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第68話 侯爵邸での休息

 カモミールが目を覚ましたのは、暗い部屋の中だった。

 ふかふかとしたベッドに寝かされており、知らぬ間に肌触りの良い夜着に着替えさせられている。

 まだ頭がぼんやりしているのか、状況がよくわからない。とりあえず起き上がって周囲を見回し、ほのかにともされた灯りでここが自分に宛がわれた客室であることに気がついた。


「おや、目を覚ましたかね。気分はどうだい?」


 初老の男性の穏やかな声が、夜の静けさの中に優しく響く。突然聞こえた声だが、何故かあまりカモミールを驚かせはしなかった。

 声の方に視線を向ければ、暗さで顔までははっきりとは見えないが、少し離れたところに置かれた椅子に座っている声の主が見えた。


「私はこの侯爵邸で医師をしている、ロビー・スミスという者だよ。ああ、それ以上起き上がらなくていいから安静にしていて。話はできそうかな?」


 スミス医師の言葉はまるで小さなこどもに言い聞かせるようで、カモミールを安心させる。


「はい。今はなんとも……けほっ」

「水、水っと。さあ、口を開けてゆっくり落ち着いて飲みなさい。自分で持てるかい?」


 それには頷いてみせる。ベッドサイドに置かれた陶器の水差しを手に取り、スミス医師はカモミールに手渡してくれた。

 ぬるい水が長い注ぎ口を伝わってゆっくりと口に入ってくる。それを飲み干すと、感じていた喉の渇きもそこそこ収まった。


 そこではたと気づく。――喉が渇いていたのは、晩餐の席でたっぷりとワインを飲んだからだと。


「ああ……」

「具合が悪くなったのかね? 差し支えなければ灯りを点けてもいいかい?」


 自分の失態に頭を抱えたカモミールに、今度はスミス医師が慌てた。


「す、すみません、喉が渇いていたのは晩餐でお酒をかなりいただいたせいだと気がついて、思わず頭を抱えてしまいました。灯りは点けていただいて大丈夫です」

「それはそれは。お酒が出る場ではありがちな話だったね。では、少し診察をさせて貰いたいので灯りを点けよう」


 スミス医師は歩き回って3つほどのランタンに火をともした。それを近くに持ってきて椅子をカモミールのベッドに寄せる。

 かなり明るくなった中で見えた医師の姿は、声の通りに優しげな初老の男性だった。


「晩餐の席で突然倒れたと聞いているよ。侍女の話では、倒れる直前、悲鳴のような声を上げていたともね。食事を調べたが、何か痛みを感じるような異物が入っていた様子はなかった。

 この部屋に運び込まれたとき君は失神していて、顔面は蒼白、血圧は下がっていたがこれは飲酒のせいだろう。脈拍も通常より速かったが、やはり飲酒の影響の可能性の方が高い。

 その後はここで君の様子を見ていたが、そのうちに穏やかな睡眠になり、苦しむ様子などは見られなかった。もしも憶えていることがあれば、教えてくれるかな」

「突然、頭を刺すような激しい頭痛がして……。それで意識を失ったのだと思います」

「意識を失うほどの頭痛とは、かなり酷かったのだろうね、可哀想に。事前に風邪気味だったなどの体調の変化は感じられたかな?」

「いいえ、礼儀作法の講義で背中が痛くなってはいましたが、体調自体は良好でした。――頭痛は、前触れなく来ることが以前から時折あって、大体はその後眠ってしまっていました」


 説明をしながら、カモミールは晩餐で倒れたときのことを思い出そうとした。あの時自分は何か考えていたのではなかっただろうか。侯爵夫妻の幸せそうな姿を見て、自分も幸せな気持ちになったことは憶えている。

 けれど、その後の記憶がなかった。憶えているのは、自分を襲ったあの耐えがたい痛みだけ。


「ふむ……。見た限り、何か急を要するようなことはなさそうだ。明日明るくなってからもう一度診察させてもらうことにしよう。それまではゆっくり眠りなさい。

 それでは私はこれで失礼を――おっと、水はもっといるかね? 必要そうなら侍女に持ってこさせよう」

「お願いします。――スミス先生、遅い時間まで見守ってくださってありがとうございました」

「なに、礼には及ばないよ。これが私の仕事だからね」


 カモミールが頭を下げると、ランタンを持ちながらスミス医師は穏やかに微笑んだ。


 医師が去ってすぐ、知らない侍女がやってきて水を置いて下がっていった。今度は大きな水差しと、落としても大丈夫なようにとの配慮なのか木製のコップが添えられている。

 コップに水を注いで飲むと、程良く冷たい水が喉を滑り落ちる感覚が心地よかった。

 喉の渇きが完全に治まったことで、また眠気が襲ってくる。それに抗うことなく、カモミールはふかふかとした枕に頭を埋めさせて、穏やかな眠りに落ちていった。



 翌朝目を覚ましたときには、たっぷり眠った時特有のスッキリした気分を感じた。

 昨日倒れて周囲を心配させたというのに、こんなに気持ちよく目覚めていいのかなとなんだか申し訳なくなるほどだ。


「お目覚めですか、カモミール様」


 カモミールが起き上がったので、ドロシーが早足で近寄ってくる。彼女の顔には心配が滲み出ていて、心底申し訳なくなった。


「スミス先生をお呼びしてきます」


 サマンサはドロシーがカモミールの様子を見に行ったので、自分は医師を呼ぶために動いたようだ。音も立てずにするりとドアから出て行った。


「ごめんなさい、あなたたちにも心配を掛けてしまって。でも今はなんともないわ。……敢えて言うなら筋肉痛」


 嘘ではなかった。背中と何故か腿裏が痛い。ドロシーはいくらかほっとしたようだったが、すぐに表情を引き締めた。


「昨夜カモミール様が運ばれてきたときには、本当にお顔が真っ青で、痛みのせいか眉を寄せて汗をたくさん掻いていらして……私とサマンサで体を拭かせていただいて、着替えも勝手にいたしましたが、本当に今はなんともないのですか?」

「ええ、夜中に目を覚ましたときに喉が渇いていたけれど、それはお酒をたくさん飲んだせいだわ。スミス先生も急を要するものではないと判断されたようだし、大丈夫よ。……実は、酷い頭痛が最近時々あるの。原因がわからないのだけど」

「原因がわからないというのが心配ですね。お医者様にかかられたことは?」

「いえ、頭痛くらいで、と思ってかかったことはないの」

「気を失うほどの頭痛というのは尋常な物ではありませんよ。良い機会ですから、スミス先生にご相談されるのがよろしいと思います」

「ありがとう、そうするわ」


 起きて着替えようとしたが、ドロシーにそれを止められる。とにかく医師の診察が終わるまでは動かないようにと念を押されて、カモミールは再び枕に頭を落とした。


 やがてスミス医師がやってきて、血圧や心拍数を測り、それが正常であることを確認すると喉などを診察された。やはり風邪などの症状は見られないようで、頭痛の原因は判断できないとのことだった。


「判断出来ないということは、『何事もない』とは大きく違うよ。君は錬金術師だそうだからそこはよくわかっていると思うけれども、くれぐれも無理はしないように。念のため、水分を多く取って今日は1日おとなしくしていなさい。

 ただの頭痛ならばともかく、気を失うほどの頭痛が何度もあるという症状は他に類がない。君の体にただごとではないことが起きているのは間違いないのだからね。

 今後ももし起きるようなら、錬金医に相談してみるのもひとつの手だと私は思う。通常医学でわからないことも、あちらは原理を飛び越えて解決することがままあるからね」


 普通は錬金術で作った薬などは一般の医師は忌避する傾向があるのだが、驚くべきことに、スミス医師は錬金医の有用性を認めている医師だった。錬金医と聞いてガストンの顔が思い浮かぶが、さすがに彼に診察して貰う気にはなれない。


「はい、心に留めておきます。それで、おとなしくというのは、どの程度の活動まで許されるのでしょうか……」


 本来侯爵邸には礼儀作法のレッスンのために来ている。あれは激しい動きではないが、講義を受けることなどは「おとなしくしている」ことに反しないかが心配だ。

 しかし、スミス医師はきっぱりとカモミールの心配を切り捨てた。


「この部屋から出ないこと。できる限り眠ること。起き上がって内容の軽い本を読む程度ならいいけれども、過剰に頭を使うようなことも避けて欲しいところだね。私は今日は近くの部屋で待機しているよ」

「……はい」


 カモミールはしおしおと項垂れた。


 その後、ほんの少しの時間だけ侯爵夫人が顔を出し、心配したことを告げるとよく休むようにとしつこいほどに言い聞かせて退室し、しばらくしてからグリエルマが見舞いに訪れた。


「ああ、カモミール嬢。思ったよりも顔色が良くてよかった……。心配したのですよ。昨日の講義が過剰にあなたに負担を掛けたのではないかと思って」


 厳しい教師の仮面を外したグリエルマは、優しさが前面に出た表情でカモミールの手を取った。それは本当にこどもを心配する母親の仕草と変わりなく、出会って1日で人をここまで思いやれる彼女の優しさをカモミールは再認識した。


「ご心配をお掛けして申し訳ございません。このような頭痛は実は以前から時折ありました。決してグリエルマ先生の講義とは関係がございませんから、どうかお気になさらないでください。

 軽い頭痛なら薬で治まるのですが、倒れてしまったことで侯爵邸の皆様にもご心配をお掛けしてしまって……」

「自己管理を厳しく言う人もいるけれど、急な体調不良など気を付けていても避けられないことはあるものです。皆があなたを心配したのは、それだけあなたを大事に思っていることの証拠ですよ。

 昨日の暗唱の課題は無理にこなそうなどと思わず、今日は体を休めることに専念なさいね。

 侯爵夫人から昨日の晩餐の様子を伺いましたけども、きちんとマナーも理解していたし、以前のように緊張しすぎることもなく食事を楽しんでいたようだと、あなたの成長を褒めていらしたわ」

「それは……実は侯爵様がお酒を好まれて、勧めてくださったことにも関係がございまして……わたくしもお酒を飲むのは好きなものですから」


 レッスンの成果もあるが、昨日の晩餐で倒れるまでは楽しく過ごしていたことは間違いない。しかしそれには酒の効果も大きかったことを正直に伝えると、グリエルマは一瞬きょとんとした顔をして、それから慌てたように何度も頷いた。


「そ、そうね。カモミール嬢は20歳ですもの、お酒を嗜んでも何もおかしくないのだわ。――普段は成人前の令嬢に教えているし、私自身はお酒は飲めない体質だから、食事の場でのお酒で緊張が解けたというのがピンとこなかったのよ」


 昨日の講義からは全く想像も付かない、若干慌てて恥じらったグリエルマの様子に、思わずカモミールは小さく笑った。


「グリエルマ先生にもご存じないことはあるのですね。――なんだか安心いたしました。昨日の先生のご様子は比類なく完璧な教師でいらしたので」

「まあ、この子ったらなんてことを言うのかしら。私も人間です。しかも死ぬまで学びは終わらないと思っていますよ。……ああ、でも、本当にあなたの笑顔を少しでも見られて安心しました。今日はゆっくり休んで、明日はまた元気な姿で講義にいらしてね」

「はい、先生。ありがとうございます」


 頭を下げたカモミールにグリエルマは笑顔で頷き、本を何冊か置いて部屋から出て行った。

 彼女が持ってきてくれたのは、カモミールが読んだことのない詩集と、旅行記だ。これならばスミス医師の言いつけに逆らうことにもならないだろう。


 結局その日、カモミールは読書をしながら時折お茶を飲み、豪華な休日を過ごしたのだった。

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