昔々、うんと昔……この世界には、神様がいたんだよ。
お空の上、雲には宮殿があって、世界の果てには枯れない花が咲く花畑があった。地の底かい? そうだねえ、きっといただろうさ。悪い人はそこで神様から裁判を受けるんだよ。だからよい子にしていることを忘れるんじゃないよ。……あぁ、そうさ、お前は本当によい子だよ。
世界にはね、神様だけじゃなくて、魔物もいたんだ。とっても強くて、恐ろしい魔物がね。本で読んだことがあるだろう? 大きな口で人間をぺろりと食べてしまう、怖い魔物さ。
ある日、神様と魔物はとっても大きな喧嘩をしたんだ。お互いのことが大嫌いになってしまったんだよ。元々神様も魔物も、お互いのことがそんなに好きじゃなかったけれど、喧嘩をするほどじゃなかったんだ。どうして喧嘩をしたかって? それは神様に聞いてみないと分からないねえ。でもね、神様も魔物も、長い長い喧嘩の末にいなくなってしまったんだ。
……さあ、この指輪をあげよう。
着けて見せておくれ……あぁ、思ったとおり。とても似合っている。それを大事に、大事にするんだよ。
お前は自慢の孫だよ、リヤ。おばあちゃんは、“彼女”と一緒に愛するお前をずっと見守っているからね――。
広大な砂漠の中心に、高い壁で囲われた都市がある。
砂漠を通過する者ならば一度は足を踏み入れる場所、それがラクシュミナガルだ。太陽が照りつける間、表通りにはずらりと品物が並び、朗らかな声が飛び交う。
「その果物は今朝仕入れたばかりなんだ。どうだい、瑞々しいだろう?」
木箱に並んだ果実をひとつ手に取って眺める男へ、商人がにっこりと笑みを浮かべる。真っ赤で、つるりとした表面は陽の光を浴びて輝いていた。
「ほう……色艶も悪くないな。よし。1つもらおう」
「毎度ありぃ!」
硬貨と果実が交換される。男は肩から掛けている袋へ果実をしまうと、商人に軽く手を上げて歩いていく。ぞろぞろと流れていく人の波に消えていく男の代わりにすぐ別の人影が果実を眺め始めた。
別の店からは香辛料の食欲をそそる香りが漂ってくる。ハーブをたっぷりとまぶし、燻製にした肉をナイフで切り分けながら体格のいい料理人が朗らかに声をあげた。
「さあさあ、できたての燻製だよ! こっちは乾燥肉に香りをつけたヤツさ!」
陽に当ててじっくりと感想させた肉は、長旅において心強い存在だろう。保存期間の長さはもちろん、旨味がぎゅっと詰まった肉を噛むことで満腹感も得られるのだ。キャラバンが多く通るこの街ならではの特産品として、ハーブの香りがついた肉料理は有名だった。
ラクシュミナガルには絶え間なく人が訪れる。品物は常に入れ替わり、活気は絶えない。だが、光があれば必ず影が生まれるように、この街にも暗がりと、そこで暮らす人々が存在するのだ。
「……」
表通りに面した建物の奥、その更に奥。賑わいから離れた場所から表通りをじっと見つめる人影があった。痩せた体に、細められた瞳。見るからに表の人間ではない青年は、空高くから獲物を狙う鷹のように、道を歩く人の顔、服装、仕草を観察している。この街の住民は当然、顔を見れば分かる。旅人がどんな生活を送っているかは、買う品物や荷物を見れば分かるのだ。
細い手足は不健康というよりも無駄な肉を落とし、俊敏に動くための最低限の筋肉をつけているようだ。体をすっぽりと覆うマントは砂嵐から身を守るだけではなく、砂と同化する保護色のような役割を持っている。そんな彼が探しているのは見慣れない顔をしていて、ある程度綺麗な格好をした、荷物の多い一団――キャラバンだ。
青年の名はサイ。盗賊である彼の名は、ラクシュミナガルの住民はもちろん、砂漠を旅するキャラバンの間にも知られていた。
「警備のために用心棒を大勢雇うより、あの盗賊に金を盗まれた方が被害が軽くて済む。どうせ用心棒を雇ったところで、サイの知恵には敵わないのだから」
知恵と機敏さにおいて特に恐れられている無慈悲な盗賊。それが、人々の知るサイだった。
人の波を眺めていたサイの目線が一点に注がれる。サイのいる路地裏に背を向け、屋台から乾燥肉と水、それから小麦の粉を購入していたキャラバンだ。
(……品物の数はそこそこ。ざっと見て、6,7人分はある。小麦を買うということは、火をおこす道具も持っているし、買った水の量からしても料理するだけの余裕があるな)
頭の中で素早く情報をまとめる。青く澄んだ瞳が獲物を見定めるようにきらりと光った。じりじりと日差しが強く降り注ぐ中であっても、彼の思考は落ち着いている。うだるような灼熱は、彼にとって慣れたものなのだ。
サイはキャラバンの服装を注視する。彼らの衣服は、旅をしてきた割には汚れが少ない。つまり、現地調達をしているか、使用人に命じて洗わせていのだ。そこから導き出せるのは、彼らはそれなりに金回りに余裕があるということ。
(よし)
砂色のマントで顔を隠し、大きな袋を背負ってサイは表通りへと出る。誰が見ても彼は流浪の旅人だ。その証拠に、賑やかな人の波を歩くサイに怪訝な目を向ける者はいなかった。
狙いを定めたキャラバンの後をつける。少しずつ距離を詰めていくと、彼らが何を話しているのか聞こえてきた。
「そういえば、この街には有名な盗賊がいるらしいぞ」
「ああ、サイって名前の奴だろ?」
「相当やり手らしいが、まあわしらは大丈夫じゃろう。これだけ大人数で動いているんだ、盗めるはずがない」
「むしろ捕まえれば賞金なんかがもらえるかもしれないな」
(馬鹿な奴らだ。俺の名を知っておきながら、警戒すらしていない)
振り向けばサイ本人がいるとは知らず、キャラバンは会話を続けている。こういった甘い考えを持つ者は決まって痛い目に遭うのだと、彼は経験から知っている。そして、痛い目に遭わせるのは自分なのだと彼は心の内でニヤリと笑みを浮かべた。
するりするりと人混みを通り抜け、彼は確実に獲物へ近付いていく。その間にもキャラバンの一行は屋台で品物を購入したり、逆に売りつけようとしていた。貝殻を磨き紐で繋いだブレスレットなどは特にこの地では珍しいもので、サイは虹色に輝く貝の美しさに少しだけ感嘆する。
(綺麗だ。俺には似合わないだろうが、姉さんなら……)
キャラバンとの距離は、貝殻の擦れるしゃりしゃりという音が聞こえるまで近くなっていた。サイは店主と会話をしている彼らを追い越すようにその後ろを歩く。
サイの手付きは蛇が水面を泳ぐように静かで、そして無駄のない動きだった。よく研いだ、ごく小さな刃を人差し指と中指の間に挟み、獲物が腰にぶら下げている金貨入りの袋の紐に宛がう。薬指と小指で気付かれない程度に袋を支えればあとは一瞬だ。
切れ味が悪ければ紐が千切れる音や感覚で気付かれてしまうだろう。だが、サイはそのようなミスはしない。最低限の指の動きで紐を断ち、そのままマントの中へ手を引っ込めてしまえば、誰も彼が袋を盗んだことは分からない。集団の中で最も外側に立っている、ひときわ警戒心の薄い者がまじまじと品物を眺めている隙に、彼の狩りは終わっていた。
「あ、あれっ? 俺の金貨がねえ!」
「どこかに落としたんじゃろう? まったく、気を抜いておるからだ」
「違う! 袋の紐ごとなくなってやがるんだ!」
「な、なに……!? まさか……!」
袋を盗まれたことに気付いた愚か者たちが慌てた様子で声をあげる。しかし、犯人を見つけることなど不可能だろう。とっくにサイは路地裏へと身を隠しているのだ。ましてやここは人で溢れている表通り。1人を疑えば、全員が怪しく見えてくる。結局彼らはサイによって金を盗まれたキャラバンとして、人々から哀れみの目線を向けられるのだった。
(さて、中身は……と)
路地裏に戻ったサイは、盗んだ袋を取り出して逆さまにし、中身を手のひらへと落とす。金貨の枚数を数え、頭の中で生活に必要な費用を計算する。
(おっ、これなら暫くは美味い飯が食えそうだ)
常に綱渡りのような生活を送る彼にとって久しぶりの貴重な収入は、恐らく数日は安心して暮らせるだろうと教えてくれた。安堵に表情が緩みかけたサイの耳を、軽やかな拍手の音が貫く。思わず顔を上げると、路地裏の奥からぬるりと影が姿を現すのが見えた。
「やあやあ、見つけたよ!」