「霊斬……。どうして……」
無表情で酒を呑む彼を見て、千砂は言葉を失う。
「ん?」
霊斬は千砂に視線を向ける。
「どうして自身を犠牲にし続ける道を、捨てなかった? 刀鍛冶をしていれば、幸せだったんじゃないのかい?」
霊斬は酒を呑み、乾いた笑みを浮かべる。
「俺も最初はそう思った。そうだと信じたかった。でもな、違ったんだよ。店をやっていくうちに聞こえてきたのは、悪に対する嘆きと怒りの声だった。
どうしようもないほど追い詰められた、苦しみの声もあった。それを聞かなかったふりを、見て見ぬふりを、したくなかった。だから……」
霊斬は言葉を切り、決意に満ちた目で千砂を見る。
「え……」
そんな目をしないでと、千砂は口にできなかった。
「店を開けて五年後、裏稼業の〝因縁引受人〟を始めた。身分なんかどうでもいい。そんな人達のために、なにかしたかっただけだ」
「あんたは他人の願いを叶えるために、命を懸けて戦ってる! あんたが、他人にそこまで肩入れして、最悪死んじまったら、なんにもならない!」
千砂は涙を
「泣いてくれるな」
霊斬はそんな千砂を見て、微かな笑みを浮かべる。
「どうして笑うんだい?」
千砂が泣く。
「笑うしかないだろ」
霊斬はぶっきらぼうに言う。
「そんな話を聞かされて、泣かない方が不思議だよ!」
千砂は泣きながら、苛立ちをあらわにする。
「感情が……麻痺、しているのかもしれないな」
霊斬は苦笑して、酒を呑む。
「感情が麻痺しているって……」
千砂は茫然としながら、その言葉を
――感情を殺さなければならないほど、霊斬が選んだ道は過酷なのだろう。自分ならおそらく、いや早々に逃げ出しているだろう。
誰だって自分のことは可愛い。しかし、霊斬はそんなこと微塵も思ってない。一番自身を
それを分かっていて、胸を痛めることすらない。痛んだとしても、やりすごしてしまうのだ。
「自分の心の悲鳴を、葛藤を、どうすれば無視できる?」
千砂は心に浮かんだ言葉を、ゆっくりと吐き出す。
「沸き起こる感情、ひとつひとつに構っている余裕などなかった。俺自身が傷ついたと自覚するよりも先に、他者の絶望の方が遥かに重要だった。俺は〝自分について考える〟ことをやめたんだ」
霊斬は冷ややかな声で、とても残酷な言葉を口にする。
――すべて分かった上で、自分を大事にしないと決めたのだ。
霊斬の放った最後の言葉は、自分を呪っているようにも聞こえた。
「……霊斬」
千砂は内心でさまざまなことを考えながらも、ただ名を呼ぶ。
「なんだ?」
「あんたが〝因縁引受人〟をするきっかけはなんだったのか、聞いてもいいかい?」
千砂の問いに、霊斬は少し考え込んだ。
「……分かった」
霊斬は酒を呑むと、静かな声で語った。
「今から三年前の冬。乳母が誰かの手にかかったことを、乳母の父からの
うだるような暑さの中、額の汗を何度も拭いながら、目的の小さな家へと辿り着いた。
「お久し振りです」
「
霊斬の姿を見た乳母の父が言う。
「元気にしているか?」
「はい」
「旅は続けているのか?」
その問いに霊斬は、笑みを浮かべて答える。
「今は江戸に身を置き、幻鷲霊斬と名乗っています。刀鍛冶をしております」
「いい名だな。自分でつけたのか?」
乳母の父は尋ねた。
「いえ、ある人がつけてくれました」
「そうか……。娘にも今の君の姿を、見せたかったよ」
「亡くなったのは、いつごろなのですか?」
霊斬が尋ねた。
「七日ほど前だよ。突然、賊がやってきて、家を荒らし、妻と娘が犠牲になった。二人に駆け寄っていったら、声が聞こえてきたんだ」
「そうでしたか」
霊斬はうなずく。その双眸には憎しみが宿っている。
「ここにいる人を討ち取れば大金が手に入るって、武家の人が言っていた。それから男を捜せと。君のことだろうね」
「今さら連れ戻しにでもきたのでしょうか。それにしても、斬る必要はなかったはずです!」
霊斬が激昂する。育ての親であり、幼かった霊斬の味方でいてくれたのは常に彼女だけだった。
「私もそう思う」
霊斬は自分が昔いた武家の名を、すっかり忘れてしまっていた。あのころの記憶は消せなくても、その象徴となるものだけでも忘れていたかった。その方が少しでも、楽になれる気がしていたから。
霊斬は立ち上がる。
「どこへいくつもりだい?」
「江戸に戻ります。せめて賊だけでも、なんとかします」
「斬っちゃあ、いけないよ?」
「……そうせずに済むよう、動いてみます」
霊斬は頭を下げ、江戸へ戻った。
それから数日の間、賊と武士の情報を集め、ついに目的の賊を探り当てた。
黒の長着と、同色の馬乗り袴を身に纏う。黒の足袋を履き、黒の羽織を着る。同色の布で鼻と口を隠す。
愛用している刀を腰に帯びる。その恰好は、後に〝因縁引受人〟を象徴する装束となる。
その集団がいるという家に向かった。