結局午後は終始グリエルマの授業に費やされた。
緊張はどこかへ吹っ飛び、ひたすらグリエルマのたくさんの叱責と少しの賞賛に翻弄され、カモミールは疲れ切ってしまった。
途中、「ふたりともお疲れでしょう。お茶とお菓子をお持ちするように」と侍女に言ってくれたときには、アナベルが言った「ときどきとても優しい」が出たのかと思ったが、これもお菓子がある場でのティーマナーのレッスンだったので、結局休みなく授業を受けたことになる。
しかも、アナベルは途中で授業が終わり、カモミールだけがテーブルマナーの実技について指導されることになり、気が休まる暇が全くなかった。
晩餐までの少しの間だけ部屋に戻ることができたカモミールが、ソファに埋もれて思わず「はぁぁぁ……」と締まりのないため息をついてしまったのも仕方ないだろう。
「大変お疲れのようですね、カモミール様。マッサージなどをいたしましょうか?」
カモミールの様子を見て、ドロシーがすっとやってくる。これはどうも、グリエルマの授業の厳しさがどういった種類の物なのかが、侯爵邸内に周知されているようだ。
今カモミールが辛いのは、背中の痛みである。精神的にも疲れたが、普段意識して使っていない筋肉がとても痛い。
「恥ずかしいところを見せてしまったわね……お願いしてもいい?」
「もちろんです。ベイクウェル夫人の指導の厳しさは有名ですから。所作に関しては侍女にとっても必要な物ですから、わたくしたちもイザベラ様に最初は特訓されたものです。
ええ、そのままクッションにもたれかかってうつ伏せになってください。この辺りでしょうか」
ドロシーの指が的確に凝った場所を押してくる。強すぎもせず弱すぎもしない絶妙な力の強さで揉みほぐされて、「うぇ~」という淑女にあるまじき声が出た。グリエルマがここにいなかったのが幸いだ。
「そこ、本当にそこ。とても気持ちいいわ。ドロシーはマッサージが上手なのね」
「わたくしたちも通った道ですので。平民出身の侍女は特に、やはり礼儀作法で姿勢の矯正から始まって筋肉痛になったこともしばしばございます。お互いにマッサージをしあいながら、教育期間を乗り越えられた者だけが侍女として正式に採用されるのです。……つまり、これも実践で磨いた技術と言えますね」
「礼儀作法で筋肉痛……想像もしたことなかったわ」
聞いただけでげんなりとした。明日、自分も間違いなくそうなっているだろう。
うつ伏せになっているので表情は見えなかったはずだが、声で感情を読み取られたのだろう。マッサージをしながらドロシーがいくらか柔らかくなった声でカモミールを慰めてくれる。
「晩餐が終わられましたら、またお休みになられる前にオイルマッサージをして差し上げますね。明日いくらかは楽になると思いますよ」
「ありがとうドロシー、本当に助かるわ。机に向かっていると自然に猫背になってしまうことが多いけど、背中の筋肉ってこんなに大事だったのね」
「カモミール様、晩餐の時間が近づいて参りました。旦那様もいらっしゃいますが、余り格式張った方ではございませんのでどうぞご安心を。それと、ベイクウェル夫人は同席しませんので、そちらもご安心を」
サマンサが笑顔で伝えてくれた内容は、ほっとするものと緊張するものの両方だった。
ベイクウェル夫人――グリエルマが同席しないのは純粋にほっとした。グリエルマの猛レッスンは夢に出て来そうな程だ。
一方、ジェンキンス侯爵が晩餐の席にいるというのはあらかじめ聞かされていたが、やはり緊張する。
「グリエルマ先生もお客人という立場かと思ったのだけれど、晩餐に同席しないということは違うのかしら」
「ベイクウェル夫人は2週間ずつ、複数の貴族家に家庭教師として招かれて逗留されていらっしゃいます。立場は家庭教師ですが位は子爵夫人ですので、毎回主人のいる晩餐の席に招かれるわけではないのです。
この侯爵邸にはベイクウェル夫人専用の部屋がありますので、奥様か旦那様のお招きがない場合は、お食事はそちらでとられることになります。
とはいえ、普段はご一緒されることが多いのですが、今日はカモミール様が初めて晩餐に出席なさるのでご遠慮されたのでしょう」
サマンサの説明で納得がいくと共に、グリエルマが晩餐を共にすることを遠慮したことに彼女の気遣いを感じた。グリエルマは厳しいが、それは相手のためになると信じてのことなのだ。
授業を受けていて感じたが、グリエルマは相手のレベルを見極めた上で、少し上のことを要求してくる。決して無理難題を押しつけてくるわけではなかった。今日のカモミールが求められたのも、「礼儀作法の意義を理解すること」と「一番初歩的な姿勢を美しく取ることを常に意識すること」であって、頭の上に本を載せて落とさずに部屋の端から端まで歩けとか、噂に聞いたような無茶は何一つなかった。――ただ、指導は厳しかった。それだけだ。
グリエルマはおそらく侯爵夫人と事前に相談し、カモミールの緊張癖を考慮した上で、「礼儀作法の教師と侯爵家主人が同席する晩餐」というこの上なく緊張しそうな条件を避けてくれたのだろう。
逆に言えば、今夜を無事乗り切れば明日からは彼女も同席する可能性が高い。
「それでは、そろそろドレスのお召し替えを」
「えっ!?」
サマンサの口から出た言葉につい驚きが声になって出てしまった。
「今着ていらっしゃるのは昼用のドレスです。晩餐の席には夜用のドレスにお召し替えいただくことになります」
ドレスに昼用と夜用があることなど初めて知った。カモミールが呆然としている間にソファから起こされ、ドレスを脱がされ、別のドレスを着付けられて少し濃いめに化粧を直される。
先程まで着ていたのは、確かにリボンやレースが少なくドレスの中でも簡素な方だったが、今度は光沢のある生地で贅沢に袖を膨らませてあり、丈の長さもカモミールが引きずるか引きずらないかのギリギリまであった。見るからに豪華である。
今度のドレスは華やかな色柄を使われているので逆に着る人間を選ばず、髪飾りを少し変えられた程度で済んでそれについてはほっとする。
「踏んだら転ぶわ……」
「踏まないように気を付けるしかありませんが、どうしても踏む危険がありそうなときは、両手で軽くスカートをつまみ上げるとよろしいですよ。例えば階段の上り下りなど」
「ご安心ください。侯爵邸の使用人の中に、お客人がドレスの裾を踏んで転んでも笑う者などおりません」
顔を青ざめさせたカモミールにドロシーは実用的なアドバイスをし、サマンサは転ぶことを前提として事前に慰めているように感じた。
晩餐の支度が調ったと侍女が呼びに来たのは、カモミールの緊張がピークに達した頃だった。呼びに来た侍女について食堂まで行く間、転ばないように転ばないようにと考えすぎたのか顔が強ばってしまった。
強ばった顔のままで歩いて行くと、一際大きな両開きの扉が、客の訪れを待つように開かれている。そこに立っている男性に目を止め、カモミールは軽く首を傾げた。
執事の服装ではないし、まさか侯爵本人ではないかと思ったが、ひとりで立っていることがよくわからない。
カモミールが近付くと、その男性はにこやかに優雅な礼をした。その礼だけで、相手が位の高い、確かな教育を受けた男性なのだと理解出来る。
「ようこそ、我が屋敷へ。デヴィッド・バリー・ジェンキンスだ。美しいお嬢さんのエスコートをさせて貰っても良いだろうか?」
そのまさかの侯爵だった。パチリとウインクをしてくるところなどお茶目でもあるが、さすがはジョナスの父という血を感じる。
思わぬ場所での侯爵の登場に、カモミールは頭で考えていたことの大半が飛んでしまった。脳裏に響くのは「急がない! ゆっくりと優雅に動きなさい.慌てているのを相手に気取らせてはいけません」というグリエルマの叱責の声だ。その声に従って、自然と体が動く。
「お初にお目にかかります。わたくしは城下にて錬金術師を営んでおりますカモミール・タルボットと申します。この度は侯爵様並びにマーガレット様のご厚意によりお招きいただき、光栄の至りに存じます」
「うん、ジョナスの言うとおり可憐なお嬢さんだ。さあ、私の腕にどうぞ」
先程猛特訓したばかりの礼をすると、ジェンキンス侯爵は笑顔のままで頷き、腕を軽く曲げて差し出してくる。
何カ所にも招待状を出すような晩餐会では、最も位の高い女性客を主人がエスコートすると先程「参考までに」とグリエルマから聞いていたが、まさか自分がエスコートされるとは思っていなかった。
ジョナスならば微笑ましいこどものやることと付き合うところだが、侯爵のエスコートは心臓に悪すぎる。
侯爵夫人を目で探すと、彼女は既に席の前に立っており、ぐっと手を握って見せている。その仕草はまるで、「頑張って」という声が聞こえてきそうだった。
「……失礼いたします」
「いや、何も失礼な事はない。女性客のエスコートは主人の役目だからね」
そっと侯爵の腕を取ると、朗らかな声で返される。
客人はカモミールしかいないのだから、カモミールがエスコートされるのは当然の流れなのだろう。しかし、侯爵夫人からハグをされることなど想像したことがなかったように、自分の生まれ育った地を治める侯爵にエスコートされる日が来ることなど、誰が想像するだろうか。
「どうぞ、お掛けになって」
無事にカモミールが席に案内されると、自ら先に座って見せながら侯爵夫人が着席を勧めてくる。晩餐は女主人が取り仕切るものなのだ。
「マーガレット様、お招きいただきありがとうございます」
「よく頑張っているようね、ミリー。思っていたよりも順調よ。あなたへのねぎらいの意味も込めてこの場を用意したわ。1日の疲れを癒やすために食事を楽しんでちょうだい」
礼を述べて着席すると、侯爵夫人は満足そうに微笑む。思っていたよりも順調と言われてカモミールもやっと肩から力が抜けた。
テーブルいっぱいに並べられたご馳走の数々もだが、ワインの瓶がさりげなく気になる。何杯までなら許されるだろうかと考え始めたカモミールは、朝とは確実に別人になっていた。