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第10話:稽古はまだ始まりません:this spring

 空中に漂う幾つもの光球。


 世界を切り離すように佇む微かに蒼みがかった結界。


 そして中心に三人の人影。


 それが今の稽古場を表す端的な羅列だろう。


「あら、まだ始めてなかったのね」


 確かに。


 俺がコートなどを取りに行ったし話しながらここに来たから、まぁまぁな時間が経っている筈なのだ。


 なのに、三人とも準備運動すら始めていなかった。


 どうしたんだろ?


 そう疑問に思っていたら、ロイス父さんがこっちにやって来た。


「セオも一緒に稽古に参加しないかい? 今日は魔法中心だから本格的に体を動かす事はないからさ。お試しという事でどうだい?」


 なるほど。その為に稽古を始めずに待っていたのか。


 しかし、俺はライン兄さんが昨日の特訓の成果を出せるかどうかを見守るために早起きしたのだ。参加する気などさらさらない。


 ないのだが……。


 なんだあれは!


 エドガー兄さんとライン兄さんが俺を見つめてくる! 切実に何かを訴えるように! 懇願するように!


 ひ、卑怯だぞ! 俺がそういうのに弱い事を知っていて!


 アテナ母さんが「やるわね」と呟いている。ロイス父さんはニコニコとイケメンオーラ満開の爽やか笑顔で、俺の視線をさりげなく兄さん二人に誘導してくる。


 くそぅ! 演技指導を入れたな。その為の待ち時間か!


 しかし、俺も負けてはいられない。


「きょ、今日は魔力の調子が悪くて……。魔法は使えなさそうかな……」


 言ってやったぞ。これで参加せずに済むぞ!


 と、思っていたらロイス父さんが懐に手を突っ込んだ。


「そう思ってさ。ほら、これ」


 そして俺に緑の液体が入った試験管を渡してきた。


「はぁ!? 楽仙去優香らくせんきょうか!」

「あ、アナタッ! 馬鹿じゃないのっ!? ホント馬鹿じゃないのっ!? なんてモノを出してるのっ! 一刻も早くしまってちょうだい!!」


 俺とアテナ母さんは絶叫をあげる。アテナ母さんなんて、ここ一帯を滅ぼしかねない魔力を一点に集中させている。


「アテナ。開放したりはしないから、落ち着いて」


 ロイス父さんは俺に見せつけるように試験管を揺らす。


 試験管の中身、楽仙去優香はたゆんたゆんと蠢いている。


 楽仙去優香。それは昔、楽仙去という人物が優香と呼ばれる魔法植物――神話級――を使って作り出した万能薬。死病や欠損すら即時治し、体力、魔力、精神を即時回復、増幅してくれる霊薬。不老不死すら可能とする神薬。


 が、しかし。


 しかしだ!


 とてもつもなくまずい。いや、まずいとすら表現できない物なのだ。


 近くにいるだけで吐き気どころか錯乱すら催し、飲むことはできないほどの苦さと甘ったるさと不味さ、そして腐臭。それからそれを飲んだ者は必ず死ぬ。比喩ではなく本当に死ぬ。そして楽仙去優香の効能によって生き返るのだ。


 別名――死練。


 この世のものではないのだ。


 この世界にはこんな諺がある。


 邪神すら命惜しく楽仙去優香。


 この世界の共通認識に邪神と言う存在がいる。あらゆるお伽噺で最も恐ろしい存在として登場し、子供の躾に使われる存在。


 そして、実際に数百年前にこの世界を支配しようとした魔物。


 ただその邪神は最後、楽仙去優香によって滅ぼされたのだ。正確には滅んだのだ。自らの意思で。


 邪神は楽仙去優香を身体に浴び、想像を絶する痛みと匂いと、まぁ、とにかく地獄すら生ぬるい体験をして、自殺したそうだ。


 自殺だ。世界を支配しようとした存在が世界に絶望し自殺する程の代物なのだ。


 因みに、邪神が滅んだ地は楽仙去優香の影響により豊か過ぎる地になっている。しかし、魔物はおろかあらゆる生物は存在しない地でもある。生物にとって楽仙去優香は害悪以外何者でもないのだ。


 不思議な事に植物は楽仙去優香の悪影響を受けない。原材料のせいなのか?


 そんな危険物をこの場に出したのだ。ロイス父さんは!


 正気ではない。


 幸いと言うべきか、楽仙去優香が入っている試験管は空間遮断を盛り込んだ特別製なので、外部に影響はない。


 が、ほんの少し扱いを間違えればここ一帯が魔境と化してしまう。


 ロイス父さんはそれを俺に見せつけるように揺らしているのだ。


 脅しである。


 稽古に参加しろと言う脅迫だ。


 ただ、ロイス父さんが楽仙去優香を開放することは絶対ないので俺にとっては無駄な脅しである。


 が、しかし。


 ロイス父さんの交渉相手は俺ではなさそうで……。


「な! 体が、体が勝手に!」


 俺の体が稽古場の中心、エドガー兄さん達がいるところへと勝手に動き出した。


「何するの、アテナ母さん!」


 アテナ母さんが霊魂魔法――幻想級――で強制的に俺の体を操作していたのだ。


「ごめんなさい、セオ。本当にごめんなさい。これだけは本当に無理なの。今度、好きな鉱物を買ってあげるから稽古に出てちょうだい。お願いします」


 深々と頭を下げるアテナ母さん。声は恐怖におののくように震え、顔は真っ青で、髪はヤバいほど逆立っている。そしてロイス父さんを悪鬼羅刹もかくやというほどの眼光で睨んでいた。


 アテナ母さんは楽仙去優香に絶大なトラウマがあるらしい。アテナ母さんの様子からそんな感じがヒシヒシと伝わってくる。


 それから、アテナ母さんはロイス父さんにニッコリと笑いかけて、


「アナタ、今夜は覚えときなさい」


 低く低く唸るように、しかしとても静かに呟いた。


「ア、アハハ」


 冷や汗をダバダバとかきながら、ロイス父さんは苦笑いする。ついでに懐に楽仙去優香を仕舞う。実際には異空間に収納しているのだが。


 それにしてもご愁傷さまです。


 ……。


 いや、これは当然の報いだ。自業自得なのだ。だから、こうだな。


 ロイス父さん、ざまー見やがれ! ヒャッハー!


 うん。よし。これで少しは鬱憤が晴れたな。


 それにしても……。何でロイス父さんはこんなことをしたんだろう。そんな事をした場合のリスクは分かっていたはずなのに……。


 俺は自動人形の如く目的地に進む体に身を委ねながらそれについて思考する。

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