「いらっしゃい。急に呼び出してごめんなさいね。クリスティンも来てくれたのは助かるわ。まずはふたりともそこへ座って」
侯爵邸でカモミールとクリスティンが通されたのは、夫人の私的な応接室のようだった。
座り心地の良さそうなソファとテーブルのセット、そして壁には花を描いた絵画などが飾られている。全体的に白とクリーム色とピンク色と、レースで構成された乙女らしい部屋だった。タマラのセンスとよく似ている。
「ご無沙汰しております、侯爵夫人」
クリスティンが礼をする。カモミールも慌ててそれに倣った。
「本当に久しぶりね。でもこれからは頻繁に会うことになりそうだわ。イヴォンヌ、お茶と、何か軽くつまめるものを用意してくれないかしら。私ったら、石けんのことで頭がいっぱいになりすぎて、もうすぐ昼食だってことに気が回らずにふたりを呼び出してしまったわ。お茶はクリスティンもいることだし、クイーン・アナスタシアを。ほら、クリスティン、あなたが座らないとミリーが緊張して座れないわ」
「あら、それもそうですわね。では失礼いたします」
侯爵夫人の向かいのソファにクリスティンが腰掛けたので、カモミールもか細い声で「失礼します」と言ってその隣に座った。飾り気の全くない紺色のワンピースが、場違いなことこの上ない。
「ミリーは前回以上に緊張しているのね。石けんのことが心配だったのかしら?」
「い、いえ……前回はイヴォンヌ様に服もお貸しいただいたのですが、今日は全くの普段着で、お化粧もしておりませんし……失礼にあたるのではないかと」
「ふふっ、馬車の中でもイヴォンヌ様と私に囲まれて、子ウサギのように震えておりましたのよ。それはそれで可愛らしくて見ている分には楽しいのですけど、王都のお披露目会で早々に卒倒してしまうのではないかと心配になって参りましたわ」
クリスティンの語る予想が、まざまざと脳裏で再現される。――やる、きっとやる。着飾って多くの人々の前で、しかも慣れない王都で貴族に囲まれたら緊張のあまり倒れるのはとてもあり得ると自分の事ながらカモミールは妙な確信を持った。
「イヴォンヌ様など、少々荒療治が必要かなんて仰って。それからずっと震えているんですの」
「……ミリー、以前も思ったのだけれど、あなたは自分の価値を低く見積もりすぎているわ。普段着だからと気にすることはありません。私が着飾るのも、あなたが質素な服を着るのも、その職業なりに必要なことだからよ。
袖の広がったリボンだらけの服で錬金術をしたら、何かの器具にリボンが引っかかってとんでもないことになるでしょうね。逆に、侯爵夫人である私が人前で身分にふさわしくない質素すぎる服装をすると、侯爵家の財務状況を探られてしまうわ。――そういうことよ。
あまりいつまでも震えていると、王都でのお披露目会用の服以外に20着くらい可愛らしい服を作って送りつけてしまうわよ?」
「マーガレット様、それは是非お考え直しいただきたく!」
20着もの服を送られたら、まず着る機会が無いし置き場所がない。部屋が服で埋もれてしまう。カモミールは慌てて侯爵夫人を止めた。そして、くすくすと笑う夫人を見て、それが彼女なりの冗談だったのだと気づいて真っ赤になる。
「ああ、楽しいわ。イヴォンヌが気に入るのも凄く納得出来るもの。
でもミリーが可哀想だから、仕事の話を始めましょう。昨日貰った石けんは、早速試したわ。あまりに素晴らしくて、誰かと話したくて話したくて子供の頃のように朝になるのが待ち遠しかったの!」
「私もです。マルセラ石けんがあまりに基準になりすぎていて、あのような石けんがあるなんて思ってもみませんでしたわ」
石けんの話になった途端、侯爵夫人とクリスティンが興奮気味に石けんの素晴らしさを讃え始める。今回に限っては、あれはカモミールが作った物ではないので多少気が楽ではある。
「私も驚きました。あれは石けん作りのために雇用したマシュー・キートンという錬金術師が過去に作った石けんですが、彼は石けん作りに精通していて他にも何種類もの石けんを持ってきてくれたのです。実際に使って試した方が、違いがわかるだろう、と。
全てマルセラ石けんにはない豊かな泡立ちで、様々な油脂を組み合わせることでできあがる物が全く違うので石けんというものを見直しました。今はマシューを師として、石けん作りについて勉強しております。――ですが、マルセラ石けん以外を知らずにやってきた私よりもマシューが自信を持って推してきたレシピの石けんの方が確実に良い物のはずですから、おふたりにお贈りしたあの石けんをヴィアローズの注目商品ということで並べたいのです」
「それについては全く異存は無いのだけど、5週間かかるというのはどういうことなのかしら? 石けんを使ってから開くようにと渡された手紙に書いてあった話は、私にとってはまるでびっくり箱を開けて道化師の人形が出て来たような驚きだったわ」
それが一番の問題だ。冷製法なんていう、錬金術師のカモミールでも知らなかった事を上手く説明出来るか、少々自信が無い。
「マルセラ石けんは水とオリーブオイルのみで作られているのは、ご存じかと思います。
マシューと、更にその師に当たる錬金術師たちは、大疫禍の前から代々石けんを研究していたそうです。石けんに使う油脂によって泡立ちが良かったり、洗浄力が高かったり、傷の治りに効果があったり、様々な違いがありました。――けれど、今はそれらは忘れられて洗浄力が高く肌には優しいけれども使いやすいとは言いにくいマルセラ石けんのみが残ってしまいました。
推測ではありますが、大疫禍に際して早急に洗浄力の高い石けんのレシピを世界中に広げなければと考えたマクレガー夫人は、間違いの無いよう敢えて材料を減らしたのではないかと思います」
そこまで話したところで、イヴォンヌがティーセットを持ってきた。話し続けて口が渇いてきたところだったので、お茶を待ってもいいかと目で問いかけると侯爵夫人が微笑んで頷いた。
「あっ、このお茶は……」
香りで、それがクリスティンに勧められて飲んだ紅茶だと気づく。今度はクリスティンが得意げに笑った。
「気づいてもらえて嬉しいわ。銘柄はこの前は言わなかったけれど、クイーン・アナスタシアというサマール王国で作られる紅茶なの。先代女王のアナスタシア陛下がこの香りを大変好まれて、ご自分の名前を付けることをお許しになったという逸話があるのよ」
「アナスタシア女王も、ミルクと砂糖を多めに入れて飲むのを好まれたというわね。でも人によってはストレートで飲むこの渋みこそがいいという人もいるのよ。例えば私の夫とか。私とクリスティンは砂糖もミルクもたっぷり入れる派ね。ミリーはどちらかしら」
「私も初めて飲んだときは渋さに驚いたのですが、ミルクを入れて飲んだときはなんて美味しいお茶なんだろうと感動しました」
「まあ、それはよかったわ。仲間はずれ無く、女3人でミルクと砂糖をたっぷり入れて飲みましょう」
悪戯っぽく微笑んでいかにも楽しそうに侯爵夫人が笑う。
まるで長い付き合いの友人のように侯爵夫人は軽やかに話しかけてくれるので、どれだけ緊張していても、いつの間にか肩から力が抜けている。
これが高位貴族として教育を受けてきた人の会話術かと思うと、カモミールは感心するしかなかった。