「イヴォンヌ、用意はできて……」
用意された椅子にアナベルがちょこんと座った。場が落ち着いたのを見て夫人がイヴォンヌに声をかけたとき、再びバーンという勢いで温室の扉が開く。
「アナベルばっかりずるい! 僕だって母上とお菓子が食べたい!」
物凄く素直な言葉が聞こえて、カモミールは思わず耳を疑った。こどもといえど、貴族がこんな直接的な言い方をするとは思ってもみなかったのだ。
駆け込んできた少年は侍女に追いつかれることなくテーブルまで先に辿り着き、得意げに夫人を見上げている。
「いけないわ、ジョナス。お客様がいらっしゃるのよ。お母様とお茶はいつでもできるけど、お客様の前で行儀が悪くてよ」
夫人は声を荒げることもなく、身を屈めると息子に向かって優しく言い聞かせている。カモミールはこの子が未来の領主様かと興味深く視線を注いだ。ジョナスはアナベルと同じく母親によく似た金髪の、活発そうな少年だ。
「……ごめんなさい、母上」
ジョナスはあっという間に項垂れた。直情的なところはあるかもしれないが、素直な質なのだろう。そしてカモミールに向き直ると、顔を上げたところで彼ははっとしたように固まった。
どうしたのだろうと笑顔で見守っていると、ジョナスはカモミールの元へ歩み寄り、突然ひざまづいたのだ。
「美しい方、お名前を聞かせていただけませんか。私はジョナス・アーサー・ジェンキンス。ジェンキンス家の嫡子です」
カモミールの手を取って言った言葉がとても7歳とは思えなかった。ジョナスの肩越しにイヴォンヌが震えて笑いを堪えているところが見える。夫人も吹き出すのを堪えたのか、不自然に口元が歪んで頬が引きつっていた。
「か、カモミール・タルボットと申します。あの、坊ちゃま、私のような平民相手に膝をつくなどいけません」
「カモミール! 名前も美しいのですね! どうか私の将来の伴侶になってください! 妖精のように美しいあなたに、私の心は虜になっています!」
「…………助けてください」
目を輝かせて求婚してくる金髪の少年に、カモミールはどう対応したらいいのかわからず、か細い声でイヴォンヌと夫人に助けを求めた。
「ご、ごめんなさいね、カモミール。私は今、ジョナスの可愛い姿を脳裏に焼き付けるので精一杯」
夫人からはまさかの親馬鹿発言が飛び出し、イヴォンヌは息を止めているのか、小刻みに首を振られた。
「おにいちゃま、ミリーがこまっていてよ! ミリーはおにいちゃまとはけっこんできませんと言いたいのに、はっきり言えないのだわ!」
アナベルがジョナスとカモミールの間に割り入ってきた。幼いのにカモミールの言いたいことを的確に代弁してくれている。
「僕と結婚出来ない!? なぜ!?」
ジョナスが悲痛な声を上げてカモミールの手をぎゅっと掴んだ。絶望しました! という表情が顔一杯に広がっていて、カモミールは返答に困る。
なんと言ったらいいのだろうか。身分が違うから? 年齢が違いすぎるから? いや、その辺は多分力尽くで割とどうにでもなってしまう問題だ。だとしたらやはり――。
「わ、わたくしは他に好きな人がおりますので……」
脳裏に浮かんだのは、同じ金髪でもジョナスとは性格的に反対そうなふわふわした幼馴染みの青年だった。カモミールの言葉に、がーんと顔面に何かをぶつけられたようにジョナスがよろめく。そこへアナベルの追い打ちが入った。
「それに、ミリーとおにいちゃまではねんれいがはなれすぎていると思うの」
幼女ながら鋭い一言である。どこまでカモミールの年齢をわかっているかは謎だが。
「カモミール、あなたはおいくつですか?」
「えーと……」
食い下がってくるジョナスに、真実を告げるべきかどうか迷う。カモミールが迷っている間に愛息子の姿を堪能出来たらしい侯爵夫人が咳払いをして注意を引いてくれた。
「ジョナス、レディに年齢を尋ねることはとても失礼な事ですよ」
にこやかにそれ以上の追求を阻んだ夫人の言葉に、カモミールは心中で「それだー!」と叫んだ。しかし、これは自分からではとても言えない切り返しだっただろう。
「うぐっ……カモミール、失礼を許して欲しい」
しゅんと項垂れて、まるで叱られた子犬のようになっているジョナスがとても愛らしい。カモミールはできるだけ彼を傷つけない、失礼にならないような言葉を選びながら少年に言葉をかけた。
「いいえ、気にしておりません。坊ちゃまに妖精のように美しいと言っていただけて、嬉しく思いましたから」
結局はヴァージルの化粧が偉大だというところに行き着いてしまうのだが。
「ジョナス、アナベルを連れてお部屋に戻っていてくれるかしら? お母様はカモミールとお仕事のお話があるの」
「はい、わかりました。――それでは、カモミール、また」
「ごきげんよう、ミリー。またお会いする日をたのしみにしているわ」
7歳の兄と5歳の妹のはずなのだが、妹の方がしっかりして見える。女の子の方がませているという典型なのだろう。カモミールを振り返り振り返りしている兄を、手を繋いだ妹が引っ張っているのだ。ふたりを見送りながら、カモミールはつかの間仕事の話を忘れた。
「あらあらあらジョナスったら! カモミールみたいに可愛い女の子が好みなのね」
ジョナスが温室から出て行ったことを確認し、夫人が笑い出す。そこへ、釣られて笑わないように気をつけているのか、未だに肩を振るわせながらイヴォンヌがやってきて重そうな袋をテーブルに置いた。
「お仕事の話に戻りましょうね。これは王妃陛下へ献上する品物の材料費などの準備金よ。今あなたの手元には材料も器具もまともには揃っていないのでしょう? このお金で一刻も早くそういったものを揃えなさい。人手が足りないようなら雇いなさい。それと、工房の屋根裏に住んでまたドクダミの匂いが移っては大変よ、どこかに部屋を借りた方がいいわ。ああ、あと服も3枚くらいは買いなさいね。王都に行くときの服はこちらで準備することにしましょう。あなたに任せておくときっと地味な服を選んでしまうでしょうし」
「準備金……よろしいのですか?」
元々侯爵夫人に香水を贈ったのは彼女が大瓶を高値で欲しがると思ってのことだったが、予想外にことが大きくなっている。この袋の中身が金貨だとしたら、当初の予定の20万ガラムどころの話ではない。
「200万ガラム用意したわ。これは私の私財と領地の産業振興費から出ているの。金額が大きいと思っているかもしれないけど、私はあなたの才能を高く評価しているわ。そして、今のあなたに足りないものはお金で解決出来るものばかり。このお金で人を雇えば雇用が生まれます。材料を買えばお金が市場に回るわね。つまり、あなたはびくびくせずにこのお金をどんどん使うのが正しいのよ。これからの一ヶ月で150万ガラムを使い切るくらいの勢いで使いなさい。物事の立ち上げの時が一番お金がかかるものよ。――それで、ヴィアローズの実稼働までは大幅に時間が短縮出来ると思うのだけれど、あなたの見立てではどうかしら?」
200万ガラムという大金を前に、カモミールは意識を飛ばしたくなった。けれど、なんとか夫人の言葉を咀嚼しながら踏みとどまる。
この期待に応えるためには、逃げてはいけないのだ。
「白粉は既にレシピがありますので、ほんの少しのアレンジで済みます。化粧水は一部の成分を置き換えようと今実験中です。下地クリームはミラヴィアでも比較的新しい商品でしたので、今のところ改良点はありませんのでそのまま作成して……口紅、頬紅、石けんもそのままの予定です。完全に新規に作るのは香水を3種と、全く新しい構想中の白粉です。――ミラヴィアの時から付き合いのある陶器とガラスの工房の予定を押さえて白粉と口紅の容器を発注して、1ヶ月あれば全て揃うと予想しております」
アイシャドウやアイラインはミラヴィアでは作っていない。特に毒性などがなく、劇的な改良は必要なかったのだ。石けんは日数がかかるが15日程度で、一度作ってしまえば後は乾燥熟成に必要な日数なので放置でいい。おそらく、化粧水と香水を作ることに時間が取られるだろう。
容器はヴィアローズのバラの意匠を使用した新しいものにしたい。陶器は時間がかかるので、明日すぐにでも発注に行くつもりだ。
こうして口にしてみると、意外に自分がやることをきちんと把握していることに安堵する。そして、やはりテオを使っても手が足りないと言うことに思い至った。
「……やはり、人手が足りないようです。容器へ詰める作業など、専門知識の要らないところに人を雇いたいと思います」
「そうなさい。あなたでないと出来ないことだけを、あなたがやればいいわ。カモミール、いえ、ミリーと呼ばせて貰うわね。私のこともマーガレットと呼ぶことを許します。私はジェンキンス侯爵夫人として、国中に通用するあなたの化粧品を貴族層への重要な商品として領の産業という視点から推しています。そして、ひとりの女性としては、ミラヴィアを、そしてこれからのヴィアローズを愛するファンよ。困ったことがあったらすぐに相談なさい。私とあなた、そしてクリスティンは同じ船に乗っている仲間も同然だわ」
雲の上の人と思っていた侯爵夫人からの思いがけない提案に、カモミールは初め戸惑い、すぐにそれを正面から受け止めることにした。マーガレット・アリエル・ジェンキンス侯爵夫人は人を身分で判断していないのだ。余計な謙遜は却って不敬になる。彼女が求める能力をカモミールが持っているという事なのだから。
人を身分で判断していたのは、むしろカモミールの方だった。
「マーガレット様のご厚意に深く感謝いたします。若輩者ゆえ、至らぬ事もあると思いますが、よろしくご指導くださいませ。マーガレット様のため、アナベル様のため、世の中の女性が安心して使える化粧品を広めることに努める事を誓います」
カモミールが深く礼をすると、マーガレットは満足げに頷き、イヴォンヌも優しい目で彼女を見守っていた。