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第67話 侯爵邸での特訓・8

 晩餐は和やかな空気のまま進行した。大人3人だけであるし、侯爵がかなり酒好きらしく、カモミールにも気軽にワインを勧めてくるのだ。

 何杯までなら許されるだろうか、と最初こそマナーに照らし合わせて考えていたが、「屋敷の主人が勧めるものを断るのは失礼にあたるわよね」と解釈して、普段は飲めない高級なワインを次々にいただく。

 開けられた3本のワインは当たり前のことだが全て今まで口にしたどのワインよりも美味しく、産地やブドウの銘柄について侯爵が楽しそうに説明してくれるのも興味深い。カモミールが質問をすれば、侯爵は嬉しそうにそれに応えてくれる。彼は酒について語るのが好きなようだった。


 侯爵夫妻の人柄とワインのおかげで、カモミールは緊張しすぎるのではないかと恐れていた晩餐を楽しむことができていた。


 テーブルに並べられた料理を好きなように取って食べるのがこの国での晩餐で、もっと寒い地域にある隣国では料理が冷めないように一皿ずつ供されるとグリエルマから聞いた。この場合だとカトラリーが料理によって食べやすい物を使い分けるので、数が増えて最初は戸惑うという。

 しかしこの国の文化では意識しなければならないのは「汚い食べ方をしない」「音を立てて食べない」という2点に集約されて、カモミールにとってはかなりありがたかった。要は、普段食堂で食べているのと同じで、それが桁違いに豪華になっているだけなのだから。


 料理を簡単に一口で食べられるサイズに切り、フォークで口に運ぶ。その時につい前のめりになりそうになる度、「背筋を伸ばす! 口を料理に持っていくのではありません。料理を口に持っていくのです。あなたと料理、偉いのはどちら?」というグリエルマの叱責が空耳で聞こえる。


「グリエルマ先生は凄かったでしょう?」


 自らもワインのグラスを傾けながら、侯爵夫人が笑い含みで話しかけてくる。

 その言葉に妙な重みがあり、「ああ、この方もグリエルマ先生の授業を受けたんだ」とカモミールに予想させた。


「はい、今も背中が曲がりそうになると先生のお叱りの声が耳の中に蘇ります」

「それは1週間くらい続くと思うわ。私の場合は『お茶を飲むときに顎を上げすぎてはいけません』だったの。私の少女時代にも先生の教えを受けたから、あの時は1ヶ月くらい寝る前にあの叱る声が蘇って……」


 当時の大変さを思い出したのだろう。侯爵夫人は語尾を切って爽やかな辛口の白ワインのグラスをくっと傾けた。

 20年以上前の話のはずなのに、未だに彼女の中では忘れがたいものなのだろう。

 けれど、娘の礼儀作法について現在グリエルマに教えを請うているのだから、侯爵夫人にとっても間違いなく武器になったのだという実感と信頼があるはずだ。


「厳しい方ですが、むやみに厳しいのではなく、その厳しさが相手のためになるという信念をお持ちでいらっしゃると感じました」


 自分が感じたことを率直に伝えると、ほう、と面白がる顔で侯爵が頷いている。


「ミリーは心が広いのね……いえ、違うわね。あの時の私はこどもで、教育は自分の意思ではなくただ詰め込まれるものだったわ。あなたは頼りなく見えるときもあるけれどもしっかりした大人で、物事の本質を見極める目を持っている。そういう違いなのね」

「アナベル様もグリエルマ先生はとても厳しいけれど、時々とてもお優しいと仰っておられました。厳しさの中にある先生の思いやりを感じ取られていらっしますよ」

「アナベルはまだ5歳で、礼儀作法の勉強を始めるには本来早すぎる年齢なの。けれど、グリエルマ先生は私のように教え子がまた自分の子のために教師として招くことが多くて、常にお忙しいからたまたま予定が空いたというのを耳にしてすぐお願いしてしまったの。

 アナベルは幼い分素直に教えを吸収しているのね。良かったわ。

 あの方は生徒にも厳しいけれど、ご自身も自らに厳しい方だから文句を言うことができないの。ジェンキンス家以外にも数件の高位貴族の家で礼儀作法を教えながら、王都での流行など情報網もきっちり押さえているのよ。どうやって時間をやりくりしているのか不思議に思うことがあるわ」


 自分のことは棚に上げてとはこのことだろう。

 侯爵夫人も多忙であるはずなのに、カモミールからすると「どうやってこれらの仕事を全て頭に入れた上で、一度会っただけの私の好物まで憶えていられたんだろう」と不思議でたまらなくなる。


「ああ、ベイクウェル夫人はたいした人物だと私も思うよ。食事の席を共にしたときなどに、他領や王都の最新の情報を問題ない程度に見極めて話してくれる。

 貴族家の家庭教師など、内部にまで入り込んでいると要らぬ情報を耳にしてしまうこともあるからね。それを見極め、外に漏らしてはいけないことは決して口にせず、世間話で済む程度のことは話題として情報を回す――もし彼女が間諜だったら恐ろしいことになるだろうけれども、自分の職分をわきまえ、それ以外には口出しせず、教師であることに誇りを持って勤めている。だからこそ、多くの家門からの信頼を得ている。

 私にはとてもじゃないができそうにないね。案外口が軽いから」


 最後はわざとおどけて見せた侯爵の言葉に、夫人が口元に手を当てて笑った。


「そうね、デヴィッドは意図的に口が軽いときがあるわ。まだお互い婚約者も決まっていなかった頃に、舞踏会で私と2回踊ったとあちこちに吹聴して回ったものね。おかげで私の周りの伯爵家以下の家柄の男性はすすすっと私を避けるようになって、今では私は妻に収まっているんですもの」

「2回踊った、という言葉だけでですか?」


 何故それが他家への牽制になるのかわからずにカモミールが問いかけると、当時を思い出したのか満面の笑みで侯爵が頷く。


「舞踏会で3回踊って良い相手は、婚約者か配偶者と決まっているんだ。嫁ぎ先が決まっていない令嬢ならばより多くの相手と知り合うために、大抵は舞踏会の中では同じ相手とは一度しか踊らない。2回踊ったというのは、それだけお互いダンスをしていて楽しかった、気があったということなんだよ。

 事実私はマーガレットのデビュタントの時にダンスを共にしてからその可憐さに夢中だったから、彼女が私とのダンスを楽しんでくれるのが嬉しくてね。それで自慢しまくった結果、無事に名門ロンズデール侯爵家の美しく賢い令嬢を妻に迎えることができたというわけさ。若気の至りとはいえ、当時の自分の行動力に今でも感謝しているよ」

「まあ、デヴィッドったら。私の方こそ、侯爵家以上の家格を持つ嫡男でないと認めないなんて両親に難題を突きつけられて困っていたのよ。

 年頃で、その条件をクリア出来て、しかも気の合う相手と巡り会えるなんて奇跡だもの。これも情報戦の勝利なのよ、私はふたりの関係を聞かれる度に、ただ黙って恥じらって見せるだけで否定も肯定もせずにやり過ごすだけで、外堀を埋めることができたわ。

 もう周囲が『あのふたりは婚約が決まっているに違いない』って思い込んでくれたから、侯爵家とはいえ伯爵家と大して差異がないジェンキンス家へ、筆頭侯爵家の令嬢である私が嫁ぐという状況にあっさりと許しが出たというわけ。プライドが高い父を、引くに引けない状況に追い込んだのよ」


 マーガレットの実家は従妹に王妃を輩出しているくらいなのだから高名な家門なのだろうとは思っていたが、筆頭侯爵家と聞いてカモミールは驚きすぎて手が止まった。その上にあるのは公爵家がふたつだけで、さすがにそのくらいは平民のカモミールでも知っている。

 ともすれば、セレナではなくマーガレット自身が王妃になった可能性も高いのだろう。


「すると、おふたりは恋愛結婚ということになるんでしょうか?」


 貴族に恋愛結婚は稀だ。大体が政略か妥協と聞かされている。貴族の令嬢が家格が違いすぎる相手との大恋愛の末に結ばれる小説が貴族庶民問わずに流行しているのは、そういった事情が周知の物だからなのだ。


 ジェンキンス侯爵夫妻は顔を見合わせ、笑顔で互いにうなずき合った。

 その姿を見ていて、カモミールまで幸せになってくる。想い合った相手と結ばれるということはどれだけ素晴らしいことなのだろう。こどもをふたり授かっても互いが想い合っているのが端から見てもよくわかる幸せな夫婦が、自分の住む地を治める領主なのだと思うと嬉しくなる。


 けれど、それと共に不可思議な記憶が蘇ってきた。


「僕も、ミリーのことが好きだよ。心の底から愛してる」


 ――それは、聞いたはずもない幼馴染みの声で耳の奥に響く。おかしい、こんな言葉を言われた記憶なんてない。

 それに、「僕も」ということはカモミールがヴァージルを愛していて、先にそれを告げたという状況でなければ出てこない言葉ではないか。


「――つっ!」


 いつもの頭痛がまた突然襲ってきて、カモミールは手にしていたナイフとフォークを取り落とした。落下した金属が立てる澄んだ高音が響き、侯爵夫妻がはっと驚いた顔でカモミールを見つめる。


「……申し訳、ございません……無作法をお許し……」

「ミリー! そんなことを言っている場合じゃなくてよ! 顔が真っ青だわ! 誰か、お客様をお部屋へお連れして! スミス先生をすぐお呼びして、客室へ行っていただいて!」


 冷たい汗が背中を流れていくのを感じる。部屋の隅に控えていた侍女が椅子から横に倒れかけたカモミールを咄嗟に支えてくれた。

 その手の温かさを認識したのを最後に、カモミールは意識を失った。

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