週末。
その日は朝から雪が降っていた。白くかすんだ空から舞い落ちる大粒の雪が、ただでさえ真っ白な大地を分厚く覆い隠していく。時折吹き抜ける風は身を切るように冷たくて、もこもこのマフラーに思わず顔をうずめてしまう。
(吹雪の予報はないんだけどな……あまり風が強くなるようなら、買い物は早めに切り上げた方がいいかな)
雪斗が集合場所にたどり着くと、すでにそこには飛彦の姿があった。見慣れた革の上着を着込み、首元にはシックな黒いマフラーを巻いている。帽子をかぶっていないから、黒茶色の髪に次から次へと落ちる綿雪がいかにも寒そうだ。
「飛彦さん。お待たせしてすみません」
駆け寄りながら謝罪すると、飛彦はまるで気にしていないと微笑んだ。
「私もさっき着いたところです。雪斗くん、自宅から歩いてきたんですか?」
「歩いてきました。思ったよりも道に雪が積もっていて、それで時間がかかっちゃって」
「そうですか。雪斗くんは、あまり鳥の姿にはならないんですか?」
不思議そうに尋ねられて雪斗は言葉につまった。
自由に鳥の姿になれる鳥獣人たちは、足よりも羽を使って移動することが多い。特に冬場は路面状況が悪くなるため、道を歩くよりも空を飛んだほうが格段に効率的なのだ。
しかし雪斗には気楽に鳥の姿にはなれない理由がある。もふもふと愛らしいシマエナガの姿が嫌いだからだ。雪の妖精という呼び名など、雪斗にとってただの蔑称でしかない。
だからといってその気持ちを素直に伝える気にはなれず、それらしく話を作った。
「ええと……シマエナガは真っ白な鳥だから、雪景色にまぎれちゃうんですよ。他の鳥とぶつかってしまうと危ないので、冬は極力、鳥の姿にならないようにしています……」
「なるほど……そんな苦労もあるんですね」
飛彦がそれ以上話を広げなかったので、2人は肩を並べて歩き出した。
雪にうずもれた街を5分も歩き、たどりついた場所は大型の文具専門店だ。店内には数百種類におよぶ封筒・便箋のほか、鉛筆や万年筆、ノートにいたるまで様々な文具が並べられている。
雪斗が手近な便箋を手にとり、しげしげと眺めていると、飛彦が話しかけてきた。
「その便箋、買うんですか?」
「おばあちゃんのお土産にいいかなと思って。コーヒー豆柄の便箋、可愛くないですか?」
「可愛いと思います。喫茶わたゆきのイメージによく合っていますね」
お墨付きをもらうと嬉しくなって、雪斗はその便箋を腕の中に抱え込んだ。コーヒー豆のイラストが描かれたシンプルな便箋、祖母も喜んでくれるだろう。
その後はしばしの自由時間となったので、自由気ままに店内を見て歩いた。現在時刻は午後2時を少しまわったところ、店内はほどよく混みあっている。中でも便箋コーナーにたくさんの人が集まっているのは、文通が一般的なこの街ならではの光景だ。
便箋を数種類と封筒を一袋。未会計の商品をカゴに入れ、レジへと向かって歩きだしたとき、万年筆コーナーに飛彦の姿を見つけた。右腕に数種類の便箋を抱きこんだ飛彦は、長身をかがめ陳列棚に見入っている。
(あ、そうだ。僕も万年筆が欲しいんだった)
一番の目的を思い出した雪斗は、飛彦の横に並び陳列棚をのぞき込んだ。黒、赤、緑、比較的安価な物からプレゼント用の高級な物まで、陳列棚にはたくさんの万年筆が並んでいる。
「……思ったより種類が多いですね。万年筆ってどうやって選べばいいんだろ」
ひとりごとのように呟くと、飛彦は質問を口にした。
「今はどんな万年筆を使っているんですか?」
「おじいちゃんが昔使っていた万年筆を借りています。古い物だからあまり書き心地がよくないんですよね。それで新しい物を買おうかなって」
目についた万年筆を1本、手に取ってみる。ふたを取り、試し書き用のメモ帳にさらさらとペン先を走らせてみるけれど、これといった特徴は感じられない。今使っている万年筆よりも多少は書きやすいかな、というくらいだ。
(おじいちゃんに万年筆の選び方を聞いておけばよかったなー……。わざわざ出直す気にもなれないし、見た目と値段で適当に選ぶしかないか)
雪斗は悩ましげな表情で万年筆を物色する。こだわりのない物を選ぶというのは、想像していたよりもずっと大変なことだ。
「雪斗くん。この万年筆はどうですか?」
すぐ隣で陳列棚を眺めていた飛彦が、雪斗の目の前に万年筆をさしだした。これといった特徴のないシンプルな万年筆だ。しかしお値段は手頃でサイズ感も悪くない。初めて持つ万年筆としては無難なところだろう。
「良いですね。あれこれ見てもよくわからないし、これに決めちゃおうかな」
「気に入ってもらえてよかったです。他に買う物はありますか?」
「ないですね。便箋と封筒はもう選んだので」
「そう。じゃあお会計してきますね」
飛彦は雪斗の手からさりげなく買い物カゴを奪い取った。2人分の買い物カゴを手に、すたすたとレジの方へと向かっていく。
雪斗はすぐに飛彦の思惑に気がつき、その背中に追いすがった。
「飛彦さん! 僕、自分で払いますから……」
飛彦は雪斗の分の会計もまとめて済ませてしまうつもりなのだ。便箋が数種類と封筒、万年筆。ひとつひとつは安価でも、まとめて買うとなるとそれなりの金額になる。それだけの支払いを飛彦に肩代わりしてもらう理由が雪斗にはなかった。
「私が買い物に誘ったんですから、これくらいは払わせてください」
「いやいやそうはいきませんって。結構な額になるし悪いですって」
必死に買い物カゴを奪い返そうとするけれど、飛彦もまた買い物カゴを放そうとはしない。雪斗の猛攻を物ともせずに、ふんわりと優しい顔で笑う。
「私、雪斗くんとの文通が楽しくて仕方ないんですよ。『文通をしよう』と誘ってもらったこと、本当に感謝しているんです。だからこれは私なりの感謝の気持ちです」
「い、いや。でもそれはお互いに利益があってのことですし……」
「それに喫茶わたゆきでも、いつもお菓子をいただいているじゃないですか。いつかお礼をしなきゃいけないと思っていたんです。だからこれは私に出させてください」
「お、お菓子はおばあちゃんが勝手にやってることだからぁ……」
喫茶わたゆきでは、郵便配達員である飛彦にコーヒーの無料サービスを行っている。しかし
というのも、菓子の作り手である祖母がとことん飛彦贔屓だから。「飛彦さん。これ今日初めて焼いたケーキなんだけどぜひ味見してみて」などと言って飛彦の前に菓子を並べてしまう。孫が1人増えた気分なんだろうな、と雪斗は勝手に解釈していた。
2人はしばらくのあいだ押し問答を続けたが、飛彦が支払いをゆずることはなく、結局は雪斗が折れる羽目となった。
「じゃ、じゃあ今回だけ……今回だけ支払いをお願いします。本当に今回だけですからね!」
「わかってますって。ではレジに行ってきますね」
2つの買い物カゴをぶら下げた飛彦は、ご機嫌でレジの方へと向かって行った。
(僕の分の買い物をするのに、なんであんなにご機嫌なんだ……? 飛彦さんの気持ちがよくわからないよ……)
文具店を出たあとは、2人そろって喫茶店へ入った。飛彦が下調べをしたのだという老舗の喫茶店だ。上品な造りの店内にはコーヒーのいい香りがただよっている。
コートを脱ぎ椅子の背中にかける。マフラーと手袋は、カバンと一緒に足元の荷物入れへ。少し迷ったが帽子はとらなかった。雪斗の帽子姿に慣れ親しんだ飛彦が、そのことを気にかけた様子はない。
「この喫茶店はカフェオレがお勧めみたいですよ。ミルクの代わりに生クリームをたっぷり入れてくれるんですって」
飛彦の説明を聞きながら、雪斗はメニュー表を眺めた。
「へぇー……じゃあカフェオレを頼んでみようかな。食べ物はどうします?」
「焼き菓子の盛り合わせなんてどうでしょう。色々なお菓子を少しずつ食べられますし」
「んん、いいですねぇ」
店員に注文を済ませた後は、冷えた手を温めながら雑談の時間。飛彦は口数が多い方ではないし、雪斗も積極的な話題作りが得意な方ではない。自然と会話のペースはゆっくりになるけれど、その穏やかな時間が心地いいと雪斗は感じた。
(飛彦さんと一緒にいるのは落ち着く。飛彦さんの方が年上だからとか、そんなことは関係なくて、単純に相性がいいんだろうな。僕を買い物に誘ったということは、飛彦さんも同じように感じてくれているのかな……)
2人分のカフェオレと焼き菓子が運ばれてきたあとも、とりとめのない会話は続く。飛彦の仕事の話、最近読んだ本の話、喫茶わたゆきの新メニューの話。楽しい時間はあっという間に過ぎて、気がつけば時計の針は午後4時半を回っていた。
「暗くなる前に帰りましょうか」
飛彦の提案に、雪斗は無言でうなずいた。
正直を言えば、もう少し飛彦と話をしていたい気持ちはある。しかし冬はあっという間に日が落ちてしまうし、暗くなると雪道を歩くのは大変だ。雪斗の自宅である喫茶わたゆきは町はずれに位置しているから、人通りが少ない時間帯には雪で道が埋まってしまうこともある。
レジで支払いを済ませ、喫茶店の扉を開けた。
瞬間、雪をのせた突風が顔面をたたき、雪斗は息を詰まらせた。
「え、吹雪いてる」
喫茶店に入る前、比較的穏やかだった空模様は、今やすっかり荒れ模様。びゅうびゅうと音を立てて風が吹き、四方から舞い上がる粉雪が視界をふさいでいる。吹雪だ。
呆然と立ち尽くす雪斗の隣で、飛彦がおろおろと謝罪した。
「す、すみません雪斗くん。まさかここまで酷い天気になるとは想像もしなくて……帰れそうですか?」
「……厳しいかもしれないです。うちへと続く道は、遮蔽物がなくてすぐにホワイトアウトするから……」
2人そろって空を見上げた。薄灰色の空は絶え間なく雪を降らせ続けている。5分や10分待ったところで、天気が好転するとは到底思えなかった。
(風が強くなるようなら早めに帰らなきゃ、って思ってたはずなのにな。飛彦さんとのおしゃべりが楽しくて、天気のことなんて全然気にしてなかった)
「僕、今日はどこかに泊まります。この時間ならまだホテルの空きはあると思いますし。飛彦さんは、もし帰れるのなら僕のことは気にせずに――」
少し緊張した飛彦の声が、雪斗の言葉をさえぎった。
「もし雪斗くんさえよければ、うちに泊まっていきますか?」
「――え?」
「私の家、ここの近くなんです。大きな通りに面しているからこの天気でも迷うことはありません。だからその……雪斗くんさえ気にならなければ、一晩泊まっていきませんか?」
雪斗は、こぶし3つ分高いところにある飛彦の顔を見つめた。
飛彦の提案は雪斗にとってもありがたかった。この悪天候の中でホテルを探すことは大変だし、見つけたホテルに空き部屋がある保証もない。うろうろと街をさまよい歩くくらいなら、飛彦の家に泊めてもらう方がどれだけ気楽なことか。
「……飛彦さんはいいんですか? 僕みたいな他人が、一晩中家の中にいることになりますけど」
「私は全然、気になりませんよ。雪斗くんをこの寒空の下に放り出しておく方が気がかりです」
優しく諭されてしまえば、雪斗には飛彦の提案を断る理由はなかった。
「そういうことでしたら……一晩お世話になります」
飛彦の自宅は、喫茶店から徒歩で5分ほどのところにある集合住宅の1室だ。
「せまい部屋ですみません。好きにくつろいでもらって構いませんから」
「ありがとうございます」
もこもこのマフラーを外しながら、雪斗は部屋の中の様子をうかがった。コンパクトなワンルームは隅々まで整理整頓が行き届いている。余計な物は何一つ置かれていない、飛彦らしい部屋だ。
ふとダイニングテーブルの上に書きかけの便箋が散らばっているのが目についた。いつも雪斗に手渡されるシンプルな便箋とは違う、春の訪れを連想させるような華やかな便箋だ。同じデザインの封筒もある。
(そういえば飛彦さん、誰かに手紙を送りたいんだと言っていたっけ。あの華やかな便箋は、その『誰か』のために用意したものなのかな)
ほんの一瞬もやもやとした気持ちを覚えたが、雪斗にはその気持ちの出所がわからなかった。雪斗と飛彦はただの文通友達。飛彦が誰を相手に手紙を送ろうが、どんな便箋を使おうが、雪斗には関係ないこと――のはずだ。
「雪斗くん。身体、冷えていますよね。着替えを準備しておくので、先にシャワーを浴びていてください」
そう言って飛彦がタンスを開け始めるので、雪斗は慌てて静止した。
「そこまでお世話にならなくて大丈夫ですよ! 部屋の隅でころっと横にならせてもらえれば十分……」
「いえいえ、せっかくお招きしたんだからおもてなしさせてください。晩ごはんも準備しますね。お菓子をたくさん食べてしまったし軽めの方がいいかな」
にこにことご機嫌の飛彦は、雪斗の手に寝巻き一式を押し付けた。日頃飛彦が着ている物なのだろう、ほんのりと洗剤の匂いがする。
「少し大きいとは思いますがこれを着てください。お風呂場にある物はなんでも好きに使って構いませんから。タオルも準備しておきますね」
至れり尽くせりの待遇に文句を言うことなどできるはずもなく、雪斗は大人しく風呂場へと向かった。
温かなシャワーで冷えた身体を温めたあとは、飛彦手作りのサンドイッチとスープをいただいた。おやつ時に甘いお菓子をたくさん食べてしまったから、塩気の効いたスープが五臓六腑に染み渡る。
「ふわぁ、美味しい……飛彦さんは料理上手ですね」
思わず素直な感想を口にすれば、飛彦は照れたように頬を掻いた。
「意識して料理するようにしているんです。1人暮らしをしていると、どうしても食生活が偏りがちですから」
「わかります。僕もおばあちゃんが家にいないと、ラーメンと甘いパンばかり食べちゃうんですよねぇ」
「雪斗くんは、あまり料理はしないですか?」
雪斗は少し考えこんだ。
「ん、んー……たまにしますよ。おばあちゃんに『喫茶店のメニューくらい作れるようになっておきなさい』って言われてて……練習中というか……」
日々喫茶わたゆきの店員として働く雪斗だが、料理の腕はまだまだひよっこ。とてもじゃないがお金をもらってお客様に提供することはできないレベルだ。
しかし飛彦は微笑みながらぽつりと言った。
「食べてみたいです、雪斗くんの手料理」
「え、ええ? 多分美味しくないですよ。この間オムライスを作ってみたら、ご飯が半分くらい飛び出しちゃって……」
「ご飯が丸出しでも食べたいです」
「ええー……飛彦さん、物好き……」
夕食の後はぽつりぽつりと雑談を交わしながら時を過ごした。喫茶店でもたくさんの話をしているはずなのに、不思議と話題が尽きることはなく、ゆっくりと静かに夜は更けていく。
時計の針が午後11時を少し回ったとき、飛彦はおもむろに言った。
「そろそろ寝ましょうか。ご家族も心配していると思いますし、明日は早めに帰りますよね」
「そうですねー……。除雪のお手伝いもしないといけないから、早めに帰らないと」
雪斗は名残惜しさを感じながら、びゅうびゅうと吹き荒れる風音に耳を澄ませた。飛彦の自宅にお邪魔してからというもの、雪はずっと降り続いている。これだけたくさんの雪が降れば多くの建物は雪に埋もれてしまう。喫茶わたゆきも例外ではない。
「じゃあ私は床で寝るので、雪斗くんはベッドを使ってください」
「え?」
「雪斗くんがシャワーを浴びているあいだに、シーツと枕カバーは換えておきましたから。遠慮せずにどうぞどうぞ」
ぐいぐいと肩先を押されて、雪斗は大慌てだ。
「いやいや、さすがにベッドはお借りできませんって! 僕は床で大丈夫なので、飛彦さんがベッドを使ってください!」
「お客さまを床には寝かせられませんよ。雪斗くんがベッドを使ってください」
「いやいやいや……」
その後もしばらく言い合いは続いたが、互いが互いに主張を譲ることはない。そして長く続いた言い合いの末に、どちらがベッドを使うことになったのかと言えば――
(ベッド問題はひとまず解決したけどさ。これはこれでまずくない……?)
灯りを落とした部屋の中で、雪斗と飛彦は並んでベッドに寝ていた。終わりの見えない言い合いに疲れた雪斗が「じゃあ2人一緒にベッドで寝ればいいんじゃないでしょうかね!」と言い放った結果である。雪斗としても、まさか本当にこの案が採用されることになるとは夢にも思わなかったわけであるが。
「雪斗くん、狭くないですか? もう少し壁際に寄りましょうか?」
「いえ、大丈夫です。お気になさらず……」
同じ布団の中に他人のぬくもりがある。
息を吸い込めば自分のものではない匂いがする。
心がむずがゆくて仕方ない。
(だ、ダメだ! 意識し始めると余計に恥ずかしい……さっさと寝ちゃお……)
飛彦に背中を向けて目を閉じる。緊張しているためか一向に眠気は訪れないけれど、意識を逸らせば恥ずかしさは少しだけマシになる。
ふいに頭の後ろから、遠慮がちな飛彦の声が聞こえた。
「あの……雪斗くん。お願いがあるんですけれど……」
雪斗は飛彦に背中を向けたまま尋ね返した。
「何ですか?」
「……髪を触らせてもらえませんか?」
「え、髪?」
思わず素っ頓狂な声をあげる雪斗に、飛彦は静かな声で語りかける。
「初めて雪斗くんの髪を見たときからずっと、一度は触ってみたいと思ってて……あ、もちろん嫌なら嫌で構いませんから。遠慮なく断ってください」
雪斗は考え込んだ。
真っ白でもふもふの髪の毛は雪斗のコンプレックスだ。だから室内でも毛糸の帽子をかぶり、髪の毛を隠して過ごしている。しかし思い返してみれば、飛彦に勧められてシャワーを浴びてからというもの、雪斗は帽子をかぶることをすっかり忘れていた。夕食を食べるあいだも雑談を楽しむあいだもずっとだ。
隠すことを忘れていた以上、いまさら恥ずかしいと思う気持ちもなく、雪人は素直に飛彦の頼みを受け入れた。
「いいですよ、触っても」
「え……本当に? 無理してませんか?」
「常連客の皆さんに昔からもふもふされまくってるんで。髪の毛を触られることに抵抗はないですよ」
それから笑って言葉を付け足した。
「自分で言うのもなんだけど、触り心地は最高ですよ。虜になっても責任はとりませんから」
飛彦の手が後頭部に触れた。遠慮がちに、優しく髪の毛を撫でられる。
「これは……想像していた以上のもふもふ具合……」
雪斗は飛彦に背中を向けたままだから、飛彦の表情がどうであるかはわからない。うっとりとした声音からは幸福感が伝わってくる。
もふもふ、もふもふ、もふもふ。温かな手のひらが髪の毛を撫でる。いまさら恥ずかしいことなどないと思っていたはずなのに、撫でられるたびに心がむずむずする。
(く、くすぐったいし、すごく恥ずかしい)
「飛彦さん、やっぱり恥ずかしいんでこのくらいにしませんか――」
雪斗がそう告げるとすぐに飛彦の手は離れていく。しかし安心したのも束の間で、今度は背中全体が温かさに包まれた。飛彦に抱きしめられているのだとすぐに気がついた。
「あの……飛彦さん?」
呼びかける声に返事はなく、雪斗は困惑した。困惑したが不思議と嫌だとは感じなかった。飛彦の腕の中にいることを心地いいとすら感じるくらい。
(深い意味なんてない。きっと飛彦さんはふわふわのぬいぐるみを抱きしめている気分なんだ。そうに決まってる……)
必死に言い聞かせる声は胸の高鳴りに飲み込まれて消えていく。
何も語らず、何も語られないまま、ただ静かに夜は更ける。