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第69話 侯爵邸での特訓・9

 3日目の朝、筋肉痛もすっきりと消えて、カモミールは爽やかに目を覚ました。

 昨日は一日中体調が悪くなることもなく過ごしたので、サマンサとドロシーも夕方には安心したらしく、寝る前にまたオイルマッサージをして貰ったのだ。

 ドロシーは頭皮のマッサージもしてくれて、「頭皮が……凝っていますね」と言っていた。目を酷使すると頭皮も凝るらしく、侯爵夫人が書類仕事が溜まった後に頭皮のマッサージを求めるそうだ。


 カモミールにとって侯爵邸での体験の中で、オイルマッサージが一番素晴らしいと思えるものだった。あれは施術出来る人間を育てて、もっと普及出来たら良いのにと思う。

 それと、やはり良いベッドは素晴らしいというのも実感した。お金を節約することにばかり気が向いて、なかなか素材以外にお金を使えないカモミールだが、いつかお金持ちになったら良いベッドを買いたいものだとまで思った。


「おはようございます。今朝のお加減はいかがですか?」


 サマンサが朗らかに朝の挨拶をしてくるのも、昨日のカモミールが頭痛を起こしたりしなかったからだろう。


「おはよう、サマンサ。今朝もすっきり目が覚めたわ。おかげさまで快調そのものよ。筋肉痛もなくなったし、今日はまた礼儀作法の厳しいレッスンを受けられるわ」

「それはよろしゅうございました。お召し替えのお手伝いをいたしますね」

「ありがとう、お願いね」


 人に何かをして貰うのにも大分慣れた。1日寝ていたことで、身の回りのことを全て侍女がやってくれたのも影響がある。


 洗顔をしてミラヴィアの化粧水とクリームを肌に叩き込まれた後、柔らかな黄色にレースをあしらったドレスに着替えさせられる。これは偶然にもカモミールの髪色によく合ったので、今日は成人前の令嬢のように髪を下ろすことになった。

 ドレスを選んだ段階から侍女たちは髪型を決めていたらしく、準備よく熱されたこてで髪を巻かれる。


 今日のコンセプトは「デビュタント前の令嬢」なのか、やはり化粧も可愛らしさを強調したものになった。いかにも「妖精の君」っぽくなったので、ジョナスにまたひざまずかれるのではないかと内心ヒヤヒヤする。


 着替えが済んだら時間的に余裕があったので、サマンサが淹れてくれた紅茶を飲みながら一息ついてゆったりと過ごす。紅茶はカモミールの知らない銘柄の物で、「ミルクが合いますのでどうぞお試しください」と言われたのでその通りにした。

 礼儀作法の復習と思い、ティースプーンでミルクと砂糖を混ぜた後、左側にある持ち手をくるりと回して右側に持ってきて、それを三本の指でつまんでカップを口元に持っていく。その間心の中では「背筋、背筋を伸ばして」と唱えていた。


 なかなか濃厚な味わいの茶葉らしく、言われたとおりミルクがよく合う。まろやかなのに目が覚めそうなお茶だった。今まであまり紅茶に親しむ機会がなかったカモミールにはなにもかもが新鮮だ。

 クイーン・アナスタシアはミルクを入れることで渋みを抑え、香りが劇的に変わったのが印象深かった。こちらは紅茶とミルクで味の調和が取れている。とても興味深いが、茶葉をたくさん揃えて満足いくまで探求するのはカモミールではいろいろと無理がある。紅茶を美味しく淹れる技術は食べる物に関して雑なカモミールは持っていない。


 やがて朝食に招かれ、そこで侯爵家の一家とグリエルマに挨拶をすることができた。元気そうなカモミールに侯爵夫妻とグリエルマは安堵の笑顔を浮かべ、ふたりのこどもたちはカモミールに抱きついてくる。


「ミリー! おからだはどう? もういたくない? とってもとってもしんぱいだったの!」

「ああ、我が麗しき妖精の君が倒れたと聞いて、ぼ……私の胸は張り裂けんばかりでした!」


 アナベルはともかくとして、ジョナスのこの語彙はどこから来るのだろうか。もしかしてこどもでも読める恋愛小説か、騎士物語でもあるのだろうかと疑問になってくる。


「ご心配をおかけいたしました。この通り、もうなんともございません。アナベル様とジョナス様のお優しさ、確かにこの胸に届いておりますからどうぞご安心くださいませ」


 体を屈めてふたりを抱きしめ返し、優しく告げるとふたりはそれでも心配が抜けきっていない表情でカモミールを見ている。


「マーガレット様、今日のわたくしの予定はどのようになっておりますか?」

「そうねえ……午後はグリエルマ先生のレッスンだけれど、午前中は好きなように過ごしたら良いわ。この屋敷に慣れて、王都に行っても激しく緊張しないようにするのがあなたへの課題だから。

 できれば、庭園を散策したり、私とおしゃべりをしたり、そういった形で貴族に慣れて貰いたいのだけれど」


 どうやら、今日は時間に余裕がありそうだ。ならばひとつはやることが決まっている。


「アナベル様のご予定が空いている時間に、練り香水を作りましょう。マーガレット様もよろしければご一緒に」

「ほんとう? うれしいわ! ずっとたのしみにしていたの!」

「まあ! それは素敵だわ。ジョナスもどうかしら」

「母上、僕も同席していいのですか? 女性だけの集いでは?」


 小さな紳士であるジョナスは、女性だけの特別な場を邪魔してはいけないと教育されているのだろう。

 カモミールにとっては別に女性の場という意識はなく、ごくごく簡単な香水作りの実演をしてみせるだけなので、誰が見ていようと構わない。


「いいえ、これはわたくしの仕事である化粧品作りのうちのひとつなのです。ジョナス様もご興味があるなら是非ご覧ください」

「ありがとう、妖精の君! ああ、あなたは心までも妖精のように軽やかで優しいのですね!」


 それは言い過ぎだろうとカモミールが肩を振るわせていると、侯爵がそろりそろりと手を上げている。


「私も興味がある。化粧品といえば我が領の特産品だ。ジェンキンス領の女性はことに美しいという評判が国中に立っているんだ。領内なら関税がかかっていない分、多少裕福な庶民でも気軽に化粧品を買えるということが大きいのだがね」

「もしよろしければ、私も見せていただいてよろしいかしら? 錬金術師の仕事に触れる機会がなかったものですから、とても興味があります」


 侯爵ばかりかグリエルマまで見たいと言いだし、カモミールは内心で「大変なことになった」と思い始めた。

 練り香水はあまりにも簡単なのだ。端的に言って、精製ワセリンとトゥルー・ローズの精油を混ぜるだけである。なんなら作り方を教えてアナベル自身に練り香水作りを体験させてみてもいいと思っていたくらいなので、侯爵やグリエルマから見てそれほど面白い物かはわからない。


「わたくしは結構ですが……その、姫様ご自身が作れるほど簡単な物ですので、侯爵様やグリエルマ先生のご期待に添えるようなものかどうかは判断しかねます」


 控えめに言ったカモミールに、侯爵夫人が手をパンと打った。


「自分の見たことないものを、見てみたいというただの好奇心よ。我が旦那様は大げさに言いすぎているだけなの。せっかくだもの、みんなで見せてもらいましょう。

 さあ、みなさま席にお着きくださいな。朝食のスープが冷めてしまうわ」


 女主人の采配はさすがだった。カモミールに抱きついたままだったアナベルとジョナスもおとなしく席に着き、カモミール自身も引いた状態で待機されている椅子に座る。


 美しいきつね色に焼き上がったパンに、豚肉の香味焼きなどの肉料理、そしてこっくりとした味わいのスープが目の前に並び、ワインが朝食の席から出されている。さすがに朝から2杯以上ワインを飲むのははばかられたが、今日の活力を得るためにカモミールは豪華な朝食を美味しくいただいた。

 不思議と緊張しないのは、こどもがいるからだろう。それとも侯爵邸に慣れてきたせいか。


 白パン自体は庶民でも時々食べられるようになったが、侯爵邸の白パンはまたひと味違う。柔らかさが一段上で、甘みと味の深みも強かった。大きなパンを切り分けるのではなくて、焼きたての小さな丸いパンが籠にどっさりと盛られ、それぞれが食べたいだけ手を伸ばせるのも嬉しい。これはカモミールにとってはパンだけでも延々と食べ続けられるものだ。


 食後は、侯爵の仕事を中断させるのも悪いということで、すぐに練り香水作りに取りかかることになった。

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