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第60話 侯爵邸での特訓・1

 カモミールはどんよりとした顔でペンを握っていた。

 ティンクシャーができあがり、それを使った化粧水もできあがった。ポーションを少量とはいえ入れたのでさすがの仕上がりで、エノラが興奮しながら数日使った感想を教えてくれたくらいだ。


 ガラス工房のアイザックも仕事の合間に来てくれて、釜の大きさを測り、特注の蒸留器を引き受けてくれた。見積もりでキャリーの顔が強ばったが仕方がない。


 今のところは、陶器とガラス容器のできあがり待ちである。……となると、以前言われていた「あれ」をやるのは今しかない。


「気が重ーい……」


 さっきからペンを握ったまま書き出そうとしないカモミールを、キャリーが不思議そうに見ている。


「でも断れる案件じゃないし、はぁ……」

「どうしたんですか、カモミールさん。今日はまた一段と暗いですね」

「侯爵夫人から、余裕があるときに侯爵邸で客人として過ごしながら礼儀作法を学ぶように言われてて……」


 カモミールの声の重さで察したのだろう。キャリーが額に手を当てて「あー……」と呻く。


「確かにカモミールさんにはそれくらいの荒療治が必要そうですね。じゃあ、ちゃっちゃと書いちゃいましょうか! 後回しにしてもその間のプレッシャーが増すだけですよ」

「わかってる、わかってるのよー。でも、手が動かなくて」

「じゃあ私が代筆しますね」


 キャリーが容赦なくカモミールの前の便せんを奪っていったので、カモミールは慌てた。せめて、こういう物は自分の手で書きたいのだ。代筆屋に頼むような代物でもないし、カモミール自身の決断で「いまのうちに行くべき」と決めたのだから。

 決めたはいいが後ろ向きだし気が重い。そういう状態である。


「敬愛するマーガレット様……」


 そこまで書いて筆を止め、うぬぬぬ、と唸ってしまう。すると、テーブルで向かい合っていたキャリーが立ち上がった。


「じゃあ私、直接侯爵邸に出向いて伝言してきます。要は今手が空いているので、先日お話があった礼儀作法の授業を受けさせていただきたいと伝えればいいんでしょう?」

「あ……あ……退路を、退路を塞がないでぇぇぇ」


 行動力のあるキャリーが頼もしくも恐ろしい。カモミールはキャリーに取りすがって止めようとしたが、首の後ろを猫の仔のようにテオにひょいとつままれた。


「いい加減諦めろ。結局それで全体のスケジュールの進行を遅らせることになるんだぞ?」

「テオにまでそんなことを言われちゃうなんて」


 カモミールはがくりと項垂れた。止める人間がいなくなったので、キャリーが「では行ってきますね」と即工房を出て行く。

 乗合馬車を使えば侯爵邸の近くまでは行けるので、キャリーは1時間程度で帰ってきた。


「門番の人に名乗ったら、イヴォンヌ様にお取り次ぎいただけましたよ。特に何も用意しなくてもいいから、明日の朝迎えに来てくださるそうです」

「何も用意しなくてもいいっていうのが一番怖い」

「そうですよね、つまりは、カモミールさんの服まで用意されてるってことですもんね」


 キャリーの指摘にカモミールはヒィッと息を詰まらせた。確かにそういうことだ。

 礼儀作法の練習をすれば侯爵邸で戸惑うことも減るとわかってはいるのだが、カモミールに染みついた平民気質はなかなかそれを許さない。


 翌日、カモミールは少しの荷物だけを持って馬車に乗り込んだ。中身はアナベルのために作ろうとしている練り香水の材料と、本来小物入れとして売っていた可愛らしい陶器だ。

 あらかじめ計量しておいたので、混ぜるだけでできあがる。


 服装は、先日買った紺色のスカートに白いブラウスだ。この組み合わせだと落ち着いているし、手持ちの中では一番品良くまとまる。髪型はそれに合わせてハーフアップにした。


「ミリー、おはよう。新しい服をちゃんと買えたようね。よく似合って……あら? 顔色が悪いように見えるわ。どこか具合が悪いのかしら?」

「おはようございます、イヴォンヌ様。体調はいたって良好なのですが、顔色が悪いのは緊張のせいです」


 また過度に緊張しているカモミールに、イヴォンヌがころころと笑う。


「安心なさい、奥様もあなたが精神的に参るようなやり方はなされないわ。きっと帰る頃にはいろいろ変わっているはずよ」

「……イヴォンヌ様は、初めて侯爵夫人とお会いしたときに緊張したりしませんでしたか?」


 イヴォンヌはマーガレット専属侍女の中でも次席の地位を持つそうだ。筆頭侍女はマーガレットが生家にいた頃から仕えている古株で、全てに於いてイヴォンヌの上を行くという。

 男爵令嬢という身分のイヴォンヌが、侯爵夫人として領地にやってきたマーガレットに初めて会ったときの心持ちなどを聞けば何か参考になるかとカモミールは思った。


「緊張……はもちろんしました。それよりも、私がお仕えする奥様はどのような方かしらという期待というか、そういった気持ちの方が大きかったかもしれないわ。

 侯爵邸でも事前に奥様のひととなりについては知らされていたし、理不尽なわがままを言われるような方ではないと聞いていたので、人柄について心配することはあまりなかったのよ」

「緊張よりは期待……それは、イヴォンヌ様が貴族の出だからなのでは」

「侯爵邸には平民出身の侍女もいるわ。最初は緊張していたようだけれど……あなたのように際限なく緊張し続けてはいなかったわよ」


 イヴォンヌにそう言われてしまっては仕方がない。カモミールがどんよりとしていると、イヴォンヌは彼女を元気づけるように諭した。


「緊張の全てがいけないことではありません。適度な緊張は必要なものでもあります。特に仕事や社交の場では完全にリラックスするのは逆に問題でしょう? ……けれど、ミリーの場合は過度にも程があるの。奥様はそれを学んで欲しいと、自分に自信を持って欲しいと仰せよ」

「……わかりました。頑張ります」

「まずはその肩の力を抜きなさい。一度肩を上に上げて、次は下げて、少し胸を反らしてから深呼吸。そう、大丈夫よ、きっと楽しい思い出も作れるわ」


 確かに、アナベルやジョナスに会うのも少し楽しみではある。特に、練り香水を目の前で作って見せたらアナベルがどれだけ喜んでくれるかを想像すると今から楽しみだ。


 やがて馬車は侯爵邸の門を潜り、玄関の前に駐められた。


「カモミール様、ようこそいらっしゃいました」


 ひとりの年若い侍女が歩み出て、カモミールの荷物とも言えないようなバッグを受け取ろうとする。

 このくらいは自分で持てるのにとカモミールが困惑していると、イヴォンヌが後ろから助言をくれた。


「あなたの使う部屋へ運んでおいてくれるわ。さあ、まずは奥様へご挨拶へ参りましょう」

「は、はい、よろしくお願いします」


 侍女にバッグを預けると、カモミールはイヴォンヌの後について歩き出す。

 これで4度目だというのに、未だに侯爵邸に慣れることができないカモミールだった。

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