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第42話

薄暗くてどんよりとした雲が空に広がっているけれど、ネージュの心はすっきりとしていた。心なしかヴェーガとフルスの毛並みが悪いような気もするけれど、それはきっと気のせいだろう。


「おはようございます、ジェラールさま」

「…あぁ、おはよう」

「なんだか、疲れてますね?」

「いや、そんなことはない。ネージュ、君は晴れやかな顔をしているな」

「フルスとヴェーガに付き合っていただいて、すっきりしたんです」

「…そうか」


ジェラールは苦笑いを浮かべながら、目頭を揉む。のちに聞いた話だが、レオと酒盛りをしていたらしい。寝るのが遅くなった、とのことだ。マルーニが朝食を並べる。それらは見たことのない果実で、この国特有の物なのだろう。


「ん、甘くて美味しい」

「でしょう。この時期は、この果物が一番美味しい時期ですよ」

「そうなのね」


ほどよい酸味もあるけれど、それを上回る甘さが口の中に広がる。いくらでも食べることが出来そうだった。


「また、この果物でお菓子を作りますね。好きなお菓子はありますか?」

「この国の伝統のお菓子が食べてみたいの」

「承知しました。美味しいものを作りますね」

「楽しみにしてます」


ジェラールは、目頭を揉むだけで口は開かなかった。きっとマルーニが話しかけてくれるのは、優しい気遣いなのだろう。それから言葉少なに朝食を食べて、馬車に乗り込む。馬車の中も、会話はなかった。


「着きました」


小さな窓からグンジが顔を覗かせる。馬車が止まり、王城に着いた。前に来た時よりも、王城の空気が引き締まっていて、どこか緊張感が漂っている。なんだろう、雰囲気が薄暗い。


王妃様が臥せっているからかな。国の象徴だものね、なにも不思議じゃない。にしても、私が治癒魔術師として、王城に上がるなんて。本当に、何があるか分からないものね。


「ネージュ、行こう」

「はい」


ジェラールが振り返り、ネージュを見る。すぐに前を向いたから、何よりも雄弁に語ってくれる蘇芳色の目をしっかりと見ることが出来なかった。幼馴染が病に臥せってるんだもの、とても心配してるのね。


「クロヴィス団長、クロヴィス夫人、陛下よりお伺いしています。案内いたします」

「ああ、頼む」


門の所で待っていた近衛が、目礼して先頭を切って歩く。綺麗なお城。前はしっかりと見ることが出来なかったけれど、今は違う。ネージュは視線を動かしながら、ジェラールの後ろをついて歩いた。


「着きました、此処です」


二人の近衛が護衛として入り口に立っている扉の前。ジェラールがノックをした後、足早に部屋に入っていくのをネージュは見ていた。足音を殺して、息を潜めながらネージュもついて入る。


大きな寝台に眠る、可憐な女性。そして治癒魔術を掛け続けている術者の姿。壁際には五人の侍女が控えていて、ネージュを見る目はとても厳しい。


「エルネスタ…。なんてことを」


ジェラールの悲痛に満ちた小さな呟きを聞いて、胸が痛んだような気がする。それを感じていないフリをすることまでは出来ず、ネージュはケープの下で手を握りしめた。爪が皮膚に突き刺さる痛みが、ネージュをしっかりと立たせた。少しだけ、ジェラールの背中が遠く見えた。


ジェラールがエルネスタを見たあと、傍に居た治癒魔術師に声を掛ける。


「容体は?」

「熱が下がらず、身体の痛みを訴えています。寝るたびに、悲鳴を上げて起きるのであまり休息を得ることが出来て居ません」

「…妻を連れて来た。ネージュ、診てもらえるか?」

「はい。失礼します」


ネージュが一歩を踏み出したあと、ガチャリと扉が開く音がする。


「ジェラール、ネージュ、来てくれたか…!」

「陛下」


息を切らして足音を鳴らしながら入って来たのは陛下で。一言二言ジェラールと話をした後、治癒魔術師が立つ反対側に陣取って、エルネスタの手を握った。


「ネージュ、診察は」

「今からです。あの、王妃様に触れることを許してくださいますか」

「ああ、許す」

「ありがとうございます。すみません、お手を」


治癒魔術師が退いて、ネージュに場所を開ける。ほっそりとして発疹が出ている腕は痛々しい。ネージュは、その手を取って深呼吸をした。そして、ゆっくりと自身の魔力を開放する。


――淡い白い光を伴う魔術陣が、エルネスタの下に現れた。


誰かが息を呑む音が聞こえて来るほど、部屋の中は静かだった。


「魔力の流れに異常はありません。魔力の枯渇も見られませんし、また気の巡りにも滞りなく。熱のためでしょうが、心臓の心拍同数が早いですね。しかし治癒魔術を掛け続けているため、少し抵抗力が落ちているのが気になります」

「抵抗力?それは命に関わるものか?」

「魔力に対する抵抗力というのは、他者から流される魔力から自分を守るための自衛能力です。これは、王妃様自身が回復すれば抵抗力も回復するので、治癒魔術の回数を減らすことをお勧めします」

「だが、治癒魔術の回数を減らせば、エルネスタは」

「本来、治癒魔術は一度に何度も使うものではありません」


誰の指示かは分からないけれど。一度に何度も継続して治癒魔術師をかけるのは、被術者であるエルネスタに負担がかかる。それはあえて口にしなかった。だって、治癒魔術師を全員クビにしかねないもの。


「眠れないと言うなら、眠れるようにまじないを掛ければ良いのです。悪夢を見ないほど、深い眠りに落とします。そして体力を一時的に回復させます。三日ほど昏睡状態となりますが、命に別状はありません。その間、こまめな給水をしてください。朝は砂糖を溶かした水を。それ以降は塩を溶かした水で様子を見ましょう」

「昏睡状態にして、エルネスタは無事に起きるのか?」

「――治癒魔術は、そういうことも可能にします。治すだけが治癒魔術ではありませんから。しかし、残念ですが王妃様の病は治癒魔術で治せるものではありません」

「は…?」


ネージュはエルネスタから手を離して、自身の白銀の髪を耳に掛けながら言う。魔法陣は展開し続けたまま、ネージュは俯いて思考を巡らせる。ジェラールの呟きと陛下の呟きが重なるのを、遠くに聞きながら、ネージュは顔を上げた。


「治癒魔術師と医者の違いってご存じですか?」

「魔術による治療と薬湯や医学に基づいた治療か?」

「そういう考えも出来ますね。ですが、治癒魔術というのは術者の魔力を使って、生命力を向上させて回復速度をあげたりするものです」

「どういうことだ?それが、なぜ、エルネスタは治せない」

「私が今展開しているのは、治癒魔術師の主たる魔術です。怪我や病があるなら、治す手助けができます。しかし、王妃様には‘治す’ところがないのです」

「治すところが、ない」


不思議な話であるが、そうなのだ。熱に浮かされ、身体の痛みに苦しんでいるというのに‘治す’ところがない。誰しもが困惑して、ネージュに注目をしている。


「しかし、これは明らか普通ではありません。こういった病が流行っているとも聞かないです。ならば、違う線を考えなければなりません」

「君には何が見えているんだ?」

「何も見えていません。見えていないから、困ってるんです。王妃様に今、何が起こっているのか。病なら、魔力や気の流れが滞っているものです。しかし、それがないのですから」


ネージュは小さく息を吐いて、展開していた魔術陣を消す。


「暫く、王城に滞在しても良いですか?」

「…ああ。ネージュ、君にはエルネスタを治すことが出来るのか?」

「私、担当した患者さんは誰もその先へ見送ったことがないんです。だから、私は治癒魔術師である間、それを突き通すつもりです」


気丈に笑う。私は、命を掬い上げるために此処に居るの。


「さあ、王妃様には少しだけ深い眠りに落ちてもらいます。声も届かなくなりますから、お話しておくのは今のうちですよ」

「…少しだけ、ふたりにしてもらえるか?」


陛下の言葉に、ぞろぞろと侍女たちが部屋を出て行く。ネージュもジェラールとそれに続いた。ジェラールの表現しがたい視線がエルネスタに向くのを、ネージュは知らないふりをして。


私情は持ち込まないと決めたのだから。


「ジェラールさま、大丈夫ですよ。すべて元あった通りにして差し上げますから、大丈夫です」

「…え?」


一歩、ジェラールより先を歩く。大丈夫。王妃様が笑っている未来が、ちゃんと見えるから。私は、その未来の通りにするだけだ。


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