侯爵家から戻ってくるなり、カモミールは屋根裏部屋に上がった。空気がこもっているが、ちょっとだけ、ちょっとだけと自分に言い訳して干し草ベッドに寝転ぶ。エノラの家のベッドとは違う、子供の頃から慣れた感触に癒やされる。
「はぁぁぁぁ……疲れた」
侯爵家の昼食は、サーモンパイとスープ、そしてサラダだった。昼は簡単に済ませるというのは庶民も貴族も変わらないらしい。
かといってカモミールが緊張しないで済むかと言ったらそんなことはなく。美味しいけれどもいまいち微妙に味がわからないという状態だった。
そして、侯爵夫人から告げられた言葉が痛い。
「いいこと? ミリー。あなたは自分に自信がなさ過ぎるわ。それは自分の価値を過小評価しているという理由に加えて、『こんなことをしたら失礼なのでは』と私たちに対して過剰に遠慮をしすぎているからなのよ。
3日間でいいわ、この侯爵邸で客人として過ごし、礼儀作法を学びなさい。知識は武器であり、鎧よ。あなたの場合は今後貴族との付き合いが増えていくのも必然なのだから、自分を守る鎧として知識を身につけなさい。
自分が平民だからとあなたは時々言うけれど、有能な人材に平民も貴族もないわ。あなたが平民だということでこの先見下してくる人間がいるなら、エドマンド家へ養子として籍を入れることも考えましょう。
今の時代では貴族と平民は役割の違いでしかないのよ。つまり、労働階級と管理階級ね。それを特権階級だといつまでも勘違いしている人間は賢くないわ」
平民は賤しく、選ばれし家門である貴族は尊い。――その考え方は未だ社会に染みついていて、カモミールも知らぬ間にそう思い込んでいた。
だからこそ、侯爵夫人の言葉は鮮烈で、今までの価値観を破壊していった。
クリスティンのように堂々と胸を張って、「錬金術師カモミール・タルボット」として侯爵夫人と向き合うのが彼女の望みなのだろう。――けれど、人は簡単には変われない。
自分は師が生きていればまだ修行中だった一人前になりきれていない身で、年若くて、いろいろなことを知らなさすぎる。
そんな自己弁護をしているときにふと思い出したのは、王妃セレナの事だった。
彼女は18歳で結婚している。福祉や施政に関するセレナの知識は、幼い頃からの教育の賜物だろう。それは貴族に生まれて、裕福な家の元で教育にお金を惜しむことがなかったからだ。
カモミールは豪農といえども田舎の農家に生まれた。幸い村には学校があったから読み書き計算も習うことが出来た。錬金術師に弟子入りして自らも錬金術を学ぶことが出来た。――そして、王妃が結婚した年齢より歳上なのだ。王太子妃時代から、王妃は独自に福祉に関する活動をしていたと聞いたこともある。
「結局言い訳なのかな、全部、私のやる気次第ってこと?」
侯爵家の客人として迎えられるなんて、考えただけで恐ろしい。
でも、恐ろしいのは何故だろう。おそらく、貴族の世界を知らないからだ。
錬金術師は科学で世界を切り開いてきた。それは「わからない」ことを無くしていくことで世界の闇に包まれていた部分を照らしてきたのだ。
――錬金術師である自分が、「知らないから怖い」というのは一番恥ずべき事だ。
頭の中が整理されると、やるべき事が明確になってきた。「恐れるべからず」というのは錬金術を学ぶときに最初に言われること。
未知の分野に踏み出すときは誰だって恐ろしいが、それを恐れていては人間に進歩はない。
「とりあえず買い物! 服も買ってこよう!」
侯爵家での逗留が決まったからには、アナベルの目の前で香水を作ってみせるのもいいだろう。きっと目を輝かせて喜んでくれるはずだ。
元々、今日はお披露目会のスケジュールに関する連絡が来たら、練り香水を入れる可愛らしい容器をさがしに行こうと思っていたのだ。思い切って買い物をしようと決めた。
「テオ、買い物に行ってくるね。ヴァージルが帰ってきたら、3人で屋台にご飯を食べに行こう」
「お、復活したか?」
蒸留水をひたすら作っているテオがカモミールの顔を覗き込んできた。自分の世界に浸っているようで、この精霊は案外周りを見ている。
「した! あ、そうだ。マシュー先生のところにも行かなくちゃ。なんか毎日バタバタしてるのよねえ」
「暇してるよりましだろ。そういえば、おまえガラス職人に知り合いいるよな? 今度ここに連れてきてくれねえか? 蒸留水作るのにこんなちまちま作ってないで、錬金釜の上に被せる蒸留器があればいいと思ってよ」
「確かに! それは格段に効率が上がるね! でもお金出すのは私なんだよね!」
「当たり前だろ。おまえの工房だよ」
「くっ、そうだった」
ガラス職人、でローラを買い物に誘ってみようと思いつく。買い物がてらマシューの家へ寄ってみればいいだろう。
そう思ってガラス工房へ行くと、ローラが凄い勢いで走ってきた。
「もう、ミリーずるいよ!! バラの香水瓶お父さんに頼んだんだって?」
頬を膨らますローラに、カモミールは苦笑しながらごめんと言って手を合わす。
「いつかローラにも作って貰うから! 今回は時間が無かったからアイザックさんに頼んだの」
「むー、しょうがないなあ。私も頑張って修行するから約束よ!? で、今日はどうしたの?」
「ローラが時間があるなら、服を買いに行くのに付き合って欲しいななんて思ったんだけど……忙しそうだね」
「うん、ごめん。忙しい。理由はミリーの発注した香水瓶」
ふん、と胸を張るローラは、自分もいっぱしのガラス職人で仕事をしているという自負があるのだろう。そして、買い物に行けない理由は自業自得だった。
「そのうち化粧水の瓶も発注するからもっと忙しくなるかも。じゃあ、いつかお互い時間が出来たら何か食べに行こうね」
「そうしよ! その時はタマラも誘ってね」
タマラは様々な分野のデザインをするので、顔が広い。ローラとも知り合いで、ローラはタマラのセンスに感銘を受けているのだ。
「あっ、そうだね! それは楽しそう。そうだ、うちに今度雇った人がいるから、その人も一緒にってのはどう? 18歳で凄くしっかりしてる人なの」
「歓迎歓迎! じゃあ、ミリー、私仕事に戻るね」
「うん。邪魔してごめんね。アイザックさんによろしく。今度時間があるときにうちの工房に来てって伝えておいてね」
ローラが誘えなかったのは残念だったが、タマラを誘うという選択肢がポカンと抜け落ちていたことに気がついた。マシューの家を経由すると、タマラの家へ寄って商店街へ行くのはそれほど回り道ではない。
マシューは運良く在宅だった。侯爵夫人が5000ガラムで石けんを欲しがっていることを伝えると、呵々と笑いながら石けんを5つ持ってくる。
「もう作っておらんからの。あの石けんはこれでおしまいじゃ。まあ、この石けんを使い終わる前にはお嬢さんの石けんが出回っているはずじゃがの。
しかし、侯爵夫人は物の価値がわかっとる! 息子夫婦に自慢出来るわい」
最後の方だけ声を大きくしたのは、家の中にいるお嫁さんに対してのアピールだろうか。
苦笑しつつ石けんを受け取り、自分の手持ちの中から25000ガラムを渡す。臨時収入としては嬉しい金額のはずだ。