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第7話

 薄い雲が空に広がっている。快晴と呼ぶには少し物足りない日差しの中を、サイはマントを羽織り歩いていた。目的地は少女の住む屋敷。今は昼を過ぎた時間であり、人々は腹を満たして眠気に誘われているだろう。その証拠に屋敷の周辺には人はおらず、用心棒たちも休んでいるのか見当たらない。忍び込むなら今しかないと、サイは昨夜侵入した場所と同じ、庭園に繋がる塀へと足をかける。

 仲間たちには何も言わなかった。彼らは記憶を失っているのだから、無理に巻き込む必要はないと考えたのだ。それに指輪を持ち帰ってきたと知られれば、自分だけ抜け駆けをしたと思われるかもしれない。仲間との

信頼関係を重んじるサイにとって、仲間との諍いは何よりも避けたいものだった。

「よっ、と」

 体を持ち上げてくれる仲間はいないが、サイには大した問題ではない。用意しておいた頑丈な木の板を壁に立てかけ、坂道を作れば簡易的ではあるが足場になる。彼は勢いを付けて板の坂道を上り、飛び上がって塀の屋根を掴む。両腕の力で体を引き上げ、両脚は壁を蹴る。多少の手間と労力はかかるものの、身軽なサイにとってはこの程度の塀は難なく越えてしまえる。更に、背の高い木々が生えている場所から侵入することで姿を見られる心配がないことも計算済みだった。

 すとん、と土の上に着地したサイは、すぐに茂みに身を隠しながら周囲を見渡す。鳥の声が時折聞こえてくる以外は静かで、巨体を思い出す重たい足音や武器の擦れる音、人の話し声も聞こえない。ひとまずは安全だと判断した彼は、本来の目的のため進むことにした。

 誰にも気付かれないように地下室へ忍び込み、こっそりと指輪を元の位置に戻す。それがサイの目的だった。少女に出会えるという確証はないが、彼女は指輪を大切にしているようだった。ならばあの女神像の手に指輪を戻しておけば、真っ先に彼女が気付くだろうと考えたのだ。

 人が来ないうちに、さっさと地下室へ行こう。サイは息を潜めて茂みの向こうにあるテラスへと足を踏み出そうとする。しかし、彼はすぐに体を引っ込めた。何者かが近付いてくる気配がしたのだ。

 地面に触れる寸前まで体を屈め、息を殺す。茂みの隙間から向こう側を見つめ、いつでも逃げられるように両脚の筋肉は緊張していた。もしも用心棒であれば非常に面倒なことになる。懐にはナイフがあるが、人を殺めるようなことはしたくない。1人や2人程度であれば、気絶させ、その間に逃げることはできるだろう。頭の中で策を練る彼の視界に、人影が映った。

(あれは、昨日の少女か)

 サイの予想に反し、庭へ出てきたのは少女だった。深緑の髪を風になびかせながら、昨日とは違うクリーム色の服を纏っている。散歩でもするために出てきたのかとサイは静かに少女を観察するが、彼女はきょろきょろと周囲を見渡していた。なるべく早く屋敷を去りたい彼にとって、彼女の挙動は厄介なものだった。これでは茂みから出ることも、再び塀を乗り越えることも叶わない。

(あの様子……もしかして)

 暫く彼女を観察していたサイは、とあることに気付く。少女は庭園の中でも特に人が隠れるような場所をうろついているのだ。まるで誰かを探しているような様子に、サイは試しに彼女にしか聞こえないほど小さな声で呼びかけた。

「おい」

「きゃっ! ……その声、昨日の盗賊さんね?」

 突然の声に少女は一瞬だけ驚くも、すぐに声のする方角へと歩いてくる。昨夜も感じたことだったが、少女は物怖じせず、勘も中々に優れている。サイは内心彼女を褒めてやりながら、茂みから体を出すことなく再び口を開いた。

「指輪を返しにきた」

「本当? よかった……」

 少女の声には安堵が込められていた。サイの予想どおり、彼女は指輪をとても大切にしているようだった。だが、サイは指輪を引き抜くことなく、少女に疑問を投げかける。昨晩からずっと考えていたことだ。

「1つ、質問がある」

「何かしら」

「お前、昨日のことを覚えているな」

 指輪を嵌め、地下室を光が包んだ直後、少女はサイに「助けてくれた」と言っていた。仲間たちは自分たちが何をしていたのか覚えていなかったというのに、彼女の記憶は改竄されていない。更に、彼女はサイが指輪を返すと言ったとき、まるで指輪を持っているのが彼だと知っているような素振りを見せた。何故彼女と自分だけが覚えているのか知りたい。サイの好奇心が、疑問となって渦巻いていた。

「えっと、それは……私にもよく分からないの。気付いたらあなたの仲間が呆然としていて……それまでの態度が嘘だったみたいに大人しくなっていたわよね?」

 少女は昨夜の記憶を思い出しているのか首を傾げ、サイと同じような疑問を抱いているようだった。だが彼女はサイのように指輪から声が聞こえたわけでも、光の中に女神の姿を見たわけでもないようだ。奇妙な共通点にサイの疑念は深まるばかりで、彼は組み立てていた仮説が崩れつつあるのを感じていた。

(指輪を嵌めていた俺の記憶が残っているのは理解できる。だが……彼女の記憶が消されていないのは何故だ?)

「――それは私が教えましょう」

 聞こえてきた声に、サイは指輪を見る。少女の声ではない。昨日と同じ、穏やかな女の声が彼の頭の中に響いていた。

 だが、声に反応したのはサイだけではなかった。

「こ、この声……もしかして、ラクシュミー様!?」

「お前にも聞こえるのか……!?」

 驚きに目を見開く少女にサイは思わず尋ねていた。自分にしか聞こえないと思っていた声は、彼女にも聞こえている。新たな共通点にますます謎が深まるばかりだったが、サイの疑問を既に知っていたかのように声は語り始めた。

「ええ、私はラクシュミー。そちらの人の子は知らなくとも無理はないでしょう」

「あの女神像はあんたなのか?」

「そのとおり。今は意思と力を指輪へと宿していますが、かつてはあの姿をしていました」

 サイは女神像の姿を思い出していた。蓮華に乗った、柔らかな布を身に纏う神秘的な女神。あれがかつてのラクシュミーなのだろう。光の中で感じたあの奇妙な納得は、やはり本物だったのだ。

「どうして今は指輪になってるんだ」

「それには――これを見せた方が早いでしょう」

 ラクシュミーがそう言うと、指輪が光を放ち始める。陽の光を一瞬浴びたような、目映い白で視界が塗り潰されていく。サイは思わず左手で目を隠した。少女もまた、眩しそうに顔を覆っていた。

 白い光は2人を包む。閉じたはずの瞼に、サイはあの女神の姿が映ったような気がした。


「な、んだよ、ここは……」

「えっ……?」

 目を開けた2人の前に広がっていたのは、屋敷の庭園ではなかった。

 黄金の光が空から柔らかく降り注いでいる空間には砂漠の砂でも柔らかな草でもない、透き通った水が広がっている。水面には赤い蓮華がいくつか浮かび、花弁を縁取る水滴がきらきらと光を反射していた。暖かな陽の光に照らされた、静かな世界。街から出たことのないサイには空想することしかできなかったが、彼はいつか読んだ本に描かれていた湖を思い出していた。2人は蓮華と同じように水面に浮かんでいる。

 不思議な世界だったが、恐怖は感じない。むしろ心地がよく、精神が穏やかになるような感覚さえあった。

 現実の世界とは思えない景色にきょろきょろと周囲を見渡す2人に、ラクシュミーが語りかける。

「今からあなたたちに伝えるのは、世界が荒れ果てた原因となる争い」

 水面が僅かに波打つ。揺れる蓮華が、彼らの足元で踊っている。

「神と魔物による、長きにわたり続いた悲しみの戦……神魔大戦のことです」


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