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第10話

 ラクシュミナガルを出て、数日が経過した。

 サイとリヤは今、巨大なオアシスの側に作られた街の中を歩いている。

「すごい……私たちのいた街以外の景色を見たのは初めてだわ!」

 賑わう人々で満ちている表通りは、行き交うキャラバンを主な客としていた故郷とは違い、屋台が少なかった。建物から出る客、それを見送る店主。そういった光景はラクシュミナガルではあまり目にすることはなく、リヤは目を輝かせながら周囲を見渡していた。

「あんまり離れて歩くなよ。スリにでも遭ったらどうするんだ」

「もう、子供じゃないんだから大丈夫よ。それに“そういうこと”はあなたのほうが気付きやすいでしょ」

 パン屋だろうか、開かれた窓から香ばしい香りが漂ってくる。誘われるように窓を覗き込みながら、リヤがくすりと笑う。彼女はサイが盗賊であることを忌避するよりも、むしろ彼の才能だと認識しているようだった。

「お腹空かない? ここのパン、すっごく美味しそうよ」

 無邪気な顔のリヤに、サイはこくりと頷いた。

(この街のことを思い出せてよかった)

 オアシスの街へ訪れるきっかけは、サイがかつてキャラバンから奪った地図の存在を思い出したからだった。彼らは砂漠を横断するためにラクシュミナガルを通り、サイとその仲間たちに襲われた。そのときに偶然サイが入手した地図は、彼が抱いていた街の外への興味を更に掻き立てたのだが、それは今割愛すべきだろう。とにかく、サイは地図を手に入れた経緯は伏せつつも次の目的地をこの街にするのはどうかとリヤに提案し、彼女も目的地について悩んでいたのでちょうどいいと快諾したのだった。

 昼時だからか、パン屋の中はかなりの人で溢れていた。棚にはいくつものパンが並べられていて、どれも手作りなのか少しずつ形は違うが魅力的だった。商品を乗せるためのトレーを手にしているリヤは既に何を買うか迷っている。それをちらりと横目で確認してから、サイは人々の様子を目で追いかけ始めた。

 会計をするためのカウンターには客が並んでいる。店主はせっせと仕事をしているのか、はつらつとした声だけが聞こえてくる。カウンターの奥には厨房があり、そこでは従業員がこちらに背を向けてパンを捏ねているのが客の間から窺えた。

(ふむ……)

 近くの客は品物を選ぶことと、人と人の間を通ることに意識を向けていて、サイが何をしようとしているのか気付いていない。これはチャンスだと、彼は心の内で笑みを浮かべた。

(まずはこれだな)

 長い間、盗むことで生活をしていた彼にとって、この行為は手癖のようなものだった。パンを選ぶフリをしながら、片手で掴める大きさのパンに手を伸ばす。あと少しで掴めるといったタイミングで、サイの頭に声が響いた。

「何をしているのですか」

(……チッ)

 聞こえてきたのは穏やかな声――ラクシュミーのものだった。そういえば彼女という存在がいたなと思い出したサイは、忌々しそうに手を引っ込める。

「今、品物を盗もうとしましたね?」

(だったらなんだ?)

「然るべき対価を払う手段があるというのに、何故しないのです。今のあなたは日々の飢えに苦しむ盗賊ではないのですよ」

(あー、はいはい。神様の仰るとおりですよ)

「丹精込めて作った料理を盗まれる悲しみを想像してごらんなさい。あなたのせいでこの店を閉じることになったら、どう責任を取るのですか?」

 諭すように語りかけてくるラクシュミーに不快感を隠そうともせず、サイは適当に返事を返す。彼女が何を言いたいのか理解できないわけではないが、それ以上に明らかな軽蔑を含んだ声が気に入らなかった。

「だいたいあなたは手癖が悪すぎます! なんでもすぐに盗もうとするのは直さなければなりませんね……」

(あんた、俺の親か何かか? 神様なら何十人、何百人って人間を見てきただろ。俺みたいなのは山ほどいただろうに、全員にこんなこと言ってたのかよ)

「話を逸らそうとしても無駄ですよ」

(はぁ……)

 この神は話が通じるのか通じないのか分からない。諦めたサイは大きくため息をついた。ちょうどその直後、トレーにパンを積んだリヤが歩いてきた。彼女はサイがまだパンを選んでいると思ったのか、少しだけ呆れたように笑っていた。

「あら、まだ決めてなかったの? お金なら私が払うわよ。一応あなたの雇い主だし」

「……じゃあ、遠慮なく選ばせてもらう」

(太っ腹なのか、後先を考えずに言ってるのか。まあ、腹が膨れればいいか)

 結局、サイは盗もうとしていたパンと、隣に並べられていたベーコンと野菜を挟んだサンドイッチを掴み、トレーへと乗せるのだった。


 店を出ると、先ほどリヤが覗いていた窓に小さな子供がしがみついていた。子供はみすぼらしい、汚れた身なりをしており、サイはすぐに乞食なのだろうと気が付いた。ああいう者に関わると面倒なことになるとサイは目を逸らして歩こうとするが、リヤはそうならなかった。彼女は不思議そうに子供を見つめているのだ。

「おい、行くぞ」

「え、ええ。でも……」

 リヤの意識を子供から逸らそうとする。しかし、それより先に子供は彼女の視線に気付いてしまった。

「おっ、お姉ちゃんっ……その、えっと……」

 駆け足でリヤの目の前へと近付いた子供は、彼女の抱えている袋をチラチラと見上げながら口を開く。期待と不安が入り交じった小さな顔は泥で汚れていて、かつてラクシュミナガルの闇に暮らしていた自分を思い出したサイは顔を顰める。何を求めているかなど誰が見ても分かることだろう。サイはリヤと子供の間に割り入ると、敵意を込めた瞳で物乞いを睨んだ。

「悪いがお前にやるものはない」

「っ……」

 子供がびくりと体を縮こめる。

「何かを求めるなら、何かを欲しいと思ったなら。自分の力で手に入れることだな」

「サイ! なんてことを言うのですか。救いを求める者に恵みを分け与えることこそ、正しき行いですよ」

(あんたには関係ないだろ。腹が減るわけじゃないんだからな)

 ラクシュミーが驚きの声をあげるのを聞き流し、サイは改めて目の前の子供を見る。細い手は満足な食事ができていないことを示している。まるで昔の自分を見ているようだった。

 空腹に世界がぐるぐると回る中、必死の思いでひとかけらの食料を手に入れた幼い頃の記憶が頭をよぎる。物乞いしたところで手を差し伸べる者はいない――一度手を差し伸べれば一生寄生されるか、自分も道連れになるかのどちらかだということを、サイは痛いほど理解していた。

「子供だからって理由で恵んで貰えると思うな。世界はそんなに生易しいものじゃない」

「う、うぅっ……」

 今にも泣き出しそうな顔で、子供は地面へと顔を向ける。痩せ細った両手を握りしめている哀れな乞食は、目の前にある温かなパンにありつくこともできず、絶望に心を蝕まれているのだろう。だがそれはサイにとって関係のないことだった。弱いままでいる者はそのまま飢えて死ぬだけなのだ。

 だが、彼女はそう考えていないようだった。リヤはサイの横を通り抜けると袋の中へと手を突っ込み、その中からいくつかパンを取り出したのだ。どれも彼女が選んだものであり、サイは思わず目を見開く。それは子供も同じだったようで、ぽかんとした表情でリヤを見つめていた。

「はい、これ。持っていくといいわ」

「え、えっ……いいの……?」

「もちろん」

 にこりと微笑むリヤの手に、薄汚れた手が伸びる。子供の目線はサイへ向けられることはなく、ただ目の前の食料に釘付けだった。

「あっ、ありがとう、ございます……っ!」

 子供の手がパンの包みを握る。先ほどまでの不安そうな表情はどこへやら、彼は嬉しそうに笑みを浮かべている。乳歯が抜けたばかりなのか、右の前歯がある位置は隙間が空いていた。

「お姉ちゃんが優しい人でよかった……」

「このぐらいどうってことないわ」

「……そっちのお兄ちゃんは、怖かった」

「ふん」

 リヤへ笑顔を向けていた子供は、サイを見ると瞬く間にその表情を曇らせる。物乞いからすれば、気前よく恵みをくれる人間は天使のように映るが、追い払ったり攻撃的な人間は鬼に見えるのだろう。サイもそれを分かっているのか、腕を組んで口を閉じていた。

「そ、それじゃあ……あのっ、本当に、ありがとうっ」

 くしゃり、とパンの包み紙が乱れる。細い腕にパンを抱え、子供はリヤへと頭を下げると一直線に路地へと消えていった。それを見送るリヤの表情は穏やかで、自分の昼食をほとんど失ったことを気にも留めていないようだった。

 子供の姿が見えなくなると、リヤはくるりとサイのほうを振り向く。澄んだ赤紫の瞳で彼を見つめ、彼女は少しだけ困ったように笑った。

「すごく不機嫌な顔をしているわね」

「そうか」

 リヤの言うとおり、サイの胸には苛立ちや戸惑い、そして豊かな者だからこそできる行いへの嫌悪が渦巻いていた。貧しく、日々の暮らしはいつも苦しみか危険が付きまとっていた自分とは違い、リヤは両親に愛され、毎日清潔な衣服を身に着けて暮らしている。決して埋まることのない溝を感じ、彼は顔をしかめずにはいられなかった。

「あの子がいたほうの路地。あそこの影に、痩せた女の人がいたの。きっと母親でしょうね」

 彼女の言葉の続きをサイはじっと待つ。彼女が何を考えているのか知りたくなったのだ。サイは路地に女が隠れていることを知っていた。そして、あの物乞いの母親であることもなんとなく感付いていた。しかし、彼はパンを恵むことはしなかった。どうしてリヤは自分の分が減ると分かっていて、恵む気になったのか。サイの中で疑問が浮かんでは消えていく。

「もしも私がパンを渡さなければ、あの子は今夜死んでしまうかもしれない。今日を生き延びることができなかったら、明日掴めるはずだった幸運を逃してしまうことになる。そう思わない?」

「……その幸運が明日あるかも分からないだろ」

「確かにそうね。でも、それって明日が来なければ分からないことでしょ? だったら明日を迎えたほうがずっといいことだと思うわ」

 それに、と付け加えながらリヤは袋の中に手を入れ、サイの選んだパンを取り出した。

「あくまであの子に分けたのは私のぶんだけだから、あなたは何も損をしてないでしょ? そんなに気にすることないわよ」

「はあ……理解できないな」

「そう? 私はお腹が膨れるのもいいけど、心が満たされるのも素敵だと思ってるの」

「それじゃ腹は満たされないだろ。感情だけじゃ飢えはしのげない」

「サイってば、現実主義者なんだから。そんなに張り詰めていたら、いつか限界が来るわよ」

 屈託のない笑みを浮かべるリヤに、彼は言葉を返せなかった。何かを言おうとすれば、きっと言葉がナイフのように鋭く、刺々しいものになってしまう気がしたのだ。豊かで満たされた生活を送っている彼女と、荒み危険な世界を生きていた自分では、何か超えられない壁があると感じられた。

(……俺みたいな盗賊と、権力者の娘じゃ考えることが違いすぎるのかもな)

 パンを受け取りながらサイは頭を振る。彼女の考えを、サイにはどうしても偽善者としか思えなかった。今日を生きられるかも分からない子供にたった一度食事を分けたところで環境が変わるわけではない。確かにリヤの言うように明日あの子供や母親に奇跡が起こるかもしれないが、そんなこと誰にも分からないだろう。

 一口、パンを囓る。口の中に広がる小麦の香りと僅かな甘みは、過去に彼が死に物狂いで手に入れたものと同じ味をしていた。危険を冒さずとも腹を満たすことができると暗に告げられているようであり、サイは自身の立場を改めて思い知るのだった。


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