よく研がれた刃が振り下ろされる。横に転がることで辛うじて刃を躱すことができたが、その一撃は彼の脳天を躊躇うことなく狙っていた。
「本気で殺す気じゃねえか……! っふざけるな!」
「当然だろ!」
床に深々と突き刺さった刃を視界の端に捉えながらサイは仲間たちへ向けて叫ぶ。しかし、返ってきたのは謝罪の言葉ではなく、別の仲間が投げつけてきた装飾品だった。
「うわっ!」
(あいつら、自分たちが盗みきれないからって……!)
サイの横を通りすぎ、壁にぶつかった宝石が粉々に砕け散る。降り注ぐ破片を腕で振り払ったところへ放物線を描いて飛んでくる腕輪をマントで受け止め、彼は仲間を睨んだ。この腕輪ひとつでさえも、売り払えば何日も楽をして暮らせるだけの価値があるだろう。それを彼らは石でも投げるようにサイへとぶつけようとしているのだ。
仲間たちの袋は既に装飾品でいっぱいになっている。袋に入りきらなかった装飾品は、彼らにとって最早不要なものなのだ。黄金、革、宝石。サイからすれば垂涎ものの品物を掴んでは投げてくる仲間たちに悪態をつくサイの耳を、少女の声が貫いた。
「ちょっと! それはお父様とお母様の宝物よ! 乱暴に扱わないでよ!」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!」
少女に言い返しながら飛んできた黄金の腕輪は身をかがめて回避し、サイはすかさず足元に転がっていた首飾りを投げ返す。がしゃんと大きな音を立てて飾りが壊れると同時に、仲間と少女の怒号が響いた。
「お母様のお気に入りが……! あなたなんてことするのよ!?」
「やりやがったな!」
「そっちが先に襲ってきたんだろ! あとお前は黙ってろ! 今は命がかかってんだよ!」
振り下ろされる刃を冠で受け止め、真横へ腕を振るいながら相手の腹部を蹴り飛ばす。よろめいた仲間に巻き込まれて色鮮やかな布がびりびりと破れた。
宝石が、美しい装飾品が、次々に飛び交っては壊れていく。仲間の刃が腹部を狙って突き出されると同時に、別の方角から何かが投げつけられる。既に仲間を宥めるという選択肢はなくなっていた。何かに操られているように襲いかかってくる彼らを大人しくさせるには意識を奪うしかないだろうということは分かっている。だが、彼にはそれができない理由があった。
(くそ……! さすがに数が多すぎる!)
どれだけ仲間を押しのけても、すぐに別の仲間が武器を振り上げ、壊れた装飾品を投げつけようとする。サイ1人では、4人を相手にするのは不可能だった。
「サイ、お前この女が相当大事らしいなあ?」
「そんなわけあるか。一般人だから巻き込みたくないだけだ」
「なんてこと言うのよ! 嘘でも助けたいって言いなさいよ!」
「はあ……」
それに加え、彼らは少女を人質にとっている。もしも自分たちが不利になれば迷わず彼女へ危害を加えるだろうことは明白だ。確かに彼女を守ることで得られる利益はない。しかし、関係のない人間が傷つく必要はないとサイの正義感が訴えていた。
「だんだん動きが鈍くなってきたなあ?」
「ぐっ……!」
サイの冷静さを信頼していたはずの仲間が、にやにやと悪意に満ちた笑みを浮かべながら彼の腕にナイフを振り下ろした。咄嗟に後退したサイだったが腕に走る鋭い痛みに顔を顰める。見れば、腕には一筋の傷がついていた。
「このまま痛めつけてやる!」
「や、やめてっ……!」
「うるせえ、お前は黙ってろ! いひひっ、お前は高値で売るんだから傷物にはしたくねえんだよ」
腕の傷に気を取られたサイへ次々と物が投げつけられ、仲間たちが群がり始める。これから起こるであろう惨状を予期したのか、少女は悲痛な声をあげていた。
「このっ……! お前ら、本当にっ……どうしたんだよっ……!」
「ようし、この指輪は俺のもんだ。あとはお前を始末すればおしまいだ!」
傷つき、動きが鈍るサイの前で女神像から指輪が奪われる。歪んだ笑みを浮かべている年上の仲間を睨むと、彼はサイの方を見下ろして勝ち誇ったように指輪を見せつけた。
「なんだあ? こいつが欲しいのか?」
「ゆ、指輪を返してっ! それは、おばあ様の……!」
「必死になりやがって、どうせ取り返せやしないんだ。大人しくしてな」
指輪が奪われたことに気付いた少女が、瞳に涙を浮かべて叫ぶ。仲間たちはそれを嘲りながら、サイを痛めつけていく。いつの間にか、少女の首元にはナイフが突きつけられていた。
よろめきながら刃を躱すが、逃げた先には別の凶器が向けられている。少しずつ傷つきながら、サイは怒りが燃え始めるのを感じていた。少女の怯える顔を、仲間たちの悪に染まりきった顔を見ていると、諦めてはいけないという気持ちが胸を駆け巡っていく。
自分たちは盗賊だ。だが、今まで人を殺したことはない。誰かの命を奪ってしまったら、自分たちは本当の悪へ成り下がってしまうと思っていた。だが、仲間たちは禁忌を犯そうとしている。
(こいつらを、止めないと……! 絶対に人殺しになんか、させてたまるか……!)
彼の心を燃やす義憤に呼応するように、どこからか声が聞こえてくる。
「人の子よ。あなたに全てが託されています」
(なんなんだよさっきから!)
頭に響く声に応えるように、怒りを込めて心の中で呟く。だが声はただただ静かに、まるでサイの心を、精神を見透かしているかのように告げる。
「指輪を嵌めなさい。あなたならば私の――ラクシュミーの力を使うことができるはず」
(指輪? たかが指輪に何ができるんだよ)
「時間はありません。早くしないと、彼女もあなたの仲間も救えなくなってしまう。悪しき力に飲み込まれてしまう!」
静止画となった世界に、少女と仲間たちの姿が映っている。怯えた表情の少女が指輪を持つ仲間に向けて必死に手を伸ばしている。それを押さえつけ、彼らは下劣な笑みを浮かべている。彼女の首元目がけてナイフが振り上げられる。少女の顔が悲しみと絶望に染まる。もう考えている暇はなかった。
(ああ、クソッ……!)
このままではかつての仲間が失われてしまう。ひとかけらのパンですら分け合った仲間の笑顔が、もう二度と見られなくなってしまう。
影に生きる盗賊としての彼らは消えてなくなり、暴力と欲望に支配された人間になってしまう。
それは嫌だ、とサイは声にならない声で叫んだ。そして、ありったけの力を振り絞ると、指輪を少女へ見せつけている仲間へ向けて突進した。
(よく分からないが、やってやる!)
「なっ……!」
「お前、どこにそんな力が残って……!?」
仲間たちが驚く声がする。指輪を取り返そうと伸びてくる手を振り払い、無我夢中で掴んだ指輪を右手の中指へと嵌める。最初からサイの手に合わせて作られていたのかと思うほど、指輪はぴったりと彼の指に収まった。
黄金の指輪は、彼が装着するのを待っていたようだった。肌になじむ感触にサイが驚く間もなく、蓮華の宝石は強く輝き始める。光は瞬く間にサイや仲間たちを飲み込んで、地下室を真昼のように照らした。
光に埋め尽くされた彼の視界に、蓮華の蕾がひとつ浮かび上がった。真っ赤なそれは長い間開くことなく、じっと息を潜めていたのだと、サイは無意識に感じ取っていた。やがて蕾はゆっくりと開き始める。色付いた花弁の隙間から黄金色の光が溢れ出し、空間にほろほろと溢れていく。
(これは……あの、女神像か……?)
指輪を手に乗せ、微笑を浮かべていた女神像と同じ姿をした人影が、光の中に立っているのが見える。風もないのに揺らめく布を纏い、蓮華を手にした女神がサイを見つめている。彼女の瞳の奥には、真っ赤な蓮華が花開いていた。彼女は人間ではない――人間よりもずっと高位の存在だ。サイは本能的に理解した。彼女はまさに、象られていた女神そのものなのだと。
「悪よ……ロキの使いよ! ここを去りなさい!」
静かな水面に雫が広がるように、声が光と共に広がっていく。ぎゃああ、と何かが悲鳴をあげる。姿は見えなかったが、サイは悲鳴をあげた何かが一目散に逃げていくのを感じた。