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第8話

「遙か昔のことです」

 何者かによって掻き混ぜられるように、水面に波紋が広がる。蓮華がぷかぷかと揺れ、透明だった水面に景色が浮かび始める。緑色の大地に、真っ白な宮殿、そこではたくさんの人間が穏やかに暮らしている。彼らは作物を籠に載せ、誰かに捧げているようだった。石造りの椅子に座る人物は、顔こそ見えなかったが人々からの捧げ物に喜んでいるように見えた。

(うわ、こいつの腕輪、よく見たら純金か? 今のうちに盗めないかな。売れば焼きたての肉が腹一杯食えるぞ)

「世界には、神がいました……って、聞いているのですか?」

 水面に映る景色――ではなく、それを見つめる少女の腕へとサイの目線は向けられていた。それに気付いたラクシュミーは思わず彼をいさめるが、サイ本人は全く気にしていないようだった。

「あ? 悪い、なんの話だっけ」

「もう! これからラクシュミー様が大切なお話をしてくれるところなのに!」

「はあ。それって俺に関係あるのか?」

「大ありよ!」

「大ありです!」

「はいはい……分かったよ」

 少女とラクシュミーに叱られ、サイは渋々水面を見つめることにした。

「おほんっ。とにかく、世界には神がいたのです。秩序を司る神、四季を司る神……地の底で死者の魂を裁き、悪人には罰を与える神」

 波紋に合わせ、映る景色は変わっていく。

 緑が生い茂る中を、純白の布を纏った人影が歩いている。金色の腕輪をつけた腕を大地に向けて掲げると、たちまち白い花が咲き乱れていく。花はやがて果実となり、人間は喜んで収穫を始めた。

 水の涸れた池の周りで、人間が祈りを捧げている。すると池のあった場所に光が降り注ぎ、ひとりでに水が湧きだした。人々は感謝のあまり歌い踊り、池の縁に家畜を捧げていた。

 サイは映る景色に目を奪われていた。砂と太陽の街であるラクシュミナガルしか知らない彼は、世界の外側には緑が広がっていることに驚いていた。同時に、これが過去のものであるということもうっすらと理解しつつあった。

「私は豊穣や美しさを司る神として、人々に信仰されていました」

 水面が揺れる。女神像と同じ姿の人物――ラクシュミーが、人間に手を差し伸べている。酷い怪我の傷跡に悲しんでいるらしい人間の手がラクシュミーと重なると、みるみるうちに傷跡が消えていくのが見えた。

「そして、神だけではなく、魔物もいたのです」

 場面が一転し、別の人間が巨大な獣に襲われている姿が水面に映る。獣は顔は狼に似ていたが、背中には蝙蝠の翼が生えていた。あれが魔物なのだろうかと驚く2人の前で、逃げ惑う人々に獣の爪が振り下ろされる。思わず顔を背けた少女に対し、サイは黙って水面を見つめていた。

「私たち神は、人々を脅かす魔物を封じたり、人々に魔物を倒す力を授けたりすることで彼らを退けていました」

 振り下ろされた魔物の腕は、光り輝く剣によって押さえつけられている。勇ましい表情の青年が、魔物と戦っている。やがて剣が魔物の体を貫くと、襲われていた人々は歓喜の表情を浮かべて青年を称え始めた。

 人間と、人間を襲う魔物。そして、人間を守り知恵や力を授ける神。それらによって世界は成り立っていたのだとラクシュミーは語った。しかし、彼女の声は次第に曇っていく。

「しかし……1人の神によって、世界のバランスは崩壊してしまいました」

 ごぽり、と水面に泡が浮かぶ。穏やかな水の流れを自分勝手に壊すように水面で弾けた泡に、いくつかの蓮華が沈んでいくのが見えた。

「ロキという神がいました。彼は悪意に満ちた、恐ろしい神でした」

 次から次へと浮いてくる泡が起こす波に、それまでの景色は掻き消されていく。代わりに映るのは黒い髪を揺らめかせた男の姿。にんまりと口元に邪悪な笑みを浮かべている男の背後で、いくつもの火柱が上がっていた。

「彼は言葉巧みに神々と魔物を煽り、終わらない戦いを引き起こしたのです」

 うねる大波の上に、屈強な体格の男が立っている。激しい嵐の中で彼が身に着けている衣服はばさばさと揺れていた。男の右手には巨大な槍が握られており、いつでも強力なひと突きを放てるように腕は掲げられている。

 ひときわ大きな波が飛沫を撒き散らした瞬間、男は波の中へ槍を突き立てた。耳をつんざく咆哮が波を揺らし、大地が削り取られていく。彼らの戦いは地形を変えるほどに熾烈を極めるものだった。

「この戦いに勝者はいませんでした。戦に長けた神はもちろん、魔物もそのほとんどが滅んでしまいました」

 水面が揺れ、景色が変わる。次に映ったのは、荒れ果てた大地だった。激しい雷雨に晒され原形を留めないほど崩壊した城。燃え盛る炎に飲み込まれて木の1本すら生えていない、広大な大地。人々はかつてのように神々を崇め、豊かな生活を送ることはなく、ただただ絶望と悲しみを顔に浮かべていた。

「私の夫、ヴィシュヌも地上を守るために戦いへ赴きました。そして、魔物と相打ちになり消滅してしまったのです」

 ラクシュミーの声に悲しみが混じる。灰色の分厚い雲に太陽を遮られ、薄暗くなった池の中心で俯くラクシュミーの姿が水面で朧気に揺れていた。

「そして私も、魔物との戦いで肉体を失いました。しかし、私は黙って消えるわけにはいかなかった」

 水面に映るラクシュミーの姿が金色の光に包まれる。花が散るように彼女の体は崩れていく。しかし、その表情は悲しみを抱きながらも強い意志をたたえていた。

 光が空へ散ってしまうと、池には一輪の蓮華と、その上に金色の指輪が残された。その指輪こそが、サイが身に着けているものだった。

「私はこの戦いを……神魔大戦と呼ばれるようになった、この恐ろしい悲劇を……ロキが引き起こしたのだと考えています。彼のような者でない限り、こんなにも残酷な企てはしないでしょう」

 苦しむ人々と、滅びかけた世界が水面に広がっている。神と魔物は相打ちとなり、巨大な骸や戦の傷跡だけが無常に残されていた。サイがちらりと目線を向けると、少女は驚きと恐怖に硬直し、両手は胸の前で硬く握られている。

「……世界には、私のように自身の力を秘宝へ変えた神がいます」

 荒廃した世界の景色が次々に浮かぶ。茶色く濁った海、絶えず雷鳴が響く大穴、他者の侵入を拒むようにそびえ立つ高い塔。光に包まれて消えていく神々らしき人影と、彼らがいた場所に残された小さな輝き。ラクシュミーが言う秘宝とは、あの輝きに包まれているものなのだろう。

「ロキは戦いを生き延びている。そして、ロキは神々の秘宝を探しています」

 先ほどまで浮かんでいた蓮華は、全て水の中へ沈んでしまっていた。映っていた景色も全て消えてしまい、水面は静かに揺れているだけだ。

「ロキよりも先に、秘宝を手に入れるのです。悪しき者が秘宝の力を使えば、世界には再び災いが起るでしょう」

 ラクシュミーの声が響く。彼女だけの力ではどうすることもできないのだという意思が、サイと少女に伝わってくる。

「この世界にはもう、戦える神はいません。世界を守れるのは、正しい心を持った人間しかないのです」

 視界が再び光に飲み込まれる。瞬きすれば、水面の広がる世界から屋敷の庭園へと戻っていた。

「で、俺にその正しい心があると思ってるのか? あんたは」

 ため息をつきながらサイは吐き捨てる。どういった基準で選んでいるのかは分からないが、盗賊である自分に正しい心などあるはずがない。それに、大昔の秘宝など胡散臭いことこの上ない。少女へと返すために指輪を外そうとする彼に、ラクシュミーは静かに告げた。少女はもちろん、仲間にさえ告げたことのない秘密を、女神はいとも簡単に暴いてしまった。

「姉の行方を知りたくはないのですか?」

 彼女の言葉にサイの動きが止まる。心が酷くざわめいて、冷静な思考が消えていく。困惑と怒りが混ざり合い、彼の口からは絞り出すように低い声が漏れた。

「なんで、あんたが……それを知ってるんだ……!」

 幼い頃の記憶が蘇る。もう二度と戻れない、穏やかだった日々を無理矢理掘り返されるような屈辱がサイを襲う。ぶわりと頭の中を埋め尽くす景色の中で、1人の女が彼へ向けて手を伸ばす。

「なんで、姉さんのことを……!」

 忘れもしない、姉との思い出。思わず吐き出した声は、自分でも驚くほど刺々しいものだった。


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