塔を出てからの時間は、あっという間に過ぎていった。長とシラに宿屋まで見送られたはいいものの、彼らは戦いで疲れ切っている2人へ次々に質問を浴びせたのだ。既に一度話したというのに、知識に貪欲な魔術師親子は飽きもせず何度も同じ話をさせ、とうとうリヤが音を上げてしまう。そこでやっと彼らは我に返り、改めて感謝の意を伝えるとそれぞれの住まう場所へと帰っていった。
騒がしい魔術師がいなくなってから、サイたちは腹を満たし、泥のように眠っていた。宿屋の主人は長たちのように2人へ何があったのか尋ねようとはしなかった。塔へ立ち入ることのできる立場ではないこともあったが、主人からすれば彼らは恩人である以前に、大事な客なのだ。疲れた旅人の眠りを邪魔してはいけないと、主人は気を利かせてとびきり豪勢な食事と、よく整えられた寝室で恩返しをしたのだった。
そして、翌朝。薄く広がる雲の隙間から差し込む朝日が、サイたちの部屋を照らしている。すうすうと静かに寝息を立てるリヤと、丸まって眠っているサイの姿を窓の外から覗き込む者がいた。彼らが眠っているのは宿屋の2階。小さな植木鉢を乗せるための手すりがある以外に足場はない。その手すりにちょこんと乗っているのは、2羽のカラスだった。
「まだ寝てるね! 寝てるね!」
「そのようですね。あれだけのことがあったのです。もう少し待ってから、また来ましょう」
それぞれ右目と左目が淡い緑色の宝石になっている、石でできたカラスたち。彼らは部屋の中で眠る恩人を見つめながら、ひそひそと話し合っていた。
「さて、一度この辺りを巡回しましょう。呪いの残滓がないか調べなければ……」
落ち着いた口調のカラスが飛び立とうとするが、隣にいた活発なカラスが突然窓をくちばしで叩き始める。コンコンと控えめではあるがそれなりに響く音に、2つあるベッドの片方が反応するのが見えた。
「あっ! 起きたよ! 起きたよ!」
「……起こした、の間違いでしょう」
丸まっていたサイは、窓を叩く音に目を開けた。急速に覚醒していく意識は目覚めたばかりで完全に明瞭ではなかったが、すぐに行動できるだけの余裕はある。いつ襲われるか分からない環境の中、ぐっすりと眠ることなどできなかった。少しの物音にも敏感に反応できなければ命はない。そういった過酷な世界を生きてきた彼は、起き上がり顔を向けた先で2羽のカラスが並んでいることに気付き、ため息をついた。
「……お前ら、昨日の……なんなんだよ、人が疲れて寝てるってときに」
「おはよう! おはよう!」
サイが気付いたことが嬉しいのか、カラスはリズミカルに窓を叩きながら鳴き始める。さすがのリヤもこれには目を覚ましてしまい、彼女は眠たげに瞼を擦りながら身を起こした。
「……あれ……カラス、さん……?」
「起きた! 起きた! おはよう、朝だよ!」
「こいつ、元気すぎるだろ」
首を上下に揺らし、窓をコンコンと叩くカラス。その隣で呆れたように頭を下げていたカラスが、申し訳なさそうに鳴いた。
「……窓を開けてくれませんか。このままでは他の住民にも迷惑がかかります」
「分かったよ……。しかし、カラスってのは随分と早起きなんだな」
ベッドから出たサイが窓を開く。朝の澄んだ空気と共に部屋へ入ってきた2羽のカラスは、すぐ近くにあった棚へと降り立った。
右目が宝石のカラスが、サイのほうを見る。透き通る宝石が朝日を受けて、僅かにきらめいていた。彼は首を二度、三度曲げてから細いくちばしを開く。老人の声に似た、少しだけ掠れたような声は不思議とサイたちのいる部屋の中だけに響いているようだった。
「あなたたちには詫びなければいけませんね」
「正体を隠してたことか」
サイの問いかけに、カラスは頷く。
「えっと……フギンとムニン、よね」
リヤの声に答えたのは活発なカラスだった。彼は石となり柔らかさを失っている羽毛を膨らませ、どこか胸を張っているような仕草をする。それが可愛らしく、リヤはくすりと笑みを浮かべた。
「そうだよ! 僕がムニン! こっちがフギン! 僕らはオーディン様に世界中のことを伝えてたんだ!」
左目が宝石のカラス――ムニンが誇らしげに鳴く。彼の言うとおり、このカラスたちはオーディンの使いとして、世界中を飛び回っては何が起きているのかを見届け、主人へと報告していたのだ。
「あなたたちがこの街へ来たときからずっと、我々はオーディン様の塔から全てを見ていました。ラクシュミー殿の指輪を持っていることも、秘宝を探していることも知っていたのですが……」
「塔の試練を受けないと、最上階には行けないんだ! 僕らが門番だからね!」
オーディンと共に生きていた、街の中で最も古い存在である彼らでさえも掟を破ることはできなかった。主人が残した力を守るためにも、彼らはサイたちが気付かない限り石像のふりをし続けた。呪いを打ち倒した今、こうして和やかに会話をしているが、もしも日没となり2人が塔を出ていってしまえば、街を救うチャンスを目の前で捨てなければならなかったのだ。
「改めて、この街を救ってくださったこと。感謝します」
「そんな、私たちは……するべきだと思ったから、しただけよ」
「報酬は貰ったしな。ま、生きて帰れたし悪くはないさ」
頭を下げていたフギンがリヤの身に着けているブレスレットへと向けられる。主人の形見とも呼べるそれを懐かしそうに見つめながら、彼は言葉を紡ぎ始めた。
「礼、というわけではありませんが……神の秘宝がある場所を教えましょう」
「ほう」
サイが興味津々といった様子で腕を組む。次なる目的地を求めていた彼らにとって、フギンからの情報はありがたいものだった。リヤもすっかり目が覚めたのか真剣な表情を浮かべ、言葉を待っている。
「オーディン様の息子である、トール様が戦った跡地。そこに、彼の力を宿す秘宝があるでしょう」
「トール?」
「そうだよ! トール様はね、すっごくすっごく強かったんだ! ハンマーでなんでもドカン! って潰しちゃうんだよ!」
ムニンが騒がしく鳴く。彼の言葉にフギンも同意しているのか、首を縦に振っていた。
「ええ。とても強く、勇ましく、そして豪胆だとオーディン様がよく話していました」
「へえ。それなら秘宝にも相当強い力が込められてそうだな。で、どこなんだ? その跡地っていうのは」
彼らの言葉どおりなら、トールという神の秘宝はかなりの力を持っているのだろう。ロキという未知なる存在である神に立ち向かうにあたって、戦力などあればあるだけ頼もしい。そう考えているサイは、ますますトールの秘宝に関心を抱く。純粋な力というものがどれだけ便利であり、また脅威でもあるか彼は知っていた。
「トール様が戦ったのはね! ここから太陽が沈む方にずーっと飛んだ先だよ! 大きな雲があってね、いっつも雷が鳴ってるんだ!」
「そいつはまた物騒だな。だが、そうなるとロキってやつも手出しがしにくいだろうな」
「確かに。今のうちに私たちが先に秘宝を手に入れましょう!」
危険が伴うような場所だが、それを乗り越えなければ秘宝は手に入らない。目的地が決まった2人は、急いで身支度を始める。のんびりしている間にロキが先回りし、秘宝を手に入れているかもしれないからだ。
「我々は少し街の様子を監視します。街を出る頃、またお会いしましょう」
フギンが窓の手すりへと移動する。それを追いかけてムニンも羽ばたいた。背後から聞こえる慌ただしい音に見送られながら、2羽は数百年の間変わらない景色の中へ飛んでいく。
「カア……フギン、人間ってせっかちだね」
「我々よりもずっと短い寿命なのだから、仕方ないでしょう。ですがあの一瞬を必死に生きる姿。あれを永遠に見守り続けることこそ、我々の役目ですよ」
「そうだね! よーし、今日も見回りだ! 見回りだ!」
もうすぐ住民が活動を始める時間だろう。フギンとムニンの存在は、今や伝説となっている。優秀であるか否か、知恵があるか否かで緩やかな境界線のあるソーサラー・ガーデンにおいて、彼らに見守られていることだけは、塔に住む魔術師も、地上で暮らす人々も同じだった。