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第40話 続つよつよ石けんおじいさん

 翌日、マシューはまた荷車を引いてきた。何かと思えば、石けんを流し込んで凝固させるための大量の木箱だ。


「木箱のこと忘れてました」


 正直に申告すると、マシューは一瞬渋い顔をした後に「……素直でよろしい」と言ってくれた。


「これは守り通せたんじゃ……だが、木箱なんぞ買い直そうと思えばいくらでも買えるわい。捨てられて痛かったのは、水銀法苛性ソーダ生成装置と発電機じゃな」

「ひ、ひえええええ!!」

「発電機捨てられただとォ!?」


 テオも出て来て死にそうな顔をしている。マシューの言ったふたつの機器は、石けんを作るのに使う強アルカリ薬品である苛性ソーダを作るためのものだ。発電機が高価なのは言うに及ばず、水銀を使う生成装置も普通の錬金術師が扱う物ではない。


「マシュー……おまえ、息子の教育間違えたなあ」

「それもあるが嫁じゃな。錬金術そのものを毛嫌いしておる」

「そんな人、未だにいるんですね……」


 錬金術はどうしてもうさんくさいイメージがつきまとう。これでも科学の最前線をいくのが錬金術なのだが、昔のあり得ないことをやっていた悪い評判が未だに残っているのだ。


「さて、お嬢さんには石けんを4種類使って貰ったわけじゃが……4種類使ったと言うことでいいんじゃな?」


 マシューは分厚いノートをテーブルに置き、自分は椅子に座って講義の構えだ。しかしいきなり疑問が出たらしく、確認されたカモミールは頭をぶんぶんと縦に振った。


「使いました! 20歳の私と40代と60代の女性の協力を得て、使い心地を試しました。それで、このレシピの石けんを数は絞って貴族向けに、こちらの石けんは一般向けに売り出したいと思います。それと、どちらも香りを付けるつもりでゼラニウム精油を昨日は買いました」


 マシューは目を細めてふむふむと頷いている。そして、カモミールにも座るように促すと、テーブルの上のノートをカモミールの方へ押しやった。


「これが儂の長年の研究の成果じゃ」

「拝見します……って、何ですかこれ!」


 てっきりレシピがたくさん書いてあるのかと思ったら、ページ毎に油脂の特徴と、油脂1gを石けんにするのにどのくらいの苛性ソーダが必要かという「けん」という物が書かれていた。マルセラ石けんが有名なのでそのレシピは手に入れられない人はいないと言うほど出回っているのだが、1から石けんのレシピを組み立てようと思ったらこれは無くてはならない教本になる。


「儂だけではなく、マクレガー夫人派の錬金術が始まってから、石けん作りに情熱を傾けてきた先達の知識もつまっておるのじゃ……この世に1冊しかないから大切にするように」

「えっ!? 私が引き継ぐ流れですけど、私は石けんを専門に作る職人じゃないですから持て余しますよ!? ていうか、これ写本して貰いましょう! 石けんの重要情報がこの1冊しかないとか怖すぎです!」


 あまりにも重要すぎるノートの存在にカモミールは怯えた。自分が何かの理由で紛失させてしまったらこの知識が消えるとか冗談ではない。


「今日は午前中は講義、午後は実際に石けんを作りましょう。5週間かかる石けんなんて聞いたこともなくて、私は昨日から慌ててます」

「まあそうじゃろうなあ。――石けんの発見は、古代に神に捧げた動物の丸焼きからしたたった油が、下にあった草木の灰と混じり、それが川に流れて『何故かここで洗うと汚れがよく落ちる』と言われ始めたのが最初じゃな。

 そのうち、手に入りやすい獣脂を材料に、草木の灰を使って作られるようになった。この石けんは歴史が長いぞい」


 カモミールはうんうんと頷いてみせる。石けんの発見は聞いたことがある程度だ。


「マクレガー夫人以前は石けんは灰を使って作られておった。固形の石けんを作るには草木の灰だけではなくて海藻の灰が必要で、これが地域によっては入手がなかなか困難だったんじゃのう。この時期の石けんはどろりとしたジェル状だったわけじゃが……この石けんの問題がわかるかの?」

「ジェル状の石けんの問題点ですか……洗濯にはむしろその方が使いやすそうだし……わかりません」

「水分が多いと言うことは、びやすいと言う事じゃ。よく憶えておきなされ! 水分を飛ばした固形石けんの利点は保存性にある。まあ、限界はあるがの」

「あ、あー! カビ! 確かに衛生的に大問題ですね!」


 草木の灰は入手しやすいが、液体石けんは保存に難がある。そして、灰から灰汁を作るのも2日くらいかかったりするので、マクレガー夫人が石けんをより早く効率的に作るために発明した苛性ソーダが今は石けん作りにおいては定番の材料だ。

 生活錬金術師の中には苛性ソーダを専門に作る人もいる。水銀を使った特殊な設備が必要なので、錬金術師が全て苛性ソーダを作れるわけではないのだ。――マシューはその設備を捨てられてしまったわけなのだが。


「今主流となっているマルセラ石けんじゃが、マクレガー夫人がとにかくレシピをシンプルに、と考えた末に出来た物ではないかと儂は思っておる。大疫禍の際には最初はとにかく獣脂でも何でも手に入る脂は片っ端から石けんにしたという話もあるからのう。

 そうするとどうなるか。石けんにするための苛性ソーダの計算が果てしなく面倒なんじゃ。作る度に油脂が変わるというのはそういうデメリットがあるんじゃな。そこで、マクレガー夫人はけんの計算が出来ない錬金術師向けにマルセラ石けんのレシピを公開し、オリーブの木をとにかく増やすように当時の国王に奏上した。もちろんこれはひとりでやったことではないぞ。石けん作りを代々行ってきた錬金術師が、マクレガー夫人に大いに協力しておる。皮肉なことに、マルセラ石けんがまるで唯一のレシピのように扱われて、彼らは衰退してしまったが……」

「衰退しても、ここにマシュー先生がいるじゃないですか。この重要な情報も残ってますし。ここからまた始めましょう。私はこの石けんは必ず売れると信じてます。既存の石けんで今まで香りを付けられなかったのも、カオリンを入れられなかったのも、マルセラ石けんの『材料は水とオリーブオイルのみ』って言うところにひっかかってたんですよね。マルセラ石けんだけが石けんじゃないっていうのを、80年越しにみんなに思い出して貰いましょう!」

「おお、なんと頼もしい弟子じゃ!」


 マシューが感動に目を潤ませてカモミールの手を握る。それを横目で見ながら、テオが蒸留水を作りつつぼそりと呟いた。


「石けん単独でやろうとしてたからダメだったんだろうなあ……カモミールは化粧品とセットで売ろうとしてるから、多分売れるぜ。情熱だけがあってもダメだっていう見本だな」

「うぐっ!」

「テオ! マシュー先生を殺さないで!」

「へいへい」


 気の入っていない返事をすると、テオはまた蒸留水作りに戻っていった。

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