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第26話 ドクダミ事件

 屋根裏部屋の戸を押し上げて入り込むと、むわっとドクダミの匂いが立ちこめていた。


「ひっ……」


 窓が開けられれば良かったのだが、生憎天窓は嵌め殺しである。風が吹くこともなく、空気が籠もっていた。

 嫌な予感は小さな妖精の姿になって、カモミールの周りで手を繋いで「わーいわーい」と踊っている気がする。どんどん予感が確信に変わるのを感じながら、カモミールは衣装箱を開けて一張羅のワンピースを取り出し、怖々匂いを嗅いでみた。


 ――そこはかとなく、いや、ドクダミだとはっきりわかる程度にはドクダミの香りがする。


「終わったわ……」


 衣装箱は通気性のいい籠でできていたので、それが思い切りあだになった。


 仕方なく、その服を持って1階に戻り、しょんぼりとした顔でイヴォンヌに差し出す。

 イヴォンヌは服を手に取ることなく、スンとした無表情で一言呟いた。


「……何かしら、この匂いは」

「今朝収穫したドクダミを陰干しするために屋根裏に広げていたのですが……その匂いが移ってしまったようです」


 しゅんとして項垂れているカモミールを哀れに思ったのか、イヴォンヌが痛ましげな視線をカモミールに向けた。


「ドクダミの匂い……言われてみれば……。なるほど、陰干しをするために屋根裏に広げていたら、と。薬草を扱っていればそういうこともあるのね。しかし、服に匂いが移るとはタイミングが悪いとしか」

「もももも申し訳ありません! ええと、これからお湯で洗って干せばなんとか匂いは落ちるかと!」


 一枚きりの一張羅からドクダミの匂いがするとは、乙女にとって一大事である。何かの香水でごまかすことも考えたが、ドクダミの香りと混ざった結果、より大惨事を引き起こす可能性もあるので脳内ですかさず却下した。


「今の季節では良策とは言えないわね。明日も曇りそうですし。――仕方ないわ、私の妹があなたと余り体型が変わらないから、手頃な服を貸しましょう。無理に洗濯して返そうなど思わないで、明日ここへ戻って着替えたらそのまま返すようになさい」


 イヴォンヌの申し出はカモミールにとっては予想外だった。男爵とはいえ貴族の令嬢の服を貸してくれるとは。しかし、今から他の服を用意するのも間に合わない。タマラの服はおしゃれだが絶対的にサイズが合わず、他にいきなり明日の服を借りられるあてはない。


「イヴォンヌ様、ありがとうございます! このご恩は忘れません!」

「……奥様はミラヴィアの化粧品の数々と、あなたの香水を大変評価しておられるわ。昔は沈み込みがちだったけれども、ミラヴィアを使い始めてから明るくなられた。それは私にはどうしてもできなかったことだから、ミラヴィアを作り出したあなたたちに感謝しているの。……今のは独り言ですから、気にしないように」

「それでも、私がイヴォンヌ様にとても助けていただいたことは変わりません」

「――服は、明日迎えに来るときに私が持ってきましょう。あまり早く持ってきてまた匂いが移ったら意味がありませんからね。それと、手土産が必要かどうかですが、香水の献上の返礼のようなものですから今回はなくとも大丈夫です。むしろ、今後のミラヴィアについての話の方が奥様は喜ばれるでしょう。では、明日迎えに来ますので、服以外の身支度をして待っているように」

「ご助言、感謝いたします」


 イヴォンヌは品良く微笑むと、軽い会釈をして工房を去って行った。それを見送り、へなへなとカモミールは座り込む。


「なんだか……大変なことになったわ」



 翌日、昼に化粧をしてもらえるようヴァージルに頼み、午前中は風呂に入りに行った。寝ている間に髪の毛にまでドクダミの匂いが移って、ヴァージルは大笑いしているしテオは真剣な顔でカモミールのお下げを摘まんで匂いを嗅いでいた。殴ってやろうかと思ったが、ドクダミが匂わなくなるまで少しの間の辛抱だ。


 風呂の帰りにガラス工房で香水瓶をひとつ買い、カモミールはイヴォンヌのための香水を作ることにした。仕事の邪魔にならぬようにオードトワレの軽さを選び、トゥルー・ローズをベースに選ぶ。イヴォンヌからは侯爵夫人を敬愛している様子が伝わってきたから、ここに同じ材料を使うのは外せないと思った。


 トゥルー・ローズはいかにも花らしい甘い香りが特徴だ。軽いと言うよりは重めの香りでもある。きびきびとした昨日のイヴォンヌの様子を思い出しながら、彼女のイメージを香水に組み立てる。


 手持ちの材料はさほど多くはないが、試香紙ムエツトを何枚も使って香り同士の組み合わせを確かめ、トップノートとしてミントとオレンジ、ミドルからベースはトゥルー・ローズ、最後のベースとしてシダーウッドを選んだ。

 甘みを控えた爽やかな香りの中にも、馴染みやすさと落ち着き、そしてトゥルー・ローズの華やかさが含まれている。思っていたよりもはるかにカモミールがイヴォンヌに抱いているイメージに近い香りに仕上がり、満足出来た。


 その香水を飾り気のない香水瓶に入れ、敢えてそのまま渡すことにした。昨日侯爵夫人には包装した香水を献上したので、侍女である彼女にプレゼントするなら見た目にわかりやすい差異が無いと、却って「私に奥様と同じ香水などおこがましい」と拒否されそうな気がしたのだ。


「簡単だけど結構いい出来になったわ。ヴィアローズのオーデコロンはこの感じをアレンジしてもいいなあ」


 調香は始めるとやりたいことが膨らんで楽しい。イヴォンヌのために用意した香水瓶を前に、カモミールは満足感で一杯だった。

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