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第20話

 巨大な黒い蛇をじっと見つめ、サイは神経を研ぎ澄まさせていた。蛇の動きを見逃すまいとする彼の気迫に、カラスたちやリヤまでもが圧倒され、じっと息を潜めている。

(さて……こいつをどうやって壁にぶつけてやろうか)

 サイは今、蛇を見下ろすような位置の壁に手をかけ、窪みに脚を乗せて体を支えている。それを見上げながら真っ赤な舌を出し入れし、蛇はぎろりとサイを睨んでいた。たった一口で飲み込めるはずのちっぽけな人間が、いつまでも目の前をちょこまかと動き回っているのだ。呪いに感情があるかは分からないが、その瞳には明らかな怒りが宿っていた。

「おっと! へえ、随分お怒りじゃねえか」

 見開かれた瞳から光線が放たれる。サイの心臓を狙ったものだったが、命中したのは石の壁。サイはわざと両手を離して壁から降り、床を走っていた。続けざまに放たれる光線は彼の脚を石に変えようと床を這う。しかし、その全てを飛び越え、壁に飛びつき、サイは躱していく。

「さ、サイ……すごいわ、まるで踊っているみたい」

「すごいね! すごいね! あれは、ラクシュミーの力だよ! 加護を受けているんだね!」

 軽やかな動きで蛇を翻弄するサイを感心したように見つめているリヤだったが、ふとこの塔へ立ち入ったときの約束を思い出した。魔術師の長とその息子が話し合い、互いを理解した結果、リヤたちへ与えられたチャンス。――日没までに呪いを倒さなければ、二度と塔へは入れないのだ。

「ねえ、カラスさん! 今、太陽はどの位置にいるか分かるかしら!?」

 塔には所々小さな窓らしき穴が開いていたが、そこから太陽の位置を伺うことはできなかった。それ故に彼女は約束のことを忘れてしまっていた。慌ててカラスへと問いかけたが、返ってきた答えにリヤは更に焦ることになる。

「カア……今はね、きっと夕日が遠くのお山にほんのちょっと沈んでいるぐらいだよ!」

「そ、そんな……! 私たち、日没までに呪いを倒さないと、二度とここへは入れないの。どうしましょう……」

「大変だ! 大変だ! でも、信じようよ! 君の相棒を!」

「カラスさん……そうね。私たちは、サイを信じましょう」

 朗らかな声で鳴くカラスは心からサイを信じているようだった。呪いと対峙し、街を守り続けていた彼らがサイを信じるというのに、自分が信じずにいては意味がない。リヤは一瞬でも彼を信じられなくなった己を恥じると同時に、自分を奮い立たせた。今も蛇を攪乱し、壊せそうな壁を探す彼を心の中で応援しながら、彼女は更なるヒントはないか探し始める。

「何か私にも戦えるものは……なんだっていいわ。あの呪いを倒せるものを探さないと……!」

 部屋を見渡し、リヤは呟く。その瞬間、彼女の耳を轟音が貫いた。

「っと……! おいおい、石にできないなら叩き潰してやろうって魂胆か?」

 土埃にまみれたサイが、呆れたように笑っている。彼の言葉のとおり、蛇は巨体を思い切り塔の壁へと叩きつけ、獲物を潰そうとしたのだ。間一髪のところで転がり、攻撃を回避した彼のすぐ隣にはぽっかりと穴が開いている。蛇が、塔の壁を壊したのだった。

「ほ、本当に壁を壊すとは……!」

 彼の側で羽ばたいていたカラスが驚きのあまり呟く。同じく土埃を浴びたのか、頭を振りながらカラスは言葉を続けた。

「しかし、気を付けてください。ここは塔の最上階。強風が吹き荒れます!」

「ん? っうわ……!」

 壁に空いた穴から勢いよく風が入り込む。空高くに位置する部屋に穴が開いたことで、それまで外側から吹き付けるだけだった風が内部へと入ってきたのだ。ごうごうと唸る風は勢いよく部屋の中を走り回り、サイのマントを激しく靡かせる。

「すごい風……っ!」

「カア、カア! これじゃあ動けないよ!」

 リヤが顔を腕で覆い隠す。冷えた空気が一気に塔へと流れ込み、彼女は思わず身震いした。彼女の傍らにいるカラスがぴったりと寄り添い、苦しそうにカアと鳴く。彼も強風に驚いているようだった。

 誰もが突然の風に驚き、動けなくなっている。しかし部屋の中で唯一動きを止めない存在がいた。黒々とした体をした、呪いが姿を持った蛇だ。蛇は吹き荒れる風に目を細めているものの、持ち前の巨体で吹き飛ばされることもなくずるずると床を這っている。狙いはもちろん、先ほどから動き回っていて鬱陶しかった獲物だ。

「巨体故に風に飛ばされないのか……! 逃げてください、蛇が迫っています!」

「って言われても、この風じゃあよろけるっての……!」

 カラスの警告にサイはよろめきながら立ち上がり、穴から遠ざかろうとする。しかし吹き付ける風は彼の体を床に打ち付けた。

「ぐっ……!」

「サイ!」

 辛うじて床にしがみついているものの、気を抜けば風に煽られて塔から落ちてしまうだろう。苦しげに呻いた彼を見たリヤは、藁にも縋る思いで部屋の中を見渡す。びゅうびゅうと吹きつける風に髪を乱れさせ、砂埃に涙を浮かべながら、彼女は仲間を救う方法を探していた。

「お願い……なんでもいいの、彼を助けなきゃ……!」

 動けなくなった彼を見下ろし、蛇が光線を放つ。咄嗟に転がった先は、より穴に近い場所だった。

「チッ……今度は俺が誘導される番かよ……」

 わざとサイを追い詰めるように、蛇は次々に光を撃つ。穴の縁まで追い詰めてから全身を石に変え、塔から突き落とすつもりのようだった。なんとかして穴から遠ざかろうとするも、蛇は巨体で逃げ道を塞ぐ。

「趣味が悪いぜ。……街の人間をじわじわ石に変えるぐらいだ、そりゃそうか」

 追い詰められてもなお不敵な笑みを浮かべるサイの隣で、カラスが騒いでいる。彼らの言葉がどこか遠くに聞こえるほどに、リヤは意識を集中していた。彼を助けるものはないか。自分を犠牲にしてでも仲間を守らなければという想いが、彼女の中で強く輝く。その光に反射するように、リヤのすぐ近くで黄金色の何かがきらめいた。

「これ、は……」

 強風で転がってきた、オーディンの鎧の破片。それが、穴から僅かに差し込む夕日を反射している。よく磨かれている破片は、鏡のように彼女の顔までも映し出していた。

「鏡……光、反射……そうだわ!」

「わあ!? どこに行くの? 危ないよ! 危ないよ!」

 勢いよく立ち上がったリヤにカラスまでも飛び上がる。強風に煽られ、よろめきながらも彼女は鎧の破片を目指していた。足を踏み出すだけでも巨大な壁にぶつかっているような感覚だったが、仲間を救うためならばこの程度なんでもないとリヤは体に力を込め、進んでいく。

「この……破片をっ……サイに、届けるの……!」

「破片を? どうして?」

「これで、蛇の光線を反射させるのよ……!」

「カア! なるほど! なるほど! すごいよ、これなら勝てるよ!」

 暴風で声を出すことも難しい中、彼女は必死に手を伸ばす。やっとの思いで鎧を掴んだ瞬間、蛇の尾がリヤの体を壁へと押し当てた。

「きゃあっ!」

 サイを追い詰めるためにとぐろを巻こうとしたことで偶然彼女にも当たってしまったのだが、蛇は気にも留めずにサイを睨んでいる。今は目の前の獲物を始末することに夢中なのか、リヤが鎧の破片を持っていることにさえ気付いていなかった。

 壁に背中を打ち付けた彼女は、震える手で破片をカラスへと差し出す。カラスは破片とリヤを交互に見つめ、心配そうに鳴いた。

「大丈夫? 大丈夫? 僕らと違って、君は柔らかい。どこか、痛まない?」

「ええ、大丈夫。……それより早く、これをサイに渡して!」

「でも……」

「お願い、カラスさん。あなたにしか頼めないの。きっと彼ならすぐ分かってくれるわ」

「……わかった!」

 リヤの真剣な顔にカラスも覚悟を決めたのか、破片を掴むと勢いよく羽ばたいていく。託された破片を落とすまいと掴みながら飛ぶカラスを見送り、リヤは笑みを浮かべていた。

「カア! カアッ! 僕だって、負けないよ!」

 強風に怯むことなく、石になりひび割れた翼を必死に動かして、蛇の真横をすり抜ける。きっと壁に叩きつけられれば砕けてしまうだろう石の体で風を切り、彼は呪いを打ち倒す最後のチャンスのためにその身を奮い立たせる。相棒のカラスと宝石の瞳で意思を伝え合うと、床に倒れているサイの手へと鎧の破片を落とした。

「これは、鎧の破片か?」

「そうだよ! そうだよ! あの子から、託されたんだ!」

「リヤから? ……なるほどな」

 ガアガアと鳴きながら旋回するカラスに、サイはリヤが何を伝えたかったのかを理解した。これだけ必死になって届けに来たのだ。これであの蛇を倒せるのだろうと、彼は仲間を信じた。

「よし。これならいける」

 あと少し後ろに下がれば穴から落ちてしまうまで追い詰められているにもかかわらず、サイは笑みを浮かべた。それを最期の足掻きと見たのか、蛇は濁った黄金のような瞳を弓なりに曲げる。そして、とどめとばかりに瞳を光らせた。

 相手を石に変える、呪いの光。蛇が狙ったのはサイの頭。一瞬で全身を石に変え、噛み砕いてやろうと口を開いた蛇の瞳に映ったのは、自分を封じ込めてきた忌々しい神の鎧だった。

「――残念だったな!」

 太陽の光に似た強烈な閃光が蛇の体を包む。勝利を確信している蛇は、何が起きているのかも分からないままサイを噛み砕くために大きく口を開いていた。ぎらりと光る2本の牙も、恐ろしい呪いを放っていた瞳も、ゆっくりと石へ変わり始める。自身が放った石化の光は、オーディンの鎧によって跳ね返された。長い間魔術師たちを苦しめてきた石化の呪いを、呪い自身が受けることになったのだ。

 石化した蛇の体は、サイを食らおうとした勢いを殺すこともできずに穴の向こう側へと落ちていく。

 吹き付ける強烈な風にその身を削られ、バラバラに砕ける蛇を、沈みゆく夕日が静かに照らしていた。

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