陽の光も差し込まない、暗い暗い部屋の中。2羽のカラスが、夢を見ている。
灰色の体をぴったりと寄せ合って、微動だにしない石像のように、彼らは目を閉じていた。
夢というものは、記憶を整理するために見るものだ。
かつて彼らの主人はそう語っていた。もしもそれが本当ならば、数百年に及ぶ膨大な記憶の海を揺蕩う2羽の思考は、きっと荒波を進む小さな小さなイカダなのだろう。
かつて――彼らの羽がまだ黒かった頃。世界には神がいて、そして魔族がいた。彼の主人はこの街で最高の魔術師であると同時に、人々へ知恵と魔術を授ける神であった。カラスの片割れは主人の長い髭に潜り込んで遊ぶことが大好きで、それを片割れが呆れたように眺めるのが日常だった。
しかし、2羽が何よりも好きだったのは、主人へ世界中で何が起きているのか伝えることだった。
今日は北の山が噴火した。前回の噴火は97年前だから、きっと今回は小規模な噴火だろう。そう告げれば主人は頷いて、手元の地図に印をつける。大きな大きな机に広げられた書物はどれもカラスたちの報告を書き記したもの。日を追うごとに増えていく紙の山を、主人は愛おしそうに見つめていた。
いつの間にか、主人の住む塔にそっくりなものが空に浮かぶようになっていた。様子を伺いに行けば、そこには主人を師として、神として信仰する魔術師たちが住んでいた。カラスたちはなんだか誇らしくなって、主人に塔のことを伝えた。
「そうか。それはよいことだ。この街の魔術師が、塔を浮かせるだけの力を手に入れたということだよ」
嬉しそうに微笑む主人に合わせて、2羽もカアと鳴いた。それから時々、主人の住む塔へ魔術師がやってくるようになった。空を飛べるだけの力を持つ優秀な魔術師たちは、主人の話し相手として大いに役立ったようだった。2羽には少しだけ難しい話を続ける彼らを眺めていると、少しだけ寂しい気持ちになったが、楽しそうな主人の姿が寂しさを吹き飛ばしてくれた。
永遠に続くと思われた、平穏な日々はあっという間に終わりを告げた。神々と魔物の間で、争いが起きたのだ。どうして争いが始まったのかは分からない。だが、神も魔族も、お互いを酷く憎んでいた。
世界中を飛び回っていたカラスたちは、戦の気配にすぐ気が付いた。主人にそれを伝えれば、今まで見たこともないような怖い顔をして考え込んでしまう。あんなにも悩む主人は、知恵のため自らの右目を捧げたときよりもずっとずっと深く思考の中へ沈んでいるように見えた。
戦が始まって数年が経った。寿命の概念などほとんど存在しないカラスとその主人にとってはほんの数ヶ月のような感覚だった。戦火はとうとう彼らの住む街にまで及ぼうとしていた。
魔術の神である主人を信仰する人間たちが助けを求めてくる。もうすぐそこまで魔族の群れがやって来ている。中には鋼鉄のような鱗を持ち、睨み付けた相手を石に変える恐ろしい魔王がいるらしい。すぐさま偵察へ向かえば、確かに魔術師たちの言うとおり、魔物が軍隊となって押し寄せていた。
ぶるり、と片方のカラスが震える。2羽は同じ夢を見ていた。幸せだった記憶が、少しずつ悲しみに包まれるのを予感して、活発な相棒は怯えているのだろう。無意識のうち、冷静なカラスが相棒へと寄り添った。
あっという間に攻め込んできた魔物の群れに、魔術師と主人は戦いを挑むことにした。街を、知恵を、人間を守るための戦いだった。主人がいつも食事を分け与えていた2匹の狼も、牙を剥きだしにして魔物へと襲いかかっていた。前足が届きそうで届かない距離を飛び回り、じゃれ合っていた友人は、血と埃にまみれながら炎の中を駆けている。そして、遠くから飛んできた毒を塗られた矢に射貫かれた。
カラスたちにできることは、主人へ狼の死を伝えることだけだった。心臓を射貫かれた彼らは、地面に倒れ込んだきり動かなかったのだ。目を伏せて仲間の死を悼む主人を慰めようと2羽はすり寄った。
「よいか。わしが消えたあと、お前たちがこの街を守るのだ」
そう言って、黄金の鎧を着込んだ主人は優しくカラスの頭を撫でた。ペンだこのできた指が小さな頭を二度、三度、撫でる。それが、カラスたちが最後に感じた主人の温かさだった。
主人が――オーディンが死んだ。そう悟ったのは、街に静寂が戻ってからだった。慣れ親しんだ魔法の力が街全体を揺るがした直後、全てが静かになった。カラスたちはそのとき、主人を探して飛び回っていた。戦いが終わったのだと一刻も早く主人へ伝えたかったのだ。しかし彼らが目にしたのは、持ち主を失った黄金の鎧と、その中に渦巻く黒い呪いだった。
恐ろしい大きな蛇の魔王も、魔物の大群も消えている。2羽が愛した主人も、どこにもいなくなっていた。残されたのは神の力を宿した秘宝と、それが封じる魔王の怨念だけ。カラスたちは鎧に顔を押し付けて涙した。ぽっかりと心に穴が開いてしまったようだった。
だが、カラスたちから悲しみは奪われることになる。鎧が封じる呪いは、2羽の羽毛を少しずつ石へ変え始めたのだ。まるでオーディンの使いである彼らを憎んでいるように。
主人が最後の力を振り絞って何を成し遂げたのか、2羽は理解した。そして、彼が残した言葉を思い出した。鎧を掴むと、カラスたちは主人と暮らした塔へと向かう。最も街から遠く、街を見下ろせる場所へと遺品を置けば、まるでそこに彼がいるような心地だった。
それから2羽は、主人の代わりに街を守ることにした。主のいなくなった部屋は少しずつ物が減っていく。彼の魔力によって保たれていた書物は、街に住む魔術師が一部を書き写すことで辛うじて内容は消えずに済んでいたが、その原本は劣化してしまった。しかし、魔術師たちは互いを助け合い、神の残した知恵を世界から消すまいと努力し続けた。80年程度しかない、カラスたちからすれば瞬きの間のような短い寿命の中を精一杯に生きる彼らを、2羽は塔の最上階から見つめていた。
ある日のこと。街をぐるりと一周していた2羽は、奇妙な噂話を耳にした。
“塔に住む魔術師の中に、肌が硬く灰色になる病が流行っている”。
その噂を聞いて2羽は驚き、同時に絶望した。主人が封じたはずの呪いは、少しずつ街へ広がりつつあるのだ。日々鎧の側にいるカラスたちは、既に体の半分以上を石へと変えられている。呪いの対象はオーディンの関係者だけだという彼らの考えは誤りだった。蛇の魔王は、オーディンとその周りの存在だけではなく、彼を信仰する者にまで憎しみを向けていたのだ。
どうするべきか、2羽は悩んだ。石に変わりゆく呪いを癒す方法を探すには遅すぎた。オーディンの残した書物はほとんど残っていない。頭を抱える彼らに追い打ちをかけるように、噂は事実として広まっていく。
“この街に住む魔術師は知恵をつければつけるだけ石になる”。
“やがて心臓まで石に変えられてしまえば、バラバラに砕けてしまうだろう”
呪いが街に牙を剥いていた。死んだはずの魔王は、消えない毒をこの地に残していたのだ。神の力を宿した鎧に封じられながら、じわりじわりと街に毒が染み込んでいく。
主は無駄死にだったのかと心に深い絶望を抱く2羽のもとに、1人の魔術師が訪ねてきた。空に浮かぶ塔の魔術師を束ねる長だという老人は、石になりかけの体で塔まで登ってきたのだ。今にも砕けてしまいそうな彼に驚きながらも用件を聞けば、過去に何があったのか知りたいようだった。
「そうですか。ああ、我らの神は、その身を犠牲にして……」
亀裂の走る手でカラスたちの話を紙に記していた老人は、それだけ呟くと塔を去っていった。
その日から、少しずつ街の魔術師たちは変わり始めた。
知恵をつければつけるだけ石に変わる呪いは、自身がどれだけの知恵を付けたか示す勲章になった。
魔術師が石になって砕けることは、最高の名誉になった。
カラスたちからすれば理解のできないことだった。かつてオーディンは知恵のために犠牲を払ったが、魔術師たちは違う。呪いという避けられない死を、自分たちにとって少しでも良いものとしてねじ曲げただけだった。現実逃避とも呼べる歪んだ考えに、2羽は困惑した。しかし魔術師たちの考えを改めることなど彼らにはできなかった。数百年生きてきたカラスたちと、数十年しか生きられない人間では、時間の感覚があまりにも違ったのだ。
そうして時間は流れていく。知恵の神オーディンのように命を犠牲にして知恵を得て、石となり砕けることが素晴らしいという認識が魔術師たちの中で根を張る。同時に街を蝕む呪いは、彼らを愚かだと嘲笑うように強くなっていった。
ギシリ、と鎧が軋む音でカラスたちは目を覚ました。黄金の鎧以外なにもなくなってしまったかつての主人の部屋は、誰も訪れなくなって久しい。渦巻く呪いは今も内側から鎧を破壊しようと蠢いている。
呪いから人々を少しでも遠ざけるため、カラスたちは主人の塔に仕掛けを作った。名誉に囚われた知恵ではなく、あらゆる物事を観察し、深く考えることができる知恵を持った者にこそ、この呪いを打ち倒せると信じて。
そして、その日は訪れる。女神の宿る指輪を持った青年と、清らかな魂を持つ少女。彼らならばきっと、この街を変えてくれるだろう。2羽は寄り添い、主人の温もりも残らない黄金の遺品を見つめながらそう祈った。