(あいつら、様子が変だ)
小さな違和感が、大きな棘となってサイの胸で渦巻いている。収穫に喜ぶ仲間の姿は何度も見たことがある。想像以上に金が手に入ったときも、濁っていない水を頭から浴びたときも、サイと仲間たちは感情を共有してきた。だがこれは、違っている。サイだけが取り残されているような、その逆のような――不可解な感情が、彼の思考をせき止めている。
そして、指輪が女神像の手から離れる寸前。サイは、またしても指輪が光るのを見た。
(……?)
ランプの明かりは、盗人の手に遮られて指輪まで届くはずはない。だというのに、指輪は自分自身が発光しているように、赤い光をちらちらと放っていた。
(指輪が、なんで……勝手に……?)
何かがおかしい、そう感じた瞬間、サイの視界に映る世界が動きを止めた。
「――人の子よ」
同時に彼の頭に声が響く。女の声だった。
(声? 空耳か?)
穏やかな声がサイの中に響き渡る。繰り返し、サイを呼んでいる。サイは自分の耳がおかしくなったのかと思い、小指を耳へと突っ込んだ。
「人の子よ――聞きなさい――」
(違う、空耳じゃない……頭に直接、聞こえてくるみたいだ)
耳を塞いでいるというのに、声はゆっくりと彼の頭に反響する。不可思議な現象に困惑する彼をよそに、聞こえてくる声は鮮明になっていく。
「この指輪は、悪の手に渡ってはいけないのです。正しい心の持ち主に渡らなくてはいけないのです」
(正しい心? 盗っ人に正しい心なんてあるか?)
はっきりと、声は告げる。何が起きているのか分からないが、声の主は恐らく焦っているのだと、サイはうっすらと感じていた。だが彼が言葉を返そうとするも、声は聞こえなくなってしまった。
「……おい、サイ?」
仲間たちに呼ばれ、サイは目を瞬かせる。サイが声を聞いていたのは現実では一瞬のことだったらしく、指輪は掴まれる寸前のままだった。いよいよ自分がおかしくなってしまったのかもしれないと彼は軽く頭を振り、先ほどの声を忘れようとする。
仲間たちには女の声が聞こえなかったのか、皆不思議そうな顔をしてサイの顔を覗き込んでいた。
「ぼーっとしてるから腹でも減ってるのかと思ったぜ」
「それも今日までだぞ。ほら、これだけ盗めば一生楽して暮らせそうだ!」
「あとはこの指輪を持っていけば終わりだからな。さっさと例の男に渡しちまおうぜ!」
「ああ、そうだな……」
聞こえた声など、やはり空耳だったのだろう。そう自分に言い聞かせ、サイは頷いた。仲間たちは彼の反応に満足すると、指輪の方へ目線を向ける。金持ちになったら何をしようかなどと話をしながら彼らはにやにやと笑みを浮かべていた。
「……あなたたち、そこを動かないで!」
今度こそ指輪が奪われるといった瞬間。少女の声が地下室に響いた。
「お父様とお母様の宝物を盗もうとするだなんて!」
少女はサイたちを睨み、怒りを露わにしていたが指輪が盗まれそうなことに気付くと更にその表情を険しくさせた。
「それは……!」
小走りで女神像に近付こうとする彼女の腕を、仲間が掴む。余程指輪が大切なのか、少女は腕を振りほどこうと夢中になって暴れていた。だが、少女の腕力など日頃から動き回っている彼らからすれば幼子同然だった。
「離して! その指輪だけは、絶対に渡さないわ!」
「あぁ? なんだよ急に」
「大人しくしてろって。別にお前らを直接どうこうしようってわけじゃないんだ」
仲間たちは少女を取り押さえ、呆れたように呟く。しかし、彼らの表情は少しずつ変わり始める。新たな獲物を見つけたような、下品な笑みを浮かべ始めたのだ。
普段、サイたちは金品を盗むことはあれど、人を殺めたり不要な暴力を振るったりはしない。だが、今の仲間たちは明らかに違う様子だった。にやにやと歪んだ口元に、瞳は少しでも多くの享楽を得ようとする理性のなさを感じさせた。
「……こいつ、“砂漠の薔薇”かあ」
「噂には聞いてたけどよ、かなりの美人だなあ?」
「ひっ……!?」
少女の顔に恐怖の色が差す。仲間たちはそれを見て、ますます笑みを深くした。
「奴隷商人にでも売れば、いい金になりそうだ」
「どうせ盗みを見られたんだ。口封じついでに、売りさばいてやろう」
「お、おい! お前ら、何言ってるんだ!?」
思わず叫んだサイを、仲間たちはぎらついた目で睨む。明らかに何かがおかしくなっていると、サイの直感が訴えていた。
異常が起きている中で唯一サイがまともであることに気付いたのか、少女は縋るように彼を見る。両腕は仲間たちに掴まれ、柔らかな衣服はくしゃくしゃに乱れている。このまま見て見ぬふりをすれば、彼女を犠牲に莫大な金が手に入るだろう。だが、サイは彼女が売り払われる姿を見たくなかった。
「た、助けてっ……! お願い……!」
少女が震える声で訴えかけてくる。恐怖で今にも泣き出しそうになりながら、指輪を守ろうと身をよじり、おぞましい腕から逃れようとしている。
「なあ、別にそいつは関係ないんだ。放っておけばいいだろ?」
サイは思わずそう口にしていた。正直なところ、少女など放っておいて手に入れた装飾品を依頼主に渡した方が手っ取り早いと思っていたのだ。しかし、仲間たちはそうではなかった。
「あぁ? サイ、何言ってんだよ。こいつは俺らの顔を見たんだぞ?」
「そうだそうだ。それに、こいつを売ればもっと金が手に入ると思わないか?」
じろりとサイを睨み付ける視線には、「黙って協力しろ」という圧力が込められている。サイは彼らの様子がおかしいことにますます疑念が強まるのを感じていた。普段の仲間たちなら、絶対にこんなことは言わないのだ。
「だからって奴隷にすることはないだろ。むしろ、俺たちがそいつを売ったってバレる方が危険じゃないか」
「そんなわけあるか! こいつは大金になるんだ!」
説得しようと試みるも、仲間たちは目を見開き、唾を飛ばしながらサイへ怒鳴りつける。今まで見たことがないほどに怒り狂う彼らにたじろぐサイに追い打ちをかけるように、仲間たちは口々に叫んだ。
「どうせならこの家の人間を全員殺しちまおう! それで、食い物も奪うんだ!」
「身ぐるみ全部剥いで、金も根こそぎ俺らのものにすることの何が悪いんだよ!」
「おい……! さっきから一体どうしたんだよ! そんな考え、今まで一度もなかったじゃないか!」
次々に飛び交う恐ろしい考えごと遮るように、サイはありったけの声で叫んだ。すると仲間たちは口を閉じ、しばらくの間黙り込む。しんと静まりかえった地下室に、恐ろしく冷えた声が響いた。
「ああ、そうか……サイ、お前裏切り者なんだな」
ぞっとするほど低い仲間の声に、サイは全身の皮膚が粟立つのを感じた。彼らは皆、サイを敵かのように睨んでいる。キャラバンから物資を奪うときでさえしたことがないような、恐ろしく、鋭いもの――殺意を込めて、彼らは仲間であるはずのサイに向けて口を開く。
「そもそも、お前だけ先にこの部屋にいたのがおかしいんだ」
「抜け駆けして、金を独り占めするつもりだったんだな!」
「違う! 本当に偶然だったんだよ!」
「嘘をつくな! この裏切り者!」
「裏切り者め」
「俺たちを騙したのか」
裏切り者、裏切り者、裏切り者。彼らはうわごとのように同じ言葉を繰り返す。腕を掴まれている少女は心底怯えた表情を浮かべていて、カタカタと体を震わせていた。
仲間の誰かが懐から刃物を取り出した。ぎらりと光を反射して、刃がサイの方へ向けられる。彼らは間違いなく自分を敵として見ていると、サイは全身で感じ取ってしまう。苦楽をともにした仲間からの敵意に、彼は戸惑うばかりだった。
「殺してやる!」
「そうだ! 裏切り者には死を!」
「宝もこの女も、俺たちのものだ!」
怒りに満ちた叫び声とともに、仲間たちはサイへと襲いかかる。もう、戦いは避けられなかった。