油脂の特徴については、ノートをよく読むようにとマシューから指示された。それぞれの特性を見ているときに「これと組み合わせれば」というアイディアも浮かぶのだという。
「基本的には、オリーブオイルの短所を埋めていくのが簡単なレシピの組み立て方じゃな」
「それはわかりました。でも私がうっかり破いたりお茶をこぼしたりするのが怖いので、今日の講義が終わったら即写本依頼に出させてください!」
「む、むう……仕方ないのう」
短い付き合いだが、マシューも「カモミールが時々凄いドジをしそう」な雰囲気を感じ取ったのだろう。実際には何もやらかしていないのだが、勢いがある分見ている方は転んで大けがをしないかハラハラするらしい。これはロクサーヌとヴァージルに全く同じ事を言われているので、カモミールの印象はそうなのだろう。
簡単に講義をした後は、レシピを見て苛性ソーダの分量を割り出す計算をすることになった。
これは4種類のオイルを使ったレシピをお題として出されたので、面倒くさいながらも楽勝と思っていたのだが――。
「あら? 先生の書いたレシピと数字が合わない」
マシューが初日に置いていったレシピと、苛性ソーダの数字が合わない。計算違いかともう一度計算しても、同じ数字が出る。
「……先生、わかりません」
「お嬢さんは素直なのはいいんじゃが、もう少し他のレシピと照らし合わせて考察するとかそういうことを……仕方ないのう」
早々に降参宣言をしたカモミールに、マシューががくりと頭を落とした。
「これはな、元の苛性ソーダの数値の93%の分量なんじゃ。お嬢さんの計算は間違っておらん。儂の石けんは、石けんの中に敢えて油脂を残すことによって油脂の肌への効果をより引き出しているレシピなんじゃよ。そういう石けんもある、という例のために計算して貰ったわけじゃ」
「ああー、なるほど! 包丁で切ったとき他の石けんより柔らかいなと思ったのはそういうことなんですね」
がっちり乾燥しているマルセラ石けんを包丁で切ろうとしても、綺麗に切れずに欠けさせてしまう事が多い。それに比べるとマシューの石けんはすっと切ることが出来た。その違いに納得する。石けんの中に「敢えて石けんにせず油脂のまま残す」部分があるというのも目から鱗だ。
「なんだか、私の知ってる石けんと違いすぎて、とっても新鮮です。あの凄く使い心地のいい石けんには、たくさんの工夫が入っているんですね」
素直に感想を言うと、マシューが鼻を膨らませてムフーと満足げに頷いた。
「まあ、儂ひとりの功績ではないがの。儂の師匠、そのまた師匠……『小さな錬金術』の始まる前から石けんについて研究してきた先達のおかげじゃ」
「じゃあ、マシュー先生も早く弟子を取らないと!」
「弟子なら今目の前にいるじゃろうが!」
「私は石けんを専門に研究出来る弟子にはなれません。弟子に数えられてもいいですけど、この研究を深掘りする気はないですよ。私は化粧品に関わる物として石けんのことを見てますから。本分は化粧品の方です」
カモミールがバッサリと切り捨てると、一瞬前まで得意げだったマシューががくりと落ち込む。
「テオ……一旦この技術を習得して、次の弟子に教えてくれんかのう」
「やなこった。興味があんまり無いからな。マシュー、おまえ弟子を探すのが面倒なんだろう?」
「うぐっ! 若者の言葉が老骨に鞭打つわい!」
「俺の方が歳上だぜ」
ああそうか、とカモミールは突然納得した。マシューが錬金術ギルドに入り浸って石けんの求人を待っていたのは、弟子捜しが面倒だったからなのか、と。
これは、カモミールやキャリーが積極的に弟子を探さないと、この技術が埋もれてしまうかもしれない――そこまで考えて、ふとカモミールはキャリーならどうだろうと思い至った。
計算が速く、覚えが良くて、親が錬金術師だからいろんな事に抵抗がない。もしキャリーが石けん作りに興味を持ってくれたら、彼女をマシューの弟子にするのもありなのではないだろうか。
そんなことを考えている間に、マシューは苛性ソーダを持って工房の外へ出た。一番大きな木製のメスカップには、計量した蒸留水が入っている。
「この工房は換気扇がないのが問題じゃな。あー、懐かしいのう。昔も苛性ソーダを溶かすときには工房の外でやったもんじゃ」
苛性ソーダは劇薬だ。強アルカリなので手に付いたりすると火傷になるし、目に入ったりすると失明の可能性がある。しかも水に溶かすとき高熱を出すので、急激な温度変化に耐えられずにガラスのメスカップだと割れることがある。――とにかく取り扱いがやっかいなのだ。錬金術師の中にも「苛性ソーダ怖い」と忌避する人がいるくらいだ。
カモミールはバンダナを三角に折って口元を覆うようにして頭の後ろで結んだ。これをしないと、蒸気を吸って咳き込んでしまうのだ。工房の中で出来ないのはそのせいだった。
苛性ソーダを使う時用の度の入っていない眼鏡を掛け、ゴム手袋をしてマシューの後を追う。
「先生、私がやります」
「一応石けん作りのために雇われているからの、お嬢さんは見ていなさい」
そういえばそうだった、とカモミールは内心で呟く。マシューは師でもあるが、基本は石けん職人として雇った人間なのである。新製品開発に必要な知識をカモミールが勉強する必要はあるが、作る方は任せても問題ない。
「苛性ソーダ水溶液は熱くなるからのう。先に作って冷ましておくんじゃ」
「冷ますんですか」
これも初耳だ。カモミールは完全武装のままでマシューの石けん作りを見学することにした。
贅沢石けんに使う苛性ソーダの分量を量り、先に水が入っている木製のメスカップに匙で少しずつ入れていく。これを逆にして、苛性ソーダの中にドバッと水を入れると高確率で爆発するのだ。「苛性ソーダ怖い」と言う錬金術師は、このたったひとつの手順をうっかり失敗したケースが多い。
マシューはさすがの手慣れた様子で苛性ソーダを全て水の中に入れると、木の棒で攪拌を始めた。苛性ソーダが溶けきってしまうと、上に置くだけの蓋をして、液温計をメスカップに差し込み、そのまま外に放置する。
「さて、次は油脂の準備じゃ。3キロだと楽じゃのう」
マシューはこれも手早く行っていく。使う油脂の中には今の気温では固形の物もあるので、それは火を入れた錬金釜にまず固まっているココナツオイルを入れて液体に戻し、液体になったココナツオイルにココアバターやシアバターを入れて溶かしていく。
「先生、ココナツオイルにバター系油脂を入れて溶かすのには意味があるんですか?」
「おお、いい質問じゃ。この中ではココナツオイルが一番酸化しにくい。加熱に強いという事じゃな。なので、固形の油脂を溶かすために、ココナツオイルを最初に入れて温めるんじゃ」
入れる順番が重要というのは頷けた。時折化粧品作りでもそういった物はある。
こちらも固形の油が溶けた後、オリーブオイルやキャスターオイルなどの常温で液体の油脂を入れ、またもや液温計で温度をチェックする。温度は低かったらしく、しばらく加熱を続けた後、マシューは錬金釜の下から薪を抜いて火を止めた。
「あれ? 火を止めるんですか? 私はいつも加熱したままのオイルに苛性ソーダを入れて攪拌してましたが」
「うむ。それが一般的な作り方じゃ。釜炊法じゃな。さて、これらの材料はそのまま肌に塗ってもいいほどの良質な物じゃ。わざわざ全部を石けんにせず、石けんの中に油脂として残るように計算もされておる。ここで問題じゃ。油脂は加熱するとどうなる?」
「えーと……熱くなる?」
「馬鹿もん!!」
「え、えー?」
突然轟いた「馬鹿もん」にカモミールは半泣きになる。テオまでが頭を抱えて残念な物を見る目でカモミールを見ていた。
「一般的にはそれで間違ってはおらんが錬金術師としては0点じゃ! テオ、おまえさんの答えはどうじゃ」
「加熱したら、酸化する、だな」
「ああああ! そうか、酸化するんだ!」
「もうひとつ問題じゃ。酸化した油と酸化してない油。肌に付けるならどちらじゃ」
「酸化してない油です!」
化粧品を作っている人間として、これは間違えられない。まだ渋い顔をしたままマシューは頷いてみせる。
「つまり、加熱して作った石けんと、最低限の熱だけを加えて作った石けん、できあがった後に肌に良い成分が残っているのは?」
「余分な加熱をしてない石けん! だから余分な熱を加えないために苛性ソーダ水溶液も冷ましてるんですね! できるだけ生のオイルを良い状態で保ちたいから!」
「そうじゃ。これを冷製法という。熱を掛けた方が鹸化は進みが早い。できあがるまでの時間もかからん。しかし、品質のために加熱は最低限にし、攪拌で反応を進める。型に入れられる固さになったら、乾燥をさせながら徐々に熟成が進み、約4週間程度で使える石けんになる。――これが、贅沢な石けんという物じゃよ」
「油脂だけじゃなくて時間も贅沢だった……」
昨日マシューに5週間と言われたときには全く理解出来なかったが、カモミールは「贅沢石けん」の真の贅沢さをここで知ったのだった。