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第20話 「ミラヴィア」の遺産とヴィアローズ

 空になったカップを、そっとソーサーに置く。そしてカモミールは心の中で気合いを入れるとクリスティンの目を正面から見据えた。


「率直に申し上げて、『ミラヴィア』は終わりです」


 クリスティンの中でいくつかの展開は予想されていただろうが、これはおそらく「一番悪い」予想だっただろう。彼女の美しく弧を描いた眉がくっとしかめられる。けれどもクリスティンはそこで食い下がってみせた。


「ロクサーヌが病で倒れてからもあなたが製品を作っていたのでしょう? 数は減っても納品は継続してあった。――それなのに、今になって終わりと言い切るのは何故かしら」

「商標がロクサーヌ先生の単独名義だったために、息子のガストンに相続されました。ガストンは錬金医で化粧品など錬金術師の作るものではないというのが持論ですから、今後一切の動きはないでしょう」

「そう、そういうこと……。慌ただしかったのはわかるけれど、ロクサーヌも随分詰めが甘かったのね。全く、そういう所は昔から変わらない……」


 額に手を当てて、クリスティンは深いため息をついた。カモミールがクリスティンと会ったことがあるのは僅かな機会だけだったし、深い話も今までしたことはない。クリスティンとロクサーヌが古い友人だったのだろうということは今始めて気づいた。


 クリスティンはかなり精神的にショックを受けただろう。商会で扱う主力商品の突然の破綻に、友人の死が重なっているのだから。


 だからこそ、今カモミールは自分の道を示さなければいけなかった。


「こちらをご覧ください。今日の午前中に商業ギルドで手続きをしてきました。私自身は『ミラヴィア』に何の権利もないので、手を出すことができません。代わりに、ロクサーヌ・シンクの後継者として、為すべき事を為します。私自身のブランドを、ミラヴィアに匹敵するものに育て上げます」


 バッグの中から取りだした書類を、カモミールはクリスティンの前に差し出した。それはカモミール自身のブランドである「ヴィアローズ」の商標権利書の写しだ。それと共に小さな遮光瓶を横に添える。


「先生が亡くなって、まだ4日です。葬儀が終わった途端に私はシンク家からガストンによって追い出されました。いろんなことが同時に起こりすぎて立ち直れないかとも思いましたが、友人たちに助けられて、これを独り立ちの機会として捉えることができました。――そして家を借りるために商業ギルドを訪れた際、ミラヴィアの商標権はガストンが相続したことを知ったのですが。

 私はまだまだ作りたいものがたくさんあります。クリスティンさんが仰ったとおり、先生が倒れた後も製作は私ひとりで行っていました。ミラヴィアの技術は全て私が引き継いでいます。材料さえ揃えば、ミラヴィアの名で出していた化粧品と全く同じ物をすぐにご用意することもできます。

 ――でも、それでは意味が無い。ヴィアローズは、カモミール・タルボットは後継ではあるけれど別のものですから。私はロクサーヌ・シンクにはなれません。だから私独自のものを作っていきたいのです。この小瓶はヴィアローズのブランドイメージの中核になる、トゥルー・ローズの香水です。どうぞお試しください」


 はぁぁ、とクリスティンは少し気の抜けたような息をついた。商業ギルドの判が捺された商標権利書を手に取って確認し、それをテーブルに戻すとトゥルー・ローズの香水を手に取る。

 蓋を開けて、立ち上る香りを手で仰いで聞き、手首の内側に香水を1滴落とす。そして、自身の体温で立つ香りをしばらく目を閉じて感じていた。


「……これは純粋なバラの香りね。高貴で華やかで、それでいて不思議に心を軽くするわ。このグレードの香水は材料に苦労するでしょうに、よくこの短期間で用意出来たわね」

「用意出来たのはこれだけです。他はまだ構想段階で何も実際には作れていません。材料は白粉については手配出来たので、この香水をジェンキンス侯爵夫人に献上し、ミラヴィアへの御愛顧のお礼と、ヴィアローズの立ち上げについてご報告するつもりです」


 カモミールの強い視線の奥にあるものを見定めようとしているのか、クリスティンがじっと目を合わせてくる。

 ここで弱気になるもんか、切れるカードは全て切ったと、カモミールはクリスティンの視線を身動きせずに受け止める。


「そう、このバラの香りが、ヴィアローズの芯になるもの――ええ、ええ。十分だわ。カモミールさん、まだ落ち込んでいる段階でも仕方ないと思っていたのだけれど、ロクサーヌの死とミラヴィアの権利を得られなかったことで心折れずによく踏ん張ったわね。

 あなたがミラヴィアの品質に匹敵する製品を作れることは既に証明されています。ヴィアローズがミラヴィアの正当な後継ブランドだと大々的に宣伝すれば、既存の顧客の誘導も問題なく行えるでしょう。……まあ、それについては今日ヴァージルがお客様にちょこちょこ話していたから既に手を打っているのはわかっていたわ」


 クリスティンの表情が和む。それをきっかけに張り詰めていた空気が緩み、カモミールは自分がクリスティンの支持を得ることに成功したのだと確信することができた。


「これからの予定も決まっているだけでいいから教えてちょうだい。ある程度の数を店頭に揃えられる時期が来たら、贔屓のお客様だけお呼びしてお披露目会をしましょう。それと――そうね、期待値を上げるために、この香水を利用させて貰うわ。うちのショップカードを作っている印刷所に頼んで、『ヴィアローズ』の名前だけ入れたカードを用意しましょう。それにこの香水を一滴垂らして、お客様にお渡しするの。ヴィアローズがなんなのか、ということは説明せず、今はまだ秘密ですと言ってね。

 バラの香りにうっとりとしながら、『秘密』に否応なく意識が向くわ。それが何を意味するのかもわからないままで、ヴィアローズは人々の話題になる。そして、お披露目会で店頭から姿を消していたミラヴィアの後継ブランドだと発表すれば」

「それまでの話題性から、一気にブランドの知名度があがるということですね」


 クリスティンが立て板に水のように話す計画に感心しながら、カモミールは頷いた。


「と言うわけで、今こちらが保有している『ミラヴィア』の在庫は全てシンク氏に返品します。突然ミラヴィアが全部消えたら話題性があるもの」


 目に悪戯っぽい光を湛えて、クリスティンがとんでもないことを言い出した。ミラヴィアはクリスティンの買い取りではなくて、委託で店頭に置かせて貰っている商品だ。返品されても特に返金義務などはなくガストンが損をするわけではないが、おそらくミラヴィアの権利を自分が持っていたことに気づいてなどいないガストンにとっては、驚くし邪魔になるし、踏んだり蹴ったりだろう。


「えっ……でも、それは、今必要とされているお客様が困るのでは……」


 カモミールは困惑してしまった。話題性があるとかは納得出来るが、やり方が思い切り良すぎる。クリスティンは余裕のある表情で、ミラヴィア返品にさほどデメリットがないことを説明してくれた。


「大丈夫よ。他のブランドの化粧品もあるし、お化粧ができなくなるわけではないわ。むしろミラヴィア一辺倒のお客様はたまには他のものを使ってみた方がいいの。自分の肌で感じて、ミラヴィアが優れていたってことが実感出来るでしょう?」

「確かに、そうですね……。あっ、香水は足りますか? もう1本ならお渡し出来ますから、明日ヴァージルに持ってきてもらえるようにしますが」

「あら、明日、ヴァージルに? もしかしてあなたたち一緒に住んでたりするの? ヴァージルってあなたのことを溺愛してるわよね、若いっていいわー。

 一昨日も突然ヴァージルが『ミリーが大変なんです』って言って、休みをもぎ取って店から飛び出していったってカリーナから聞いたわ。休みをもぎ取った、というか、それはただ宣言しただけよね……でもそれで休み扱いにしちゃうんだから、カリーナは店長としてちょっと甘いかしら」


 最後の方はほとんどクリスティンの独り言めいていたが、カモミールは彼女の誤解に慌てた。


「いえ、一緒に住んでませんし付き合ってません! ただ、その、今は隣同士に住んでるというか……。元々過保護な幼馴染みなんですけど、街外れの工房の屋根裏に住むって言ったら、ヴァージルが心配しちゃって隣の家に間借りすることになっちゃって」


 過保護が角度をずらせば溺愛に見えるのは致し方ない。見る人の目に恋愛フィルターがかかっていたら、ふたりの関係は必ず誤解されるのだ。だが、説明出来るときにはできるだけ誤解は解いておきたい。


「そうなの? まあ、そういうことにしておきましょうか。うふふ」


 本当に納得してくれたのか、表面上なのか。どちらかというと表面上の納得のようだが、これ以上クリスティンが突っ込んでこないのは幸いだった。カモミールはわざとらしく咳払いをひとつして、仕事の話に話題を戻す。


「今後の展開としては、まずトゥルー・ローズを基軸にした香水を価格帯別に調香を変えて3種類。これは今専用の香水瓶を発注したところです。次に白粉を3色。この粉の中にもトゥルー・ローズを使って、お化粧しているときにも楽しく、幸せを感じられたらいいと思っています。それと下地クリームには僅かですが薬効性を持たせて、日々のお手入れが少しでも楽になるようにと考えています。化粧水も今までのものとは全く同じには作りません。

 そして、これは完全にヴィアローズ独自の新商品ですが、これから開発する予定のものがあります。商業的に成功するかどうかはわかりませんが、必ず一定数の需要があるはずです」

 だって、私が常々欲しいと思ってるものだから――。カモミールは内心で付け加える。


「可能な範囲でいいから聞かせてちょうだい。私の方がその辺の判断はできるはずよ。心配しないで。私と、この店はあなたの味方になるわ。大事なお取引先ですもの」

「ありがとうございます! その、新商品というものは……」


 僅かに声を潜めて、カモミールはロクサーヌにも話していなかった新商品の構想をクリスティンに説明し始めた。

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