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第31話 好きでいてくれる人

「王妃陛下に……献上……」


 あまりにも雲の上の話しすぎて気が遠くなる。カモミールの目が泳いでしまったのを見て、あらあらと困ったように侯爵夫人は苦笑した。


「今更な話なのよ? 王妃陛下もミラヴィアをお使いになっていらっしゃるんだもの」

「私にとっては初めて伺うお話です……」


 初耳もいいところだった。ロクサーヌは知っていたのだろうか。……知っていた可能性が高い。知っていて、まだカモミールに聞かせるのは早いと伏せておいたのだろう。師は、カモミールが基本的に小市民気質なのをよく知っていたのだから。


「カモミール、ほら、このクッキーをお食べなさい。お茶も飲んで。甘くて美味しいものを食べれば、世の中の面倒事は大抵どうでも良くなるわ」


 暴論が聞こえた気がするが、勧められるままにクッキーを食べ、お茶を飲む。3枚くらいのクッキーを食べたところで、恐ろしいことに夫人の言うとおり王妃陛下にトゥルー・ローズの香水を献上するという大問題はどうでもいいことになっていた。並べられたクッキーが全て違う種類で味の変化に気を取られたのと、既に王妃陛下がミラヴィアを使っていたのだから今更、と開き直れてしまった。


「お披露目会の日に献上というのはね、王妃陛下もミラヴィアの今後を密かに気にしていらっしゃるの。かといって、ヴィアローズのお披露目会にお忍びで出向けるわけでもないから、ヴィアローズの中でも一般には流通しないトゥルー・ローズの香水を差し上げれば、お喜びになられると思ったからよ」

「わかりました。せっかくですから、新しいヴィアローズの一式と香水を献上いたししましょう。いかがでしょうか」


 開き直りついでに、余計な提案もする。後で首が絞まるのは自分だぞ、と心の片隅で小さなカモミールが叫んでいるが、敢えて無視した。


「王都とカールセンで同時にお披露目会を開いていただけて、しかも同日に王妃陛下に献上させていただける……新ブランドのデビューとして、これ以上の場は望めません。侯爵夫人のご提案に感謝いたします。そして、ヴィアローズを素晴らしい製品に作り上げる事に尽力いたします!」


 カモミールの目には力が戻っていた。美味しいクッキーの力は素晴らしい効果を顕したのだ。


「よく思い切ったわね、カモミール。頑張る女の子ってとても素敵よ。いえ、女の子でなくとも、目標に向かって努力する姿は誰でも尊いものだわ。――イヴォンヌ、礼のものを」

「はい」


 夫人の支持でロクサーヌが温室から出て、何かを取りに行ったようだ。カモミールは侯爵夫人の勧めるままにケーキを食べている。これが一番精神的負担がないのだ。


「カモミールは錬金術が好きかしら?」

「はい、一生の仕事と心に決めております」

「そう、若いのに立派ね。実は私も錬金術に興味があったの。けれど勉強をする時間もろくに取れなくて、恩恵を受けるだけの側に回ることにしたわ。――このお茶、私がここに嫁いできて初めての出産を終えたばかりで気鬱になった時に、ロクサーヌが調合してくれたのよ」

「これを、先生が」


 カモミールは改めてガラスのティーポットの中を見つめた。ハーブティー自体は癖が少なく、すっきりとした味わいの中にバラの蕾の甘やかな香りがアクセントを出している。

 精油でなくても、バラの香りは落ち込みなどに効くのだ。気鬱の侯爵夫人に合わせた、心を軽くするハーブを飲みにくくないようなバランスでブレンドしたのだろう。


「本当のことを言うとそれまではね、王都で紅茶にバラの花びらを浮かべて飲んだりする人たちを見て、馬鹿にしていたのよ。高級そうなものを形ばかり取り入れて喜んでるって。ハーブティーも、草っぽい味が苦手だったわ。おそらく私の実家の使用人は配合が下手だったのね。

 でも、ロクサーヌがガラスポットを持ってきて、使うハーブをひとつひとつ説明しながらブレンドをしてくれて、最後にこのピンクのバラの蕾を入れながら、『いかがですか? 可愛らしいでしょう』って言ったとき、なんだか急に気持ちが楽になったの。『ええ、可愛いわ』って素直に言うことも出来た。バラの効能も聞いたけれど、私にとってそれは二の次。このブレンドが大好きなのは、美味しくて飲みやすくて、そして可愛らしくて見ていると楽しくなれるからなのよ」


 ロクサーヌとの思い出を懐かしむように、夫人はティーカップを持ち上げてその香りをゆったりと楽しんでいる。小さなピンクの蕾は、思った以上に侯爵夫人の心に効いたようだった。


「ああ……なんだか、とてもよくわかりました。先生はそういう方でした。治療を受ける人が苦に思わないように、楽しみを取り入れる。お化粧をする人が面倒なばかりに思わないように、幸せを感じられる化粧品を作る。――私も幼い頃、錬金医としてのロクサーヌ先生に心を救われて、それで錬金術師に憧れたのです」

「そう、あなたもなのね。私たちは結構似ているわね。童顔を気にしていることも、ロクサーヌに憧れて錬金術に興味を持ったことも。それと、甘くて美味しいお菓子が好きなところも」


 そうですねと言っていいものか恐縮ですと言うべきか、カモミールは返答に悩んで曖昧に微笑んだ。

 そこへガチャリと温室のドアが開き、幼い少女が駆け込んでくる。その後ろにはイヴォンヌが慌てた様子でいた。おそらく少女を捕まえ損ねたのだろう。


「おかあしゃま!」

「あらあら、アナベルも来てしまったの? 今日のお勉強は終わったかしら?」


 マーガレット侯爵夫人によく似た金髪の幼女が、夫人の膝に抱きついている。巻き毛が輪郭を縁取っていて、澄んだ青い目が天使のように愛くるしい。


「この人が、バラの香水のおねえちゃま? アナベル、お会いしたくてとってもおべんきょうがんばったのよ」


 そのやりとりで、カモミールも幼女が誰なのかすぐにわかった。

 アナベル・メアリー・ジェンキンス侯爵令嬢。今年で5歳になる、侯爵家の第二子だ。


 カモミールは極力優雅に見えるように立ち上がり、なんちゃってカーテシーのようにスカートの裾を摘まんで深く礼をすると、アナベルの隣にしゃがみ込んで目線を合わせた。


「姫様、お目にかかれて光栄です。私はカモミール・タルボットと申します。お母上様のバラの香水を作らせていただきました」


 カモミールの挨拶にアナベルはパッと笑顔になった。


「アナベル・メアリー・ジェンキンスともうします。どうぞよろしくおみしりおきください」


 若干ヨロヨロとしながらも、アナベルはカモミールよりもきっちりとカーテシーでの挨拶をして見せた。平民に対して領主の姫がすることではないが、今は挨拶の教育の中で平民相手というのは想定していないだろうから自然とそうなったのだろう。

 可愛すぎて吐血するかと思った。カモミールを可愛いと言いまくるイヴォンヌの気持ちがよくわかる。


「カモミールおねえちゃま、おねがいがあるの」

「どうぞミリーとお呼びください、姫様。それで、お願いというのはどのようなことでしょうか?」

「おかあしゃまと同じ香水をわたくしもほしいの! ねえミリー、つくっていただけるかしら?」


 カモミールは思わず目の前にいる侯爵夫人を見上げた。どうやらバラが好きなのはアナベルも同じらしい。けれど、香水はアルコール分が高く、こどもが付けるものではない。夫人もそれをわかっていて、「困っているのよ」と小さな声で伝えてきた。


「姫様、あの香水にはお酒の成分がうんとたくさん入っていて、あまり姫様のお体にはよろしくないのです」

「そうなの?」


 アナベルの顔が泣きそうに歪む。カモミールはやりとりをしながら頭をフル回転させていた。肌刺激が無く、香りもなく、加えた香りだけをただ自然に感じられる基剤はないか、と。服に付けるのが手っ取り早くはあるがアルコールの揮発は避けられないし、服が変色する可能性もある。


「あ、あれなら……」


 なにかヒントを得ようと周囲を見渡したとき、彼女の目にガラスのティーポットが飛び込んできた。そこから思い出したのはロクサーヌのことで、更には自分の幼少期のことだった。


「侯爵夫人、体に害がなく、幼くとも香りを身につけられるものを作れるとしたら、姫様への献上をお許しいただけるでしょうか?」

「今まで聞いたことがないけれど、そんなものを作れるの?」

「精製ワセリンの事はご存じかと思います。皮膚の保湿剤として一般に使われるものですが、あれにごく少量トゥルー・ローズの精油を混ぜることで、姫様でもお使いいただける新しい香水が作れると思うのです」

「精製ワセリンね! 確かにあれは匂いもなくて、肌に付けても大丈夫なものだわ。私からも頼みます。昨日試しに嗅がせてから、アナベルはあなたの香水に夢中なの」

「はい! かしこまりました。保湿剤としても使えるよう、姫様だけが香りを楽しめる程度の濃度にしたものをお作りいたします」

「良かったわね、アナベル。カモミールがあなたのために特別に香水を作ってくれるそうよ」


 夫人の声には安堵が混じっていて、何よりも嬉しそうだった。自分が好きなものを娘も好きと言ったことが純粋に嬉しかったのだろう。香水を付けたいと言うことに関しては大分困ったようだが。


「うれしいわ! ミリー、ありがとう。だいすき!」

「くぅっ! も、もったいないお言葉をいただき、光栄です」


 アナベルが天使の笑顔でカモミールに抱きついてきた。どこもかしこも柔らかくていとけない。ぷくぷくした頬で頬刷りされて、あまりの可愛らしさにぎゅうぎゅう抱きしめ返しそうになった。

 いろいろなことがあったけれども、カモミールの作った物を好きだと言ってくれる人がここにいて、アナベルの天使の笑顔で帳消しになったとカモミールは思った。

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