いつの間にか深夜になっていた昨晩。レモンやそのほかの皆に余計な心配をかけたので、謝った翌日。
俺はロン爺がいるトリートエウ丘の方へと向かっていた。
丘を見上げる。
そこには天を貫く大樹が
足元を見下ろす。
そこは長い道のりだった。丘の頂点に
ラート町の北に位置し、トリートエウという樹が聳え立つのが由来のトリートエウ丘は、緩やかな勾配を描く。そして、その全体は地平線すらかすむ広大さであり、聞いた話だと数千年も前から存在しているらしい。
地元ではそこは一種の神域扱いらしい。大いなる恵みを与える偉大なる母の地としてだ。そして、トリートエウは天樹とも神樹とも呼ばれたりしている。
そのトリートエウの種は世界でも数本しか存在していない。そして、それらが存在する場所は全て、大魔境と呼ばれる危険地帯に存在している。まるで、何かを守護するように聳え立ち、悪意あるものを阻むように佇んでいるのだ。
俺はそこに向かっている。草原に覆われた一本道を歩いている。
右を見れば、アダド森林の深緑の絨毯が蒼天の果てと混じり合い、呼吸するように揺れている。左を見れば、穀倉地帯と農業地帯が地平線の果てまで伸びていて、そこから巻き立つ入道雲が空を覆いつくす。
そこまで高さはないが、しかし、丘にしては広大過ぎるのでラート町の北門から頂上まで二、三時間以上かかる。それは俺が幼児だからではなく、とても移動速度が早い冒険者ですらそれくらいかかる。距離にして十数キロ以上だろう。
転移魔法や浮遊魔法が使えるようになりたい。そんな距離のある遠い場所。
そこにロン爺は住んでいた。
Φ
「ふう、ようやくたどり着いた」
俺は手を膝に当て、蹲るように体を休める。いや、それだと足に負担がかかるので、道を少し外れ、萌え立つ草原のベットに寝っ転がる。夏の草原の癖にとても涼しく、心地が良い。これもトリートエウの恩恵だろう。
トリートエウの枝葉から漏れる太陽の光が妙にこそばゆく、目を細める。
「あー、疲れた。それにしても前半がきつかった」
意図的にそうしているのか、天を貫く高さのわりに前半の道のりはトリートエウの枝葉に覆われていない。つまり、直接太陽の光が肌を射すのだ。しかも、そこら辺の草もわざとトリートエウの恩恵を受けていないので、蒸し暑さもプラスされてしまう。
そんな道のりを歩いていて、大きな危機感を持った。
「氷魔術の応用化を強化していくか」
もうすぐ初夏が終わる。つまり、本格的な夏が到来してくる。その前に暑さ対策をしっかりせねばならん。エアコンの申し子であったのだから必ずだ。
慣習が終わる前までは屋敷の中に閉じこもっていたから問題なかったが、今は外を歩き回るようになったので問題だ。
けれど、そんな考えなど直ぐに吹き飛んでしまう。横になったとたん疲労感が一気に体を襲い、眠気が俺の自由意思を飲み込もうとする。目の前には大きな口が存在する。俺は荒れた大海原にポツンといる。
「きもちがいいな。ほんとにねてしまいそ……」
俺はそれに抗うことなく、どこかの鼻長人形の様に大きな眠気に呑み込まれた。
「……スー、ス―」
寝てしまったのだ。
Φ
「ぅん。あれ……」
俺の重い瞼は自然と開いた。眠気がない状態だと万力に締め付けられた如く感じる瞼の重ささえ、気にならない。
「起きたか」
そう思っていたら、隣から厳粛な声が響いてきた。よくよく見ると、天井は全て樹で覆われていて、ここは外ではなかった。
「ロン爺?」
「そうだとも。まったく。所定の時間になっても来ないと思って外に出てみれば、気持ちよさそうに昼寝をしておる。セオ坊はマイペース過ぎるな」
溜息を吐きながら、ロン爺はその鋭い目を少し弛ませる。
「いやー、それ程でもあるけど」
「褒めておらん。まぁ、いい。昼飯にするか」
ロン爺はぶっきらぼうに言う。
「あれ、もうそんな時間?」
朝に出てきたから、そこまで時間は経っていないと思うんだけど。
「三時間近くも寝ておったんだ。当たり前だろう。もうすぐ昼下がりだ。早くベットから起きて付いてきな」
俺を起こさず、そして、昼食を食べずに待っていてくれた優しいロン爺は、そう言って、きびきびと歩き出す。俺は慌ててロン爺の後を追う。
俺が今いる場所は一面が樹に覆われていた。継ぎ目はなく、くり貫いた感じである。扉はなく、アーチ状にくり貫かれたトンネルがいくつもあり、ロン爺はその中の一つに入った。
そこはトリートエウの中であった。洞であった。しかも、ロン爺が物理的にくり貫いたわけではない。
それはトリートエウが自ら変形してその洞が出来たのだ。ロン爺はトリートエウの洞の中で生活している。
トリートエウの樹霊と一緒に。
「エウはいないの?」
「ラハム山の見回りに出ておる」
「そうなんだ」
会話をしながらも俺はロン爺の後を付いていく。
そして、幾つかの小さな道を進むと行き止まりに辿り着いた。
ロン爺はそれを気にした様子もなく、ただ、その樹の壁に手を当てる。
すると、今まで壁であった樹が自然に音もなく変形し、二人が入れるくらいの小さな個室が現れた。
「入れ」
ロン爺は躊躇いもなくその個室に入り、手を引っ張って俺を個室に入れる。その瞬間、唯一開いていたところがしまり、密室となる。誘拐っぽいがそうではない。
それから一瞬暗くなったかと思うと、直ぐに天井に眩しい光が灯り、その密室を照らす。そして、樹の床が上へ動き出したのだ。
「うおっ!」
俺はそれに驚く。そして、転倒しそうになるが、ロン爺がさり気なく支える。
「ありがとう、ロン爺。でも、動く前に動くと伝えてほしいんだけど」
「わかった」
分かってなさそうなロン爺をしり目に俺は周りを見る。
木目が高速で走っている。斜め右に、斜め左に、そして真っすぐ上に。
今、個室はエレベーターの様に昇っているのだ。仕組みも原理も分からない。
そうして数十秒。止まった。そして何の脈絡もなく道が開き、太陽の光が差す。
そこは何というべきか……庭と言えばいいのだろうか。秘密が付きそうな感じ。
神性で澄んだ空気に覆われた場所だった。横を見れば、空とも宙とも似つかない蒼が混じり合って浮かんでいて、床は広く丸く年輪が見える。広場だ。
広さは体育館くらい。周りには小さな枝が可愛らしい木の実をつけ、床には清らかな水が流れる水路が多重円を描き、その中心に小さな木製のテーブルがある。
そして、そこに優しい陽がスポットライトの様に指す。
「おー!」
その美しさと言ったら。その神々しさ言ったら。
何度見ても飽きはこない。それどころか益々心揺さぶられる。
トリートエウの天辺にそんな素敵な場所があった。
「食事は既に用意してある」
「あ、ちょっと」
しかし、ロン爺は素晴らしい感動の余韻に浸らせてくれるわけでなく、さっさと、中心のテーブルに向かう。
ロン爺のとってそれは日常になっているので感慨もないのは分かるが、もう少し楽しませて欲しいとは思ったりする。が、しかし俺が言えたことではない。
そうして、水路にかかる人ひとりが通れるくらいの清水と調和するような白亜の小さな橋を幾つか渡り、美味しそうな食事が並べてあるテーブルに辿り着いた。
そうしたら、急にテーブル付近の床が変形して、椅子を二つ作る。
ロン爺はその家の一つに座り、俺はそれに倣って、もう一つの方に座る。
「では、食べるとするか」
「うん」
そうして、俺たちは手を合わせ。
「「いただきます」」
食事を始めたのだった。