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第61話 侯爵邸での特訓・2

 カモミールが案内されたのは、前回にも訪れた侯爵夫人の私的な応接間だった。


「いらっしゃい、ミリー。忙しいのによく時間を取ってくれたわね」


 ソファから立ち上がり、笑顔の侯爵夫人が両手を広げて歓待してくれる。軽く抱きしめられて、カモミールの頭は真っ白になった。「とっても、とってもいい香りがする!」などと思ってしまい、それが自分で献上したトゥルー・ローズの香水であることに気づくのにしばらくかかった。


「ま、マーガレット様におかれましてはお日柄もたいへん良く……」

「あらあら、そんなに緊張しなくてもいいのよ。親しい人への挨拶としては貴族の間でも普通だわ」


 内心で「無理です!!」と叫ぶ。そもそも貴族ではないし、親しい人と言われたのも衝撃的だ。どこの一領民が侯爵夫人からハグを受けることを想定するだろうか。


「ミリー! 会いたかったわ!」


 侯爵夫人の体が離れると、今度は小さな姫君がカモミールに抱きついてきた。こちらにはつい微笑みが浮かんでしまう。


「アナベル姫様、お久しゅうございます。健やかにお過ごしでいらっしゃいましたでしょうか?」

「アナベル、ミリーの方がきちんと挨拶できていてよ。あなたもご挨拶をなさい」

「おかあしゃま、ミリーもごめんなさい。ええと、ごきげんよう。またあなたにお会いできる日を待ちかねておりました。どうぞわがやしきにて……ごるゆりと……ごゆるりと? おすごしくださいませ」


 アナベルは最後にはスカートをつまみ、片足を下げるカーテシーをしてみせる。これはカモミールもこっそり練習してみたのだが、意外にふらついて難しいものだと知っていた。

 前回もアナベルのカーテシーはまだふらついていたが、今日も上体がゆらゆらしている。

 年端もいかぬ幼女の精一杯の挨拶に、悶絶しそうだった。きっとカモミールを見るイヴォンヌもこんな気持ちでいるのだろう。


「姫様……わたくしもお会い出来る日を楽しみに待っておりました。以前お約束した姫様のための香水を作る材料を持参いたしましたので、よろしければご一緒に作ってみませんか?」

「……アナベル相手だとミリーは自然体で言葉が出るのね。不思議だわ。どうしてその態度を私に取ってくれないのかしら……まあいいわ。アナベル、良かったわね。錬金術かどうかはわからないけれど、香水を作るのを目の前で見る機会は私もまだないのよ」

「はい! とっても楽しみです! ミリー、ありがとう!」


 目を輝かせるアナベルの姿にカモミールも笑顔がこぼれる。


「今日から3日間、ミリーには侯爵邸の客人として過ごして貰うわ。それなりの扱いをするよう家の者にも伝えているので、必要以上に萎縮しないこと。よくって?

 客人を満足にもてなすことも出来ないとなると、我が侯爵家の問題にもなるわ。あなたはアナベルと一緒に礼儀作法のレッスンを受けて、その間にはゆったりと過ごしたり、私とお茶をしたりしましょう。お仕事の話は今回はしないわ」

「か、かしこまりました」


 そうは言われても緊張はする。礼儀作法のレッスンはアナベルと一緒と言うからには初歩的なところから始まるのかもしれない。けれど、「ゆったり過ごせ」とはどういうことだろうか。

 全く想像が付かなくて、未知の恐怖に襲われる。


「客人用の一室をあなたのために用意したわ。服も全て揃えてあるから後で着替えるようにね。それと、侍女をふたりあなたに付けます。イヴォンヌの方があなたも安心するかと思ったのだけれど、却って緊張するかもしれないから年若い平民出身の子を選んだの。――年若いとは言え、侯爵邸のれっきとした侍女よ、きっとあなたも彼女たちから得られることがあると思うわ」

「マーガレット様のお心遣いに感謝いたします」


 平民出身の若い侍女、と聞いて安心したのは確かだ。イヴォンヌは知り合いだから確かに安心する部分もあるが、自分よりも身分の高い人にかしずかれるのは心臓に悪い。


「それでは、まずはお部屋に案内させましょう。また後で会いましょうね。イヴォンヌ、ミリーを部屋に案内してあげて。あとはドロシーとサマンサに任せましょう」

「かしこまりました、奥様」


 イヴォンヌが侯爵夫人に頭を下げ、カモミールも慌てて頭を下げる。

 応接室を出て廊下を歩きながら、カモミールはイヴォンヌに疑問に思ったことを尋ねてみた。


「あの、マーガレット様は『ゆったり過ごせ』と仰せでしたが、具体的には私は何をすれば……?」

「ごめんなさいね、今回に関しては私はあなたへの助言を禁じられているの。手取り足取り、甘やかして教えてしまうだろうと奥様からのお達しがあって。私はいつも通り、奥様のお側に控えて自分の仕事をすることになっています」


 奈落に突き落とされた気分というのはこういうものだろうか。頼みの綱のイヴォンヌが手から離れてしまって、カモミールは目の前が暗くなったように感じた。



 ひとつの扉の前に、カモミールと同じ年頃の侍女がふたり控えている。ひとりは玄関前でバッグを預かってくれた人だとすぐにわかった。


「それでは、私はここで。ドロシー、サマンサ、後はお願いね」

「はい、イヴォンヌ様」

「後はわたくしたちにお任せください。それではカモミール様、こちらへどうぞ」


 ふたりのうち、いくらか歳上に見える背の高い侍女が扉を開けてカモミールに室内に入るよう促す。

 戸惑いながらもカモミールが中に入ると、ふたりが続いて入室してきた。


「う、わあ……」


 思わず声が漏れてしまった。平民のカモミールでは想像もしたことのない豪奢な部屋が用意されていたからだ。


 まず広さからして凄い。エノラの家が丸ごと入って余りある。それどころか2軒入るかもしれない。この部屋の中にもあちこちにドアが付いていて、どうなっているのかさっぱりわからない。


 一際存在感のある天蓋付きのベッドは大きくて、普段寝ているベッドの倍は幅がありそうだ。ベッドカバーも美しい刺繍が入っていて、これ一枚でどれほどの金額がするのかカモミールにはわからない。


 テーブルセットにクッションがたくさん置かれたソファ。そして、窓際に置かれた小さなテーブルと座り心地の良さそうな椅子。つい好奇心に負けてその椅子の元へ歩み寄ってみると、侯爵邸の整えられた庭を一望することができた。


「ここで、3日間……?」


 身の丈に合わないとはこの事だ。膝から力が抜けてその場に崩れ落ちると、足下のカーペットも毛足が長くとんでもない品だとわかった。


「カモミール様! 大丈夫ですか?」

「いえ、駄目です……」


 蚊の鳴くような声で答えたカモミールに侍女たちが寄ってきて、介抱してくれる。


「まずソファで落ち着かれた方がよろしいかと。温かい飲み物をご用意いたしますね」

「あ、ありがとうございます」


 侍女たちは慌てることなく、落ち着いた動作で動いていた。ひとりはカモミールに手を貸してソファへと誘導し、ひとりはお茶を淹れるために部屋を出て行く。


「そのように浅く座るのではなく、深く腰掛けてクッションにもたれかかってください。その方が落ち着きますよ」


 ソファに浅く腰掛けていると、侍女がアドバイスしてくれた。言われた通りにすると、クッションの程良い弾力がカモミールを包み込んでくれる。

 そこでようやく、カモミールはほっと息をつけた。


「ご挨拶が遅れ、大変失礼をいたしました。この度カモミール様付きとしてお世話を仰せつかっております、ドロシーと申します」


 背の高い侍女がお仕着せの紺色のドレスに白いエプロンの姿で、両手をちょうどへその辺りで重ねた美しい姿勢で礼をする。


「ドロシーさん、ですね。よろしくお願いします」

「わたくしたちのことは呼び捨てでお呼びください。カモミール様は侯爵邸のお客人なのですから、今このとき、わたくしたちに傅かれる側なのです。敬語も不要です。……貴族の方々の中にも、使用人に丁寧な言葉を使われる方はいらっしゃることはいらっしゃるのですが、今回カモミール様にはそういったことはさせないようにと奥様から仰せつかっております」


 イヴォンヌではなく年若い平民の侍女を付けた理由は、カモミールが「却って緊張するかもしれないから」と侯爵夫人は言っていなかっただろうか。

 これでは思い切り退路を塞がれているではないか。

 カモミールは「……はい」と掠れた声で応えると、ソファに埋もれたまま魂を飛ばしかけていた。

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