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第9話

 サイには姉がいた。元々踊り子をしていて、歓楽街の店主を務める、賢い姉だった。幼い頃は彼女のおかげで不自由なく暮らすことができていたが、ある日突然姉は姿を消してしまう。それ以来、サイは生きるために盗みを働くようになり、今の盗賊仲間と出会ったのだ。

「あなたが指輪の力を正しく使えるか、確かめるために指輪を通じて記憶を少し見たのです」

「ふざけるなよ……人の記憶を、勝手に見るな」

 怒りを露わにするサイに対し、ラクシュミーは言葉を紡ぎ続ける。既に決まっていることを淡々と口にするように、彼女はサイの運命を教えた。

「サイ、あなたは正しい心を持っています。あなたこそ、世界を救うに相応しいでしょう」

「勝手に決めるな」

「いいえ、これは逃れようのない運命なのです。そしてリヤ、あなたも」

「えっ……?」

 少女――リヤは、突然自分の名を呼ばれたことに驚いていた。

「立派に成長しましたね、リヤ。祖母によく似て、強く美しくなりました」

「おばあ様を知っているんですか? やっぱり、“彼女”って……!」

 じわりと浮かんだ涙を拭い、リヤは顔を上げる。彼女は嬉しそうに、それでいてどこか悲しそうに笑い、指輪とそれを身に着けているサイを見つめた。

「その指輪は、私のおばあ様が身に着けていたものなの。おばあ様は指輪と一緒に世界中を旅したと言っていたわ」

「じゃあこれは、形見ってことか」

「ええ。……そしていつか、私もおばあ様のように世界中を巡りたいと思っていたわ。本や話で知るだけじゃだめなの。直接見て、知りたいの!」

 だから、とリヤはサイに向けて手を伸ばす。

「お願い、手伝って。あなたが世界を救う人なら、私も連れていってほしいの」

「おい、待て。別に俺は行くと決めたわけじゃない」

「報酬もありったけ支払うわ。私がお父様とお母様にお願いして、あなたやあなたのお友達が盗みなんてしなくてもいいようにする。だから、お願い」

 懇願するように見つめられて断ることなど、サイにはできなかった。それに彼女は報酬を約束した。自分や仲間が飢えに苦しむことがなくなるというのなら、悪くはないのかもしれないとさえ考え始めている。だが、それ以上に彼の意思を固めていたのは、ラクシュミーの言葉だった。

(世界中を回れば、姉さんに会えるかもしれない。もう一度、姉さんに会いたい)

「……分かったよ」

 差し出されていた手を握り返し、サイは頷いた。するとそれまでの表情から一変し、リヤはぱあっと満面の笑みを浮かべる。彼の手を両手で握り、これからの冒険を想像して瞳を輝かせていた。

「本当!? 私はリヤ。これからよろしくね!」

「俺はサイ。報酬を期待してるぞ」

 握手を交わしていた2人だったが、ここが屋敷の庭園であることを思い出してお互いに手を離した。そして、リヤは改めてまじまじとサイの姿を見て、次第に表情を険しくさせていく。彼女には潔癖なところがあった。先ほどは世界を冒険できる喜びでつい握手をしてしまったが、路地裏で暮らしているサイの身なりは、決して綺麗と呼べるものではないことに気付いたのだ。

「あなた、臭いわね」

「正直に言うなよ。仕方ないだろ、風呂なんて滅多に入れないんだから」

「……まずは体を綺麗にしないといけないわね。こっちに来て」

「あ、あぁ」

 リヤに案内され、サイは浴室へと連れられる。途中で従者らしい人物がサイの姿を見て驚いていたが、リヤの「新しい用心棒だからすぐに服を綺麗にしてほしい」という声に戸惑いながらも了承し、今ではせっせと彼の服を洗っていた。

 サイは半ば強引に身ぐるみを剥がされ、浴室へと放り込まれていた。広々とした浴室には石鹸や体を洗うための布が置かれていて、そのどれもが普段の生活からは想像できないほど清潔だった。

(綺麗な水で体を洗ったのって、いつが最後だったか)

 石鹸を泡立て、布で全身を擦りながらサイは過去に思いを馳せる。姉がいた頃は、店の風呂場を使って体を洗ってもらったものだ。甘い香りの石鹸を手に塗りたくり、指で輪を作って息を吹きかけて泡を飛ばす遊びが好きだったサイに「風邪を引くから遊びはほどほどに」と笑っていた姉を思い出し、彼はくすりと笑った。

(姉さん、絶対に見つけてみせるからな。待っていてくれ)

 水で泡を流しながら、サイは改めて決意する。世界を巡り、姉を見つけ出すことが、旅の目的の大半を占めていた。

 浴室から出ると、柔らかな布や替えの服が置かれていた。体の水気を拭き取ってからそっと腕を通してみると、なめらかな感触が肌を撫でていく。貴族は普段こんなものを着ているのかと驚くと同時に、サイは普段身に着けている動きやすさを重視した軽装とは違う布の多い服に苦戦を強いられた。

 服を着終えてすぐ、リヤがひょっこりと顔を出す。

「着終わった? ふふ、中々似合ってるわよ」

「動きにくいったらない。俺の服はどうした?」

「さっき洗い終わったから、干しているとこよ。今日は泊まっていくといいわ。どうせ部屋も空いているし、お父様に事情を話さないといけないから」

「は? ちょっと、待ってくれよ」

 困惑するサイをよそに、リヤはてきぱきと事を進めていった。彼女は帰宅した両親にサイを紹介し、彼が自分専属の用心棒であること、彼と共に旅に出ることを告げた。普通なら一人娘の突然の申し出に驚き、危険だからやめるように説得するだろうが、両親の反応は意外なものだった。

「そうか……お前もそんな歳になったのだな」

「あなたはおばあ様に似て、活発だからいつかこうなると思っていたわ」

 彼らはリヤが祖母と彼女の話す冒険譚を愛していることを知っている。そして、リヤがラクシュミナガルの外を旅したいということも薄々感付いていたのだ。

「サイ、というんだね。どうか娘を頼むよ」

「私からもお願いするわ。何か困ったことがあれば、いつでも支援をするから安心してちょうだい」

「……分かりました。娘さんの身は、俺が守ります」

「さあ、では娘の旅立ちを祝って、祝宴をあげよう」

「あなたも食べていきなさい。旅の前に、腹ごしらえをしないと」

 両親に顔を合わせるだけのはずが、気付けばサイは食卓を囲むことになっていた。次々に運ばれてくる料理はどれも豪華で、そして新鮮なものばかり。普段は盗んだ食材をそのまま食べているサイにとって、湯気がほわほわと昇る温かな料理は久しく、彼は数々の品に舌鼓をうつのだった。


 翌日、サイはリヤの両親から水や食料と、1頭の馬を受け取った。足が太く、力強く歩くことのできる馬は長旅にはもってこいだろうと彼女の父親が選んだもので、その上にはリヤが乗っている。そして馬の手綱を握っているのはサイだ。丁寧に洗われた服にはほつれている箇所がいくつかあったが、いつの間にか修繕され、ベルトも一新されている。懐のナイフは研ぎ直され、硬い樹皮でもすっぱりと切断できそうなほどだ。

「じゃあ、お父様、お母様。いってきます」

「気を付けるんだよ」

「きっといい旅になるわ。帰ってきたら、たくさん話を聞かせてちょうだいね」

 ゆっくりと馬が歩き始める。2人の背中を両親はいつまでも見送っていた。

 屋敷を出て、表通りを進んでいく。通りすぎる人々はリヤの美しさを称賛し、彼女が旅立つことを祝っていた。リヤは住民やキャラバンへ笑みを向け、軽く手を振っていたがサイの目線は路地裏へと向けられていた。薄暗い路地の奥にはちらちらと人影が見える。見慣れた顔もいくつかあったが、彼らは変わらず獲物を狙っていて、サイには気付いていないようだった。

「とうとう街の外に出たわ! 私たちの冒険が、これから始まるのね」

「あんまりはしゃいでると、盗賊に目を付けられるぞ」

「分かってるわ。けれど、街の外なんて初めてだから、つい」

 街の入り口である門を抜け、高く聳える壁を振り返りながらリヤが笑う。それを窘めるサイだったが、彼の表情もどこか期待に満ち溢れていた。

「世界にはどんな景色が広がっているんだろうな」

「あら、サイだって気になってるじゃない」

「そりゃあそうさ。俺も街から出たことはなかったからな」

 これから起こるであろう冒険の数々に、2人は胸を膨らませている。神々の残した秘宝を手に入れるための長い旅路は、まだ一歩目を踏み出したばかりだった。


 砂漠を進む少年と少女を、遠くから見つめる人影があった。炎のように揺らめく長髪を結び、口元には愉悦の笑みを浮かべている。

「指輪は得られなかったが、まあいいさ・・・・・・精々楽しませてくれよ。ラクシュミーに認められた人間!」

 邪悪な笑い声が砂漠に響くと同時に、砂が風に巻き上げられ、漆黒のマントがばさばさとなびく。

 風が止む頃には、男の姿はどこにも見えなくなっていた。


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