよ、アナベルには助けて貰ってばかりである。


「ジョナス、ミリーはあなたとはかなり歳が離れているのよ」


 見かねて侯爵夫人がジョナスに言い聞かせたが、開き直っているジョナスは勢いよくそれを肯定する。


「その話は庭で聞きました。僕が15歳の時には28歳なのですよね? 貴族にはよくある年齢差かと!」

「あらあらあら、外堀を埋めようとしているわ。私と旦那様どちらに似たのかしら」

「きっと両方だね」


 和やかな笑いが起こったところで、カモミールは再度礼をして辞去することにした。退室する間際、イヴォンヌにも会釈をする。彼女はいつものように愛情深い眼差しでカモミールを見送ってくれた。



 侯爵邸にやってきたときと同じように、玄関前に馬車が着けられている。カモミールのバッグともうひとつ大きな包みを持ったドロシーとサマンサが馬車まで見送りに来てくれた。大きな包みは御者が先に馬車に載せてくれ、バッグを受け取りながらカモミールはふたりに頭を下げる。


「ドロシー、サマンサ、あなたたちにはとてもお世話になりました。お休みで街に来ることがあったら是非またお話をさせて。今度は同じ年頃の女の子同士としてお友達になりたいわ」

「こちらこそ、お世話出来て光栄でした。どうぞお元気で」

「是非またお会いしましょう」

「もし街で会ったら、普通の言葉で話しかけてね」

「カモミール様こそ」


 最後に三人で小さく笑い合い、カモミールは馬車に乗り込んで侯爵邸を後にした。



 狭い路地に入る手前の道で馬車が止まる。自分の手でドアを開け、御者に丁寧に礼を言ってから荷物を抱え、カモミールはエノラの家への僅かな道を早足で歩んだ。


 暗くなりかけた景色の中、たった少しの間しか離れていなかったのに、エノラの家の灯りがとんでもなく懐かしい。


「ただいまー! ヴァージルいる? ご飯食べた? まだなら屋台行こう! 思いっきりビール飲みたいのよ、ビールぅぅぅ!」


 帰って来るなり叫んだカモミールに、エノラは苦笑し、ヴァージルが階段を転がるように降りてきた。


「まあまあ、ミリーちゃん! 元気に帰ってきてくれて良かったけど……相当大変だったのね?」

「お帰りミリー! ごめん、ご飯食べちゃった。でも屋台行くならいっしょに行くよ、ミリーを独り歩きさせられないからね」

「礼儀作法の授業がそれはそれは厳しかったのよー! まだ背中が痛ーい。

 でも、侯爵ご一家も使用人の方たちも、礼儀作法の先生もみんないい方だったわ。美味しいお菓子もたくさん食べたし、ワインも飲んだし、ドレスも着たし、お土産も持たせて貰ったし……そして今切実に屋台のご飯を食べてビールが飲みたい!!」

「……ミリーが相変わらずで、なんだかほっとしたよ。じゃあ行こうか。酔い潰れたらおぶって帰ってきてあげるから今日は安心して飲んでいいよ。侯爵家の話もたくさん聞かせて欲しいな」

「やったー! ヴァージル頼りになるー!」


 ジョナスと少し似たふわふわの金髪をした幼馴染みが、ほんわりと優しく笑う。彼の笑顔で心が安らいで、「家に帰ってきた」という実感がカモミールを包んだ。

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