「ヴァージル、手伝ってくれよ。釜のここまで水を入れてくれ」
「蒸留水じゃなくて普通の水でいいのかい? ミリーにとって悪いことにはならないよね?」
「誓っていいぜ。俺は『ご主人様』の損になることはしねえよ」
不敵に笑うテオに向かってひとつうなずくと、ヴァージルは水道から錬金釜に向かってパイプを設置した。パイプは誰が残した物なのかわからないが、中には砕いた炭や砂などが詰められていて浄水機能があるようだ。
「まあ見てろって、ご主人様よお。俺はこれでも錬金釜の精霊『錬金術の申し子』だぜ?」
しばらくして釜の内側に引かれたラインまで水が溜まると、テオはズボンのポケットからこれも小さな瓶を取り出した。中には赤い液体が揺らめいている。
テオは蓋を開けて中の液体を手のひらに取り出した。確かに瓶の中では液体だったはずなのに、それは瞬く間に固まって金の混じった深紅の宝石のようにきらきらと輝いている。
「まさか……それ」
彼の手のひらに載っている赤い宝石を食い入るように見つめながら、かすれた声でカモミールはつぶやいた。
液体でもあり同時に固形でもある、赤い宝石――それは、錬金術師なら伝承を必ず聞いたことがある究極の物質だ。
「じゃーん、賢者の石……の、欠片だけどな。アゾットの柄に付いてた奴の欠片なんだぜ。それをテオドールがこの家に隠しておいたのを俺だけが知ってた、って遺産だな」
「うえぇぇぇ!? 賢者の石!?」
「賢者の石……これが」
カモミールは両手で口を押さえて叫びを抑え、ヴァージルは金を閉じ込めたような不思議な色合いの赤い宝石を前に子供のように目を輝かせている。
「賢者の石ってのはな、万物の素であるエーテルの凝縮体だ。完全な物質である金を作るのに賢者の石が必要なのは、結局卑金属からだけじゃあ金に上り詰めることができなかったからだよ。万物の素、すなわち、何にでもここから分岐する始祖なる物質――それがエーテルであり、賢者の石だ」
水の溜まった錬金釜に、テオは躊躇なく賢者の石のかけらを投げ込んだ。それは瞬く間に溶けていって、錬金釜の中には金の輝きを放つ神秘的な赤い液体がなみなみと満たされた。
「この濃度じゃ金は作れねえが、バラ精油くらいなら余裕でいける。まあ、見てな」
コルク栓をしたままの遮光瓶を、テオはそのまま錬金釜の中に入れた。小さな遮光瓶はあっという間に見えなくなる。息を詰めてカモミールとヴァージルはテオの一挙手一投足に見入っていた。
巨大な撹拌棒でテオが釜の中身をかき混ぜる。表面が波打つ度に光が揺れて、それはとても幻想的な光景だった。
長い撹拌棒を持って巨大な錬金釜の中身を混ぜ続けるのはかなりの重労働なのだろう。袖をまくったテオの腕の筋肉の形が浮き出していた。
どれだけの時間そうしていただろうか。釜から放たれる光が弱まって、テオは額の汗を拭いながらも一層力強く撹拌棒を動かした。
「そろそろだぜ、しっかり見てろよ」
大きく揺れる赤い水面。いつの間にかそれは半分ほどの高さになっていた。金粉を散らしたような色合いだったのに、今ではほとんど赤一色だ。液体は粘度を増していて、まるで命あるもののようにぐにゃりと動く。
「そおれっと!」
気合いを入れて、テオが撹拌棒で錬金釜の底を叩いた。
「テオ、魔力!」
「このくらい平気だよ」
カモミールにはわからなかったが、最後の仕上げとばかりにテオが魔力を注ぎ込んだらしく、ヴァージルに鋭く注意されていた。
その瞬間に見た光景を、カモミールは一生忘れないだろう。
赤い花びらが散るように、棒から飛び散った滴が舞った。――そして次の瞬間には、水分は全て消えて大きな錬金釜の半分ほどを埋め尽くす遮光瓶が姿を現したのだ。
テオの動きでは、錬金釜の中身は完全に液体だった。少なくとも山盛りの遮光瓶が入っていたようには見えなかった。
なのに、カモミールの目の前にあるのは、先ほどのトゥルー・ローズの精油の入った遮光瓶を二回りほど大きくしたものなのだ。おそらく値段に置き換えると15万ガラムほどになるだろう。そもそもこの価値のわかる人間が稀少ではあるが。
「ほらよ、確認してみろ」
テオが瓶をひとつ摘まんでカモミールに渡してくる。コルクを抜いて手で扇ぐと、間違いなく師と作り出したバラの精油の香りだった。思わず気持ちが華やぐような、日差しをたっぷりと浴びて育った幸せの香りだ。
「…………不条理」
しかし、いくら賢者の石だといっても、精油の入った瓶をまるごと複製したというのだろうか。錬金術師の端くれでありながら、思わずそんな言葉が口をついて出た。
「不条理じゃねえ。森羅万象全てのことは法則に基づいている。しかるべき事由があり、結果がある。それが万人にわかりやすい物なのか、そうでないかというだけだ」
カモミールが見上げると、毛先だけ赤い長い青髪の青年は至極真剣な目でカモミールを見つめていた。そのまなざしは覚えがある。亡き師が大事なことを教えるとき、こんな表情をしていたのだ。
「錬金術って、凄いのね」
王道と言われた錬金術を目の当たりにして、カモミールはうなだれた。
フレーメの死後、フレーメ派の凋落と共に錬金術は衰退した。
金を生み出したことに目をくらませた多くの国家間で錬金術師の奪い合いにもなり、戦争にまで発展した。それを戒めとして金の錬成は禁止されたが、そもそもフレーメ以降に金を作れる錬金術師は現れなかった。
世界から魔法が消えゆく時代でもあった。かつて当然のようにいた魔法使いはどんどんその数を減らし、おとぎ話の中の存在になった。
魔法が消えゆく影響は、本来科学である錬金術にも現れた。四元素の上位素材と呼ばれるものは魔獣から採れるものであったり、魔力の濃い土地から採れるものであったりしたのだ。
現在の錬金術では、賢者の石の錬成も金の錬成も不可能と言われている。そもそも材料が手に入らないのだ。
カモミールはフレーメ派に興味を持ったことがなかった。触れる機会も必要もなかった。
――だからこそ、在りし日の「王道」の輝きに言葉にできない衝撃を受けていた。
「私、もっといろいろ勉強しないとダメね……錬金術の基礎はきちんと勉強したはずなのに、理解が追いつかない」
「それを極めた奴はむしろいねえだろうよ。だからこそ、みんな自分のやりたいことをやるのさ。その方が突き詰めやすいし、情熱も長続きする。多分俺は、錬金術師を一番見てきた存在だぜ。生活のために、って錬金術をやってる奴はちんまりまとまって大成しにくい。何百年も残るような物を作った奴は、大体が変わり者で好きなこと以外の研究はどうにもならねえって奴らばっかりだった」
「なら、テオドール・フレーメはどういう人だったの?」
カモミールは初めてフレーメという人物を、錬金術の教本に載っている横向きのてっぺん禿げの肖像画ではなく、ひとりの人間として認識した。
錬金術の極みに至った大錬金術師は、どんな人物で、何に興味を持ってその偉業を成し遂げたのだろうか。
「テオドールか……あいつは、あいつはな」
テオドールの若き日の姿を写したのだという精霊は、かつての主を懐かしむように遠い目をして、それからニカッと笑った。
「ガキみたいな奴だった! 何にでも興味を持って、気になり始めたら止まらねえんだ。3回結婚して、3回とも嫁さんに1週間で見放されてた。人間的にはダメなところだらけだったな。モテるせいで女に甘いし、金もすぐに使っちゃうから素材は自分で取りに行ってたし。フレイムドラゴンの素材が必要だからって自分で剣を持って倒しに行く錬金術師って馬鹿だろう? だけどあいつは天才でもあったからそんなこともやっちまうんだ。そういう馬鹿は愛されるよな。
嫁さんに出て行かれて一晩酒場で愚痴り倒しても、次の日にはけろっとしてた。底抜けに明るくて、根拠もなく自信満々で、みんな、あいつのことが好きだったよ。あ、でも弟子はいたけど教えるのは壊滅的に下手くそだったぞ。だから次代の錬金術師が育たなかったんだ。
――そうだな、今になって思うけど、あいつは神に愛されてたんだ。だから偉大なことを成し遂げた。一瞬の花火だったけどよ」
目の前のテオと重ね合わせて、テオドール・フレーメが生身の人間として生き生きとカモミールの心の中に蘇る。
フレーメ派に見向きもしないで来たが、テオドール・フレーメとは一度会ってみたかったとカモミールは思った。