侯爵邸の居間の大きなテーブルに材料を並べ、カモミールは持参した道具を消毒する。
居間の扉は大きく開け放されていたが、気がつけばかなりの人数が居間に集まってカモミールを取り囲んでいた。
使用人も時間に都合が付くならば、カモミールの仕事を見に来て良いという許可を侯爵が出したのだ。それほど時間はとらないと事前にカモミールが言ったせいで、女性を中心になかなかの人数がやってきた。その中にはイヴォンヌにサマンサとドロシーもいる。
人の多さに緊張はするが、これだけ多くの人がカモミールの仕事に興味を持っているのだと思えば純粋に誇らしい。深呼吸して背筋を伸ばすと、カモミールは周囲に向けて説明を始めた。
「これから作る物は、『練って作る香水』という意味で練り香水と名付けました。皆様ご存じの香水は、様々な香料を組み合わせ、アルコールで希釈したものです。香料がアルコールに溶けやすいという性質を利用しております。
ですが今日はアナベル様のために、肌への刺激のあるアルコールではなく精製ワセリンで希釈した香水を作ります。
これが精製ワセリンで、保湿効果が高く肌荒れなどにも使われるものです。こちらが今回使う香料で、バラの花から溶剤を使って抽出し、錬金術で溶剤を完全に除去したトゥルー・ローズという大変稀少なものです。現在このトゥルー・ローズで作った香水をお持ちなのは、マーガレット様だけということになります」
実はタマラも持っているのだが、それは秘密にしておく。侯爵夫人だけが持っているという事実が価値を高めるのだから。クリスティンにも渡してはいるが、香水として使うのではなく、ヴィアローズの販促用だから数には入らない。
トゥルー・ローズの精油、精製ワセリン、最後に可愛らしい陶器の容器と掲げて見せながら説明をする。精製ワセリンと精油はあらかじめ計量して持ってきているので、後は本当に混ぜて容器に詰めるだけだ。
へらを使ってボウルに精製ワセリンを入れ、トゥルー・ローズの精油を注ぐ。周囲に香ったバラの香りに、何人かがうっとりとしたようにため息をついた。
すぐに溶けて混ざるような性質の基剤ではないので、精油が飛び散らないように気を付けながら丁寧に混ぜ、ある程度のところでカモミールは手を止めた。
「アナベル様、続きを混ぜてみますか?」
「いいの? ありがとう、ミリー!」
アナベルは顔を輝かせると、事前に用意した踏み台を使ってボウルの前に立つ。その横顔に緊張が見て取れるのが微笑ましかった。
へらを手にしたアナベルは、恐る恐るボウルの中をかき混ぜていく。心配したのはいきなり勢いよく混ぜてしまい、中身をこぼすことだったがこれならば大丈夫そうだ。
「お上手ですよ。ゆっくり、ゆっくり、精製ワセリンと精油が仲良くなるように、まんべんなく混ぜましょう」
トゥルー・ローズの精油は色がある。対して精製ワセリンは白いので、混ざっていない部分は一目瞭然だ。アナベルはカモミールが感心するほど丁寧にそれを混ぜ、やがて均一な色の練り香水を作り上げた。
「できましたよ、これを容器に入れて完成です」
「きんちょうしたけど、とっても楽しかったわ! 容器に入れるところまでやりたいけれど、おにいちゃまにゆずってさしあげます」
「僕がやっていいの!? アナベル、君は本当に優しくて素晴らしい妹だよ!」
ツンと澄まして見せたアナベルと、興奮で頬を赤らめ、妹を絶賛するジョナスの対比が面白い。微笑ましい姿だが、笑い声を立ててはジョナスが恥ずかしがるだろうと大人たちが必死に口元を押さえる中、アナベルが踏み台から降りて代わりにジョナスが上がってきた。
「はい、そのへらを使って、できるだけ隅の方から入れてください。容器に入りきる量ができあがるように計量して参りましたから、溢れるということはございません」
「はい」
ジョナスは真剣な顔で応えて慎重に手を動かしている。やがて、ボウルの中の練り香水は全て容器の中に収まった。カモミールはジョナスからへらを受け取ると、容器の縁を使ってへらについている部分も全て中に入れた。
「アナベル様、以前お約束した奥様と同じ香りの練り香水です。どうぞお受け取りくださいませ」
容器の蓋をして、両手でアナベルにそれを差し出す。アナベルは見たこともないほど嬉しそうにそれを受け取り、早速蓋を開けた。
「すてきだわ……。ありがとう、ミリー。大事につかいます」
「使い方は香水と同じかしら? 付ける場所とか」
侯爵夫人が尋ねてきたので、カモミールは頷いた。
「はい、手首やうなじなどに付けると香りが程良く広がります。香りを抑えたいときには膝の裏などに付けると下から香りがあがって来るところも香水と同じです」
これは事前にキャリーとタマラを巻き込んで確認済みだ。カモミールが説明すると、早速アナベルが指先でほんの少し練り香水をすくい、手首に塗り込んでいる。
「ねえ、みんな。そこにしゃがんで」
作業を見物していた使用人にアナベルが声を掛けると、彼らは顔を見合わせながらもその通りにしゃがみ込んだ。アナベルは女性男性問わず、その場にいた全ての使用人のうなじに貴重な香水を付けていく。
「お嬢様、なんともったいないことを」
年配の侍女が声を上げてアナベルを止めようとしたが、アナベルは笑顔で首を横に振る。
「いいのよ、香水はただ取っておいてもかおりが変わってしまったりすると聞いたわ。だったら、これはちゃんと使いながら大事にするの。
今日はとてもすてきな日だから、みんなにおすそわけなのよ。手首につけたらみんなはすぐに取れてしまうでしょう? だからうなじにつけたの。こんなにいい香りがしたら、気分も明るくなるわよね?」
この気遣いは間違いなく侯爵夫人の娘だなと思わせる行動だった。最後にジョナスとグリエルマ、侯爵にも練り香水を付けて、アナベルは満足げだ。
「いい香りだけど、僕が付けておかしくない?」
「おかしくないわ。こんな素敵な香りなら、男性が付けてもきっとダンスの時などに喜ばれそうだもの」
侯爵夫人の説明に、ジョナスは笑顔で素直に頷いた。
「簡単過ぎるのではとカモミール嬢は心配していたが、慣れていなければ失敗するのではないかとハラハラしたよ。アナベルとジョナスが慎重に手を動かせていて安心した。――しかし、化粧品を特産にしているのに、作り方ひとつ見たことがなかったということに改めて気づかされたよ。今後は領内の産業を積極的に視察しようと思う」
「あら、その時にはこの先国一番の化粧品になるヴィアローズを視察なさるといいわ。ねえ、ミリー」
侯爵が真剣に仕事について考えていることを見せたところで、侯爵夫人が明るく提案するので思わずカモミールは言葉を失った。
化粧品を作るところを見せるのは構わない。あまり錬金術らしくないが、石けんを作るところなどは変化の工程が面白いので興味深いだろう。
――ただ、あのボロ工房に侯爵を案内する種類の勇気はカモミールにはなかった。これは貴族に慣れるとか礼儀作法とかとは別次元の問題である。
「わ、わたくしの工房は格安で手に入れた築500年以上の古家ですので、あちこち傷んでおりまして、侯爵様に足をお運びいただくわけには……」
「おや。今でこそ我が一族はこの屋敷に住んでいるが、かつてこの地が隣国と接していたときにはすぐ近くにある廃城に暮らしていたのだよ? 廃城とはいえ、私も年に何回か足を運ぶことがある。あれは築700年は超えていたと記憶しているから問題ない」
「まあ、そんな工房で頑張っていたのね。私の配慮が足りなかったわ、ごめんなさいね。
あなた、ミリーを困らせるのはやめてあげてくださいな。執務室に書類を積み上げて、資料を足下に積んでいるときにもし大叔母様が突然入ってこられたらどう思います? ――ええ、そういうことよ」
侯爵が微妙極まりない表情になった。「大叔母様」が誰かはわからないが、彼にとっては散らかった執務室を見られたくない相手なのだろう。
「わかった。ならばいつかの機会にカモミール嬢には、ここでもう一度何か作って見せて貰うことにしよう。今度は何か、複雑な感じの物をお願いする」
「……かしこまりました」
そこまで言われて断れる職人はこの領内にいないだろう。
ここで作るには石けんは無理だな、とカモミールは頭の片隅で悩み始めた。