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第3話

 どれほど走り続けただろうか。

 いつの間にか、廊下にはサイ以外誰もいなくなっていた。巨体の用心棒はサイが俊敏な身のこなしで逃げ続けたこともあって、他の仲間を捕らえるべく彼を諦めていた。ぜえぜえと息を荒らげながらひとまずは助かったことを理解し、サイは壁にもたれて心臓の鼓動を落ち着かせようとする。夜の冷えた空気が喉を通り、火照った体を少しずつ冷ましていくのが分かった。

「あいつらは……どこまで逃げたんだ……?」

 呼吸を整え、サイは汗を拭いながら歩き始める。先ほどまでの騒ぎなどなかったかのように静かな廊下は、まるで自分が別世界に来てしまったかのような錯覚を抱かせた。

「ここは……屋敷の奥か?」

 役に立たなくなった地図を頭の中で破り捨て、彼は周囲を警戒しながら進んでいく。壁を伝って歩けばいつかは出口に辿り着くだろうと、彼は左手を壁に這わせていた。

 廊下を進んでから暫くすると、サイは壁に沿わせている指先に凹みを感じた。何かをぶつけた傷だろうか、そう思って歩き続けようとした彼を引き留めるように、壁の向こうからがこん、と音が響く。。

「なっ……!?」

 罠だ、そう思ったサイは慌てて壁から手を離そうとするが、彼を巻き込むようにして壁は回転を始める。壁の窪みをスイッチとして、回転する扉のように壁の一部を動かす仕掛けは、サイを壁の向こう――隠された部屋へと飲み込んだ。

 ぴったりと閉じられた壁はそこに彼がいたという痕跡も、壁が動くという仕掛けの存在すらも感じさせない。


 くるりと回ったそれは、彼が元の生活に戻れないことを意味しているようだった。


「うわっ、と……!」

 半ば強引に背中を押されたサイは、目の前の階段を転がり落ちるように降りていく。背後から聞こえるずずう、という音は壁の仕掛けが止まった音なのだろう。振り返れば入り口はただの壁となっていて、夜の闇とは違う、明かりの存在しない闇が薄く立ち塞がっていた。

 地下室とでも呼ぶべき部屋は、どこかに通気口でもあるのか思っていたより空気は淀んでいなかった。サイは体に付着した砂埃を軽く払い、壁に手をついて再び歩き始める。地下室から脱出することも視野に入れつつ、彼はこういった隠された部屋にこそ金品があると予測した。

 予想どおり、仕掛けで隠されていた地下室には装飾品が多数並べられていた。枝を伸ばす枯れ木のような台には宝石が連なるネックレスが垂れている。色鮮やかなそれらは、木に実る果実のように見えた。また、壁には色をつけたガラスで作られたランプが埋め込まれていて、地上よりもどこか明るく感じられる。そして、ランプから放たれる淡い光を反射して宝飾品がきらきらと輝くさまは、まさに宝物庫だった。

(これを盗んでこいってことだったのか)

 サイの脳裏にあの怪しげな男の言葉が蘇る。ここにある装飾品はどれも傷やくすみがなく、誰が見ても価値の高いものだと思うだろう。「盗んできた分だけ報酬を支払う」と男が言っていたのも頷けると、サイは内心納得して懐から大きな袋を取り出した。

 頑丈に編まれた麻の袋は、一度に大量の品物を盗むときに便利だった。サイはひとまず地下室をぐるりと見回り、より高価なものはないか探し始める。指先で触れると蕩けるようになめらかな生地をしている布、金を加工して作った、真っ赤な宝石が鮮やかに輝く冠。どれも売れば数ヶ月は盗みをせずに暮らせるだろうことは想像に難くない。

 あの男はどれだけの報酬を支払うのだろうか。サイは考える。危険な仕事だと相手も分かっているだろうから、報酬の増額を求めても問題はないだろう。いくつかの装飾品はあえて男に引き渡すことなく、自分で行商人に売りつけてもいいかもしれない。彼の頭をぐるぐると欲望が駆け巡り始める。

(おいおいおい、宝の山じゃないか! 全部俺のものだ、これで俺も金持ちになれる!)

 どす黒い欲が、少しずつサイの中で存在を主張し始める。

(そうだ、仲間を呼んで、ありったけの品物を盗んでやろう。この家の貴族がどうなろうと関係ない。どうせ余るほど金を持ってるに違いないさ)

 誰かに唆されているかのように、サイは欲にぎらついた目で装飾品を見渡す。冷静に獲物を見定める彼には似つかわしくない、目先の享楽に後先も考えないといった様子はまさに悪逆非道の盗賊だ。サイは自分がどれだけ恐ろしい顔をしているのか分からないまま、黄金や宝石で飾られた装飾品を見回した。。

「――そうさ、そうさ。ぜーんぶ盗んでしまおうじゃないか。ひひひっ、金を独り占めしている貴族から奪うんだ、なんにも悪いことじゃないだろう?」

(その通り。俺は正しいことをしているんだ。金を奪うのは当然の権利だ!)

 サイの頭の中で、誰かが囁いている。欲望に染まってしまえと、全てを奪い尽くせと愉快そうに笑っている。彼の堕落を望んでいるように、悪意に満ちた声がサイを動かしていた。

「君は金持ちになるんだよ。全部君のものだ!」

「ああ、そうだ……俺は金持ちになる。全部全部俺が手に入れてやるんだ」

 湧き上がる欲に、サイはぶつぶつと独り言を呟いていた。ぎらついた目はかつての冷静さなどなくなっている。そして、底なしの欲望に、青年の心が飲み込まれてしまう寸前――。

 ふと、サイの視界にきらりと光るものが映る。ごく小さな光だったが、欲を駆り立てる声から意識を逸らすには十分だった。

「あれ、俺は……」

 サイの中で囁いていた恐ろしい欲望が、あっという間に消えていく。冷静さを取り戻したサイは、光がどこから見えたのかきょろきょろと辺りを見回した。

「女神像……か?」

 彼の視線は、美しい女神像でぴたりと止まる。。蓮の花に乗っている女神は、サイよりも頭1つほど高い位置から彼を見下ろしている。

 石を彫って作られたらしい女神像には、鉱石で着色が施されている。彼女が乗っている蓮華は鮮やかな深紅で、纏っている布も同じ色をしているが、裾の部分には金が塗られていた。よく見れば足元には硬貨が散らばっており、この女神が金にまつわる何かを象徴しているのだと窺える。

(光ったのはこれか。ランプの光を反射したのか?)

 こちらを手招きするように手の平を上へ向けている女神の右手には、淡い紫色の布が乗せられている。質感からして像の一部ではなく、本物の布だ。その上に置かれている金でできた指輪が光の正体だった。

 指輪の表面には女神が乗っているものと同じ蓮華の模様が彫り込まれている。どういった技術で作られたのか想像もつかないほど美しい模様の上には赤い宝石が埋まっていた。金の池に、宝石の蓮華が浮かんでいるような、神秘的な指輪にサイは目を奪われる。

(間違いない。男が言っていた指輪はこれだ)

 サイの直感が告げている。男は装飾品の中でも指輪を盗んでくるようにと言っていた。彼が目的としているのはこれなのだろう。女神像の手に乗せられた美しくも神秘を秘めたそれは、値段がつけられないほどに高価なものに見えるのだ。

 布ごと盗んでしまおうと、サイは女神の手へと自身の手を伸ばす。その瞬間、地下室の奥から声が聞こえてきた。

「誰?」

「――!」

 指輪に触れる寸前だった手を引っ込め、声の主を見る。

(まずいな。彼女は……)

 長い深緑色の髪を緩く結んだ少女は、サイを見て眉を顰めていた。赤みがかった紫色の瞳は、ランプの光に照らされて宝石のようにきらめいていたが、その奥には見慣れない青年に対する不信感と警戒心が見え隠れしている。彼女こそ、この屋敷に住まう一人娘、“砂漠の薔薇”だった。

「あなた、見たことない顔ね」

 白く透き通る肌に負けないぐらいに白い、汚れのない絹の服を揺らめかせながら少女は尋ねる。手首には金の腕輪が2つ嵌められ、彼女の動きに合わせてきらりきらりと光を反射していた。

「……実は、今日から雇われたばかりの用心棒でして」

(彼女に盗賊だとバレたら面倒だ……誤魔化すぞ)

 少女の腕輪をこっそりと値踏みしながら、サイは頭を下げる。盗めそうなものはとりあえず値踏みする、サイの癖だった。

「お嬢様はご存じありませんか。今、盗賊が屋敷に侵入してきたのです」

「大変……お父様やお母様は無事なの!?」

「いけません!」

 地上へ戻ろうとする少女を、サイは慌てて呼び止める。今外へ出られたら自分の存在が本物の用心棒にバレてしまうだろう。品物を盗むかは後回しにして、今は彼女を再び地下室の奥へ戻すことが優先だった。

「上は危険です。ですから、ここの奥で隠れていてください」

「でも……」

「大丈夫です。私が確認して参りますから、お嬢様はできるだけ人目につかない場所にいてください」

「……分かったわ」

 少女はサイの言葉を信じたのか、言われたとおりに部屋の奥に歩いていく。彼女の姿が見えなくなると、サイは品定めを再開する。ちょうどそこへ、地下室に繋がる壁が動く低い音が聞こえてきた。

(まずい、用心棒か!?)

 サイはいつでも身を隠せるように神経を張り巡らせる。しかし、彼はすぐに警戒を解いた。

「おっ、なんだこの部屋!」

 階段を降りてくる複数人の足音と、聞き慣れた声。仲間たちの声だ。

「あ、サイじゃねえか。お前無事だったんだな」

 彼らはサイの姿に気付くと安堵の笑みを浮かべた。サイもまた仲間が無事であったことにほっとするが、危うい状況であることは変わらない。彼は仲間たちとの再会を喜びつつ、改めて現状の把握をすることにした。

「お前ら、用心棒を撒いたのか?」

「ああ、そうだよ。危ないところだったぜ、本当に」

 仲間たちが言うには、巨体の用心棒はサイを追いかけて見えなくなって以来鉢合わせすることはなかったという。更に、庭園の木々に身を隠すことで他の用心棒も彼らを見失ったらしく、屋敷の外へ逃げたのではないかと勘違いして大勢で屋敷を出ていったようだ。

「サイだけがいないから、てっきり捕まったのかと思ったんだ」

「けどよ、用心棒の奴らは誰も捕まえられない、って言っててよお。じゃあサイはどこに行ったんだってなったんだよ」

「で、偶然壁の窪みに手を引っ掛けたら……こんな部屋があったなんてなあ!」

 嬉しそうに部屋を見渡し、仲間たちは声をあげる。彼らはずらりと並んだ美しい品々にすっかり心を奪われているようだった。

「しかしお前が一番乗りとはな。やっぱり頭の回転じゃあ勝てねえな」

「いいや、お前らと同じで俺も偶然ここを見つけたんだよ」

「へえ? まあいい、とにかくここの品物を片っ端から持っていこうぜ」

 サイが手をつけなかった装飾品を、仲間たちは躊躇うことなく掴み、袋の中へと放り投げていく。かしゃん、ちゃりん、と金属や宝石が擦れる音が聞こえるがお構いなしだ。今の彼らはただ報酬のことだけを考えており、少しでも金を稼ぐためにありったけの品物を掴んでは詰め込んでいくつもりだった。

 そういえば、とサイは少女の存在を思い出す。もう彼女に言い訳は通用しないだろうと諦めると同時に、サイの胸には彼女がここにいると気付かれたら厄介なことになるな、という不安がよぎる。一度襲撃すればその場限り、二度と会うことはないキャラバンとは違い、少女はこの街の住民だ。顔を覚えられていれば表通りでスリはできなくなるかもしれない。

 面倒事への不安に頭を悩ませていたサイだったが、仲間たちは財宝を選んではわいわいと騒いでいる。その中で、1人の仲間が声をあげた。

「見ろよ、この指輪!」

 彼らは一斉に像の元へ集い、じろじろとその細い指先で支えられた布と指輪を眺め始めた。

「これ、すっげえ綺麗だな」

「確か指輪を盗めって言われたんだよな?」

 蓮華の宝石から目を離すことなく、サイの先輩にあたる仲間が尋ねる。

「……ああ」

「よし、こいつも持っていくぞ」

 彼の手がゆっくりと指輪に近付く。自分が盗もうと、仲間が盗もうと報酬は山分けなのだ。サイは彼を止めることなく、布ごと指輪が掴まれようとするのを見ていた。

「像の手に乗せられた指輪。こいつは間違いなく価値がある……報酬が楽しみだ」

 にんまりと笑みを浮かべる彼の表情は、どこか違和感を覚えるものだった。欲望に目がくらんでいるような――サイ自身は知らなかったが、それは指輪の光で我に返る前のサイにとてもよく似ていた。


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