清々しい風が、石造りの街を通り抜けていく。
身支度を終え、宿屋を出た2人は街の中を歩いていた。どうやら昨日の出来事は街全体に伝わっているようで、人々は少しだけ落ち着きがないように見える。ある者はオーディンの塔を見上げ、ある者はローブに隠していた腕を確かめている。誰もが皆、呪いが消えたことを実感していた。
「少し変わったわね。この街の……雰囲気、っていうのかしら」
「そうだな。ずっと続いていた呪いが急に消えたんだ。驚きもするさ」
声の波を掻き分けて、2人は街の出口へと進む。そこにはつい最近見た景色と同じように、ローブを纏った魔術師が立っている。ただし今日は、人影は2つであった。
「旅人。待っていたぞ」
温和な笑みを浮かべた男――シラが、サイたちの姿に気付く。その隣に並んでいた老人が、豊かな髭をひと撫でして笑った。彼らはこの街に暮らす魔術師の長と、その息子。魔術師は石になり砕けることこそ名誉ある最期と考えていた若者と、魔術師たちの悲惨な末路を変えようとした好々爺だ。
「あんたら、俺たちがここに来るって分かってたのか」
「最初に会ったときを思い出すわね」
「この街で何が起こっているか把握するのは、わしらの役目のようなものじゃからの」
長はゆっくりと空を見上げる。遙か遠くの空を見つめてから彼は呼びかけるように口を開いた。
「フギン様と、ムニン様のようにはいかぬが……のう」
彼の口から名前を告げられた直後、薄く広がっている雲の向こう側から2羽のカラスが姿を現した。右目が宝石のカラスであるフギンと、左目が宝石のカラスであるムニン。2羽はオーディンの使いとして世界中を飛び回る役目を持っていたが、神が消えてからは街を蝕む呪いと戦い続けていた。魔術師たちからすれば信仰している神を知る貴重な存在であると同時に、街の守護神のようなものだった。
「ほっほっほ……フギン様、ムニン様も旅人を見送りにいらしたのですな」
「あれが……私もお姿を見るのは初めてだ。会えて光栄です」
2羽を目の当たりにした長は口角を緩やかに持ち上げ、シラは感動のあまり目を輝かせている。一方で名を呼ばれたカラスたちは付近の木へと止まり、魔術師たちの顔を見つめて首を傾げていた。小刻みに左右へ首を傾けているのがムニンなのだろう。彼は、クルクルと喉を鳴らしながら呟いた。
「ねえ、ねえ! どうして僕らがいるって分かったの? 不思議!」
「我々は塔に訪れる魔術師を監視することはあれど、人前に姿を現すことはしなかったのですが」
ムニンの隣に並んでいたフギンも、不思議そうに長へと目線を向けている。2羽は呪いを少しでも食い止めるためオーディンの鎧を守ると同時に遙か上空から街を見守っていたのだ。街に暮らす人々は神話に登場する2羽を知ってこそいるものの、実際のその姿を目にすることはなかった。そのはずが、長とシラは、彼らが実在することを知っているかのような言葉を発している。カラスたちにはそれが不思議でならなかった。
神の使いを前に、長は臆することもなくゆったりと髭を撫でている。彼はカラスを交互に見つめて目に焼き付けながら、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「お二方ほどではないが、わしもそれなりに長くこの街で生きておりますでな。カラスの鳴き声を聞いたり、誰かに見守られているように感じたりすることなど、数えきれぬほどありましたわい」
「……ムニン」
「えっ! 僕のせい? でもフギンだって、見回りの最中によく歌ってたよね!」
「それは……! 北の塔にぶつかる風の音が心地いいからつい……ムニンも合わせて歌っていたでしょう!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ始めたカラスに、4人は顔を見合わせて小さく笑った。どうやらこのカラスたちは、思っているよりもずっと人間臭く、そして愉快なようだ。
暫くの間騒いでいた2羽だったが、やがて落ち着きを取り戻したのかサイとリヤのほうを見る。旅人がどこへ向かうのか知っている2羽は、改めて確認するように尋ねた。
「旅人よ。トールの戦場跡地は、陽が沈む方向へ進んだ先の、黒雲に囲まれた場所です。人の身には危険すぎるかもしれません」
「あんたらが教えてくれたんだろ? 今更危険だからやめろなんて言わないでくれよ」
「トール様の土地へ行くのか」
フギンの言葉に、シラが思わず口を開いた。街から出たことのない彼だったが、書物でその土地については知っている。オーディンの息子である雷神トールの力を宿した秘宝が眠る場所であり、近付く者は雷で焼かれてしまう恐ろしい地なのだと。彼はサイたちを止めるべきか逡巡しているようだったが、ふと父親の顔を見上げ、そして自身の思いを改めた。魔術師を束ねる知恵と魔術に長けた己の父は、旅人のことを信頼している。その証拠に、顔には笑みが浮かんでいた。
「おぬしらならきっと切り抜けられるじゃろう。神々の秘宝が導いてくださる」
「……ああ、そのとおりだ。フギン様とムニン様に認められたお前たちなら、無事に旅を終えられるだろう」
魔術師たちに背中を押され、サイたちは街の外を見る。次に向かうべき場所は決まった。頼もしい神の秘宝も手に入れた。ロキより先にトールの秘宝を得るために、彼らは進み始める。
「じいさん、シラ、世話になったぜ」
「カラスさんたちもありがとう。みんな、元気で」
「どうか無事で。我々の力が必要になれば、いつでも参りましょう」
「頑張ってね! 頑張ってね!」
振り返り、2人は手を上げた。長とシラは小さく頷き、軽く片手を持ち上げて恩人たちの旅が少しでも平和であることを祈っていた。カラスたちは街と外の境目を飛び回り、世界を救うべく新たな地へ向かう旅人を励ますように鳴く。
街を隠すように少しずつ濃くなる霧の向こう側で、2つのローブと2羽のカラスがいつまでも彼らを見送っていた。
魔術師の街、ソーサラー・ガーデンから少し離れた、オアシスの街。砂漠と緑地の中間のようなそこで、1人の子供がせっせと働いていた。甘く香ばしいパンの焼ける匂いに瞳をきらきらと輝かせながら、彼は品物を籠の中へと並べていく。店内に広がる小麦の香りと温かな空気に、客は我先にとパンを取り始めた。
客の波が落ち着いた頃、店の奥から店主の男が姿を現した。男は黙々と店の掃除をしている子供へ声をかけると、手にしていた紙袋を渡す。途端に子供の顔がぱっと明るくなり、袋の中身を覗き込んでまた目を輝かせた。
「今日はもう帰っていいぞ。手伝いご苦労さん」
「はいっ! ……でも、まだお店の掃除が終わってません」
袋の口を閉じ、子供は申し訳なさそうに店主を見上げる。男はへらりと笑みを浮かべると、太く温かな手で小さな頭をわしわしと撫でてやった。
「いいよ、あとは俺がやる。少し多めにパンを入れてあるから、ルイーナにも分けてやれ」
「分かりました! じゃあ、今日は帰ります」
「おう。また明日、頼むぜ」
頭を下げ、子供は駆け足で店を出て行く。彼の帰りを待っている人のもとへ、少しでも早く辿り着けるように。その背中を見送りながら、男は壁に立てかけられた箒を手に取った。
袋を持った子供が向かう先は、この街で唯一の占い師である女の家。女はここから近い街に住んでいたのだが、訳あって故郷を出てきたのだという。
「ただいまー!」
「おかえりなさい。あらあら、そんなに慌てて……」
勢いよく扉を開けた子供は近くの机に紙袋を置くと、椅子に腰掛けていた髪の長い女へと抱きついた。彼女は彼の母親であり、家主の女の仕事を手伝う傍ら、使っていなかった離れに住まわせてもらっている。胸元に飛び込んできた息子を優しく撫でていた彼女だったが、すぐに仕事を再開する。家主が占いで使うためのハーブを選り分けなければならないのだ。
「帰ってきたのね。お疲れ様。今日も大変だったでしょう」
「あ! ルイーナさん。パン屋のおじさんがね、ルイーナさんの分も入れておいたって!」
別室から顔を出した、奇妙な形のネックレスを身に着けている女――ルイーナが子供の話に顔を綻ばせる。彼女はあの店のパンが何よりも好物なのだ。
「まあ、それは嬉しいわね。じゃあ、少し早いけど夕食にしましょうか」
「やったー! ねえお母さん、僕トマトのスープが飲みたい!」
「あ、いいわね。私も飲みたい」
机に並べられていたハーブを片付けながら、母親とルイーナが笑い合う。その横で子供が皿を並べ、今日の出来事を楽しげに話している。彼らとルイーナは血が繋がっているわけではなかったが、不思議な縁で結ばれていた。
(……不思議なこともあるのね)
ルイーナは数日前のことを思い出す。彼ら親子は物乞いをしており、恵みとして与えられたパンを食べているところへルイーナが通りかかったのだ。更に偶然なことに、パン屋の主人が彼らを見つけ、“そんなに美味そうに食べるなら、売り物にならないやつを分けてやる代わりに手伝いをしてくれないか”と持ちかけたのだ。ルイーナもたまたま人手が足りなかったこともあり、母親に住む場所を提供する代わりとして仕事を頼んでいる。奇跡とも呼べる偶然が積み重なった結果の幸運であり、もしもあの子供がパンを恵まれていなければ、彼らは今頃飢えに苦しんでいただろう。
「あれ? ルイーナさん、窓の外に鳩がいるよ」
「鳩……?」
子供の声で我に返ったルイーナが窓を見ると、言われたとおり1羽の鳩が止まっていた。右の羽に白い斑模様のある灰色の鳩に、彼女の心臓がどくりと早鐘を打ち始める。忘れるはずもない、故郷で恋人が飼っていた鳩だった。
すぐに窓を開けると鳩は逃げもせずにルイーナの肩へと飛び移る。足首に巻かれた小さな紙は、鳩が伝書鳩としてここへ訪れたことを意味していた。紙を取り中を開いた彼女の鼻孔を懐かしい石造りの塔と、壁を覆う蔦の香りが掠めていく。
「……ああ……まさか、本当に……!」
丁寧に折り畳まれていた手紙には、オアシスの街から来た旅人によって呪いが倒されたことが書かれていた。送り主の名は故郷でも有名だった、優秀な魔術師のもの。これからも学び続けることをやめず、いずれは父のような立派な長になると記されたそれを握りしめ、ルイーナは目頭が熱くなるのを感じた。
「ルイーナさん、泣いてるの?」
「……今はそっとしておいておやり。さ、スープを作るのを手伝って」
瞳を閉じたルイーナの瞼に、恋人が笑いかけてくる姿が浮かび上がる。胸元で揺れる石が、夕日を受けて宝石のようにきらめいていた。