月明かりを避けるように、5人の影が身をかがめて歩いている。サイと、その仲間たちだ。
「君がサイ、だね?」
“収穫”の確認をするサイのもとを訪れたのは、漆黒のマントに身を包んだ背の高い男だった。身に纏う雰囲気からして、衛兵や先ほどのキャラバンの用心棒ではないことは分かる。であれば、可能性はひとつ――“同業者”だ。
明日を迎えられるかどうか怪しい者さえいるこの世界において、獲物の横取りは珍しいものではなかった。自分が生き延びるだけで精一杯なのだ。他の者に施しをするつもりはない。そういった意味を込めて、サイは口を開く。
「……誰だ? このくそ暑い砂漠で黒いマントだなんて、よっぽどのアホだな」
「ああ、そんなに睨まないでくれよ。私はただ、君の盗みを見ていただけだからさ!」
路地裏の奥から出てきたというのにマントには砂がひとつも付いていない。それに、男はサイに気付かれることなく声をかけられるほと近くまで忍び寄っている。かなりの手練れだとしたら敵対するのは面倒だ。警戒は解かないまま、サイは男に尋ねる。自分を衛兵にでも突き出し、金をもらうつもりなのか、と。
「まさか! それをしても私にはなんの利益もない。むしろ、私は君に感動しているんだよ」
フードを深く被っている男の顔は見えない。だが声が、男が笑っていることを表している。明らかに胡散臭い、怪しい雰囲気に眉を顰めるサイの目線を気にすることなく、男は話を続ける。
「そこでね、是非私からの依頼を受けてほしいんだ」
「依頼?」
「とある屋敷から装飾品を盗むのさ。君みたいな賢い盗賊なら簡単だろう?」
「おだてたって依頼を受けるとは限らないぞ」
「まあまあ。この辺りで最も大きな屋敷……ほら、分かるだろう? 貴族の屋敷だ」
「あんな場所から盗めっていうのか?」
男の口から告げられた依頼の内容に、サイは驚いた。彼が言う屋敷には、ラクシュミナガルでも強い権力を持つ貴族が住んでいるのだ。あまりに危険すぎるが、弱音を吐けば相手に侮られることを知っているサイは、あえて男の意図を確かめるように尋ねる。
「……それほどまでに欲しい品物があるのか」
「詳しくは言えない。けれど報酬は弾むよ。君と、君の仲間たちで忍び込んでくれてかまわない」
「仲間の分も報酬をくれるのか。随分太っ腹なんだな」
「装飾品、特に指輪を盗んでくればそれだけ支払うよ。是非たくさん盗んできておくれ!」
「……」
裏の世界で暮らす中で、サイはある程度の繋がりを維持することの大切さを学んでいた。情報と報酬を共有する代わりに危険な場所で知恵と力を合わせて仕事をする仲間がいる心強さは、理不尽な世界において何よりも重要だった。繋がりのない人間には冷酷なサイだったが、共に過ごす仲間に対しての情は人一倍厚い。そして、彼は今考えている。この依頼を受ければ、仲間と温かな食事にありつけるかもしれない、と。
「分かった。その依頼を受けよう」
「そうかい! それはよかった。契約成立だ」
非常に危険な依頼ではある。だが、自分と仲間であればこなせるだろう。いわゆるプライドのような、この男に自分たちの腕を見せつけてやりたいような、そんな気持ちがサイの胸で燃えていた。男はサイが了承するのを見るとにんまりと笑った。顔が見えたわけではないが、何故か男が口元を歪めているような気がしたのだ。
「ではまた後日。君たちが仕事を終えた頃に会おうじゃないか」
そう言うと男はサイの前を通り、人で溢れた表通りへと歩いていく。酷く目立つはずの漆黒のマントは、人々から見えていないかのように一瞥もされないまま、人の波の中へ消えていった。
「にしても、その男って本当に変わってるな」
「盗んだ分だけ報酬を払うだなんて、俺たちが山ほど盗んできたらどうするつもりなんだろうな?」
マントの人物からの依頼を聞いた仲間は、皆大きな仕事に喜んだ。屋敷の用心棒や忍び込めそうな場所を調べ、翌日の夜――つまり今夜には盗みを決行することにした。
漆喰で塗り固められた大きな屋敷は、暗闇の中にぼうっと白い姿を浮かび上がらせている。飲食店や夜の店で騒いでいた人々もすっかり眠りに就き、辺りはしんと静かだ。見張りが近付いてくる足音や、自分たちが立てる音はきっと昼間よりも大きく響くだろう。少しの物音も聞き逃すまいと周囲を警戒しながら、サイは屋敷を囲んでいる塀を指さした。
最後に足音が聞こえたのは数分前。屋敷をぐるりと歩いている見張りが戻ってくるまでに仲間と共に塀を乗り越え、中へ忍び込まなければならないが、彼らは十分に作戦を練っていた。
まず最初に塀を登るのはサイだった。2人の仲間が彼の足首を持ち、上へと持ち上げる。サイが持ち上げられた勢いを利用して塀の屋根を掴むのを確認すると、仲間は足首から手を離す。漆喰の壁を裸足で踏んでいけば、簡単に塀をよじ登ることができるのだ。
この方法であと2人仲間を持ち上げてから、足場の役目をしていた仲間をロープで引き上げる。彼らが屋敷の敷地に侵入すると同時に、塀の向こうから複数人の足音が聞こえてきた。
「気付かれていないな?」
「ああ。問題ないぜ」
サイたちが降り立ったのは屋敷の庭園で、木々に紛れて彼らの姿は簡単には見つけられないだろう。土で足音も消えるため、彼らは侵入と脱出は庭園で行うことにしていた。
緩い風が吹き抜ける。僅かに揺れる木々につられ、サイは屋敷を見上げた。
ラクシュミナガルに住む者で、この屋敷に誰がいるか知らない者はいないだろう。都市の政治を支え、他の権力ある貴族とともに人々の生活や秩序のあり方について日々議論を交わしている父親。貧しい人々に手を差し伸べ、食事だけではなく仕事まで探してやる、慈善活動家として有名な母親。そして、砂漠という太陽から逃れられない土地にいながら白い肌を持つ“砂漠の薔薇”と呼ばれる美しい娘。彼らは皆善良な人間であり、そして富める者たちであった。
「どうした、サイ。早くいくぞ」
仲間の1人が待ちきれないといった様子でサイに話しかける。サイは屋敷とその向こうに見える黒い空から目線を戻すと、次の目的地へと歩き始めた。
貴族らしく、屋敷にはバルコニーやテラスがある。今回侵入に用いるのは、庭園からほど近いテラスだった。
「やっぱり開いてるな。へへっ、お貴族様は警戒心が緩いぜ」
「あまり気を緩めるんじゃないぞ」
テラスに繋がる数段の階段とも呼べない段差を登り、仲間が呟く。にやにやと笑みを浮かべている姿からは依頼の報酬について考えているのが見て取れた。
「分かってるって。でも、盗めば盗む分だけ金をくれるんだろう? よっぽどこの屋敷に恨みでもあるのかねえ」
「さあ? 俺らには関係ないさ。金がもらえりゃいい!」
「ま、これだけ裕福な家なんだ。さぞかし豪華な品物があるんだろう」
「お前ら。屋敷の中に入るぞ。サイの言うとおり、ちゃんと周囲を警戒しておけ」
サイの横を歩いていた仲間が、他の仲間を注意する。彼は盗賊団の中でもサイの機知を調法していた。長いこと盗賊をやっているらしい彼は、サイに盗みの手順や狙いやすい獲物について教えてくれた、いわば先輩のようなものである。そんな彼の言葉に仲間たちも気を引き締めたのか、屋敷の廊下を歩く頃には目線が鋭くなっていた。
屋敷の中は広く、そして清潔だった。床はつるりとした石でできていて、足の裏にひんやりとした冷たさが広がる。ぺたり、ぺたりと小さな足音が薄暗い空間に響き渡っている。僅かな息遣いや物音に耳を傾け、それが自分たちの発するものであるか意識を向けながら、サイたちは装飾品を探した。
装飾品の保管場所がどこかまでは調べられなかったが、屋敷に侵入すれば何かしら見つかるだろうと彼らは考えている。屋敷の人間に気付かれないよう息と気配を殺して内部を歩き回り、頭の中に地図を描きながら進んでいく。どこの角を曲がってきたのか、どこの部屋を確認したのか、仲間たちはもちろんサイも無意識のうちに記憶していた。
暫く歩いていると、分厚い布が区切りとなって向こう側を遮っている部屋の前に辿り着いた。濃紺の布は暗闇にぼんやりとそのシルエットを浮かび上がらせていて、夜目のきく彼らでなければ気付かずにぶつかっていただろう。
「他の部屋と少し違うな」
「この向こうが金庫か?」
真夜中なこともあり、部屋に何があるかは見えない。屋敷の外観と内部の間取りを考えると、この部屋は屋敷の中央に近く、金のような資産よりも装飾品を置いておくには悪くない場所のように思えた。来客に集めた品物を自慢するため、見えやすい場所に美しい芸術品や宝石を置く貴族がそれなりにいることを彼らは知っている。
だからこそ、仲間は我慢ができなかったのかもしれない。
1人の仲間――屋敷に入った時点で浮かれていた者が、布を手で押しのけて中へ入ろうとした。もったりとした布を持ち上げ、体を半分ほど部屋の中へ忍ばせる。
その瞬間、甲高いベルの音が響いた。
「うわっ!?」
驚いた仲間が慌てて体を引っ込めるも、ベルの音は止まらない。狼狽えるばかりの彼らを焦らせるように、ベルはけたたましく鳴り響く。
布の折れ目には糸が隠されていた。侵入者が布を押しのけたり、切り裂こうとすれば糸に振動が伝わり、結ばれているベルを激しく揺らすのだ。罠だと気付いたときにはもう遅かった。すぐにいくつもの足音が凄まじい勢いで近付いてくる。
「クソッ、罠だ!」
「一旦逃げるぞ!」
焦りは禁物だと分かってはいるが、ぴんと張り詰めていた緊張の糸を掴まれてぐらぐらと揺すられるような非常事態に彼らはどたどたと足音を立てて走り出した。
「待てえ! 盗っ人め!」
「あっちに逃げたぞ! 追え!」
用心棒たちが棍棒や曲剣を携えて追いかけてくる。捕まれば最後、命の保証はないだろう。いくらこの屋敷に住む貴族が善良だとしても、自分に危害を加えかねない存在を野放しにするほど愚かではないだろう。サイたちはそれまで来た道を逆走する。怒鳴り声や武器がぶつかる音に心臓を掴まれるような思いをしながら、彼らは息を切らしてひたすらに逃げ続けた。
「おらあ! 捕まえたぞ!」
あと少しでテラスに辿り着くといったところで、曲がり角から用心棒が飛び出してきた。武器は持っていなかったが、サイや仲間たちの首など簡単にへし折れてしまうと思うほど巨大な体をしている男は、猛獣のように腕を振り回して彼らを襲う。
「っうわ……!」
丸太を彷彿とさせる腕が空気をなぎ払いながらサイめがけて振り下ろされる。間一髪で躱したものの、仲間たちは巨体に圧倒され、出鱈目な方向へと逃げ始めていた。これでは屋敷の中で散り散りになってしまう、そう焦るサイを再び太い腕が襲う。首根っこを掴もうとする手を身をかがめることで躱し、低い姿勢のまま床を蹴って走り出す。あの巨体ならばそこまで素早くはないだろうと推測し、サイは他の用心棒が追いつく前に他の部屋へと逃げることを選んだ。
後ろからどすん、どすんと足音が聞こえてくる。まるで迷宮で獲物を狙う怪物のようだった。頭の中の地図はもう役に立たない。さっきまで自分がどの辺りにいたのか、テラスはどこだったか、咄嗟に思い出すことはできなかった。
必死に走り続ける彼は、何かに引き寄せられるように屋敷の奥へと進んでいた。運命の歯車が回り始めていることに、まだ彼は気付いていなかった。