「あら、旦那! いらっしゃい! 奥へどうぞ!」
霊斬に気づいた千砂が、声をかけてきた。
賑やかな店の中をよそに、無言で席に腰をかける。
「ご注文は?」
「そばをひとつ」
「二日もこもって仕事を?」
「ああ」
刀を直している間は、時を忘れてしまう。そのことを痛感した瞬間だった。
「仕事熱心なのはいいと思います。けれど、しっかり食べないと。倒れてからでは遅いんですよ?」
千砂は苦笑しつつ、きっと霊斬を睨んできた。
「そう言えば、名乗っていなかったな。すまない。俺は鍛冶町で店を営んでいる幻鷲と言う」
霊斬は苦笑しつつ、見上げる。
「あら、それはご丁寧に。私はここで働いてる千砂と申します。今後ともご
「ったくよお! 今名乗るって笑えるじゃねぇか! 最初に名乗らなきゃなあ?」
その様子を見ていたほかの客が大声で笑い出す。周りがどっと笑いに包まれる。
「ただ名乗っただけだろうが」
霊斬は苦笑しながら、お茶を飲む。
「そんな人達は放っておいて、食べてください!」
にこりと微笑んだ千砂は、盆に乗ったそばを机に置いた。
「まあいいさ。いただきます」
霊斬は手を合わせてから、食べ始めた。
その様子を嬉しそうに見つめた千砂は、ほかの客の空いた器を下げ始める。
――ここのそばはやっぱり美味いな。
食べ終わるまで箸が止まらなかった。
かなり早く食べ終えてしまったことに、周りの客らが驚く。
「この後、急ぎの用でもあるのかってくらい、早い食いっぷりだったなぁ」
「いや、とくに用はないんだが。こんなに早く食べたことはないんだよ。俺が一番驚いている」
客の声に、霊斬は苦笑した。
「あら? もう食べたんですか? しかも、残さずに! いやあ、嬉しいですね!」
千砂が空いた盆を下げた。
「そんなに喜ぶようなことか?」
霊斬は首をかしげる。
「喜びますよ! いろんなお客見てきましたし。ちゃんと食べない人とか、文句を言ってきたりとか」
「それは……。面倒な連中だったわけか」
霊斬は渋い顔をする。
「まあ、全員が悪いってわけじゃないんですけれど。こうやって楽しいお話もできるというのが、すごく嬉しくて」
千砂は鼻歌を歌いながら、厨に引っ込んだ。よほど嬉しかったのが伝わってきた。
霊斬は銭を置いて、店を後にした。
夕方、園田が店に顔を出す。店に招き入れるや、園田は口を開いた。
「早くきてすまぬが、刀は直っておるか?」
「はい。こちらでございます」
霊斬はさっそく、刀を見せる。
「たしかに」
「失礼ですが、私に修理の依頼をしたのは口実でしょうか?」
「……はい。しかし、武士の恥でもあり、どう話したらよいものかと」
「そのままで結構です。決して他言はいたしません」
「我が主はある理由で、賊に命を狙われている」
「賊……ですか」
「うむ。こちらでも調べたが、とあるお方の指金らしい」
「では、とあるお方についてお尋ねします。あなた方とは、どういったご関係ですか?」
「主とは義兄弟に当たる。だが、その方の母がどうも地位に固執しているようだ。主も私も彼らに、憎しみがある。しかしそれを、どこへ向けたらよいか分からぬ」
「そうでございましたか。承知いたしました。それからひとつ、確かめたいことがございます」
「なんだ?」
「人を殺めぬこの私に頼んで、二度と後悔なさいませんか?」
「もちろん。依頼内容は賊の退治と、できればこの状況の打開だ」
「承知いたしました。決行の際に、私の邪魔だけはなさらぬよう」
霊斬は言葉こそ丁寧なものの、喧嘩を売った。
「分かっておるわ」
その言葉が気に
気分を変えようと、霊斬は店を出た。
依頼について考えつつ、町での噂話に耳をかたむける。
そこには女将らしき女と、どこかの店の主らしき男が話をしていた。
「小料理屋の下手人って、あの暗い噂で有名な富川家の者らしいよ」
「あ、聞いたことある。父親の不祥事かなんかで、誰か武士辞めさせられたんじゃなかったか?」
「そうらしいねぇ。憂さ晴らしに呑んでたみたいだけど。喧嘩に苛立っちまって、死人が出たとか」
それまで黙っていた霊斬が口を開く。
「その話、詳しく聞かせてくれないか?」
「いいぜ。そいつ、いったん逃げたのに、また小料理屋に戻ってきたらしいんだ。でも、隠れていられなくてまた逃げたって」
「だったら、逃げたままでいればよかったのにな」
霊斬は苦笑する。
「だよなぁ。でもそこの家って、自身番の連中も強く言えねぇんじゃなかったっけ?」
「ほう? それはどうしてだ?」
霊斬が眉を上げて尋ねる。
「暗い噂はあれど、身分が高い方に入るからじゃねぇかな? それか、自身番の連中が胡麻擦ってるとか?」
「ああ、そう言えば。少し前に富川家の主が自身番に圧力をかけたとか? 本当かどうか知らないけどさ」
「ちょいと前に、小料理屋で骸が見つかって、騒ぎになったときがあっただろう?」
霊斬はなにも知らない
「あったなぁ」
「それがどうしたのさ?」