夕日が沈むのが早くなってきたなか、ネージュはジェラールと共に屋敷の食堂に居た。ゆらゆらと揺れる蝋燭を中央において、今日も美味しそうなマルーニの食事が並ぶ。
「ネージュ、食事の前に話があるんだが」
「どうかされました?帰って来てから、ずっと考え込んでいるようでしたけど」
ジェラールは、何か言いたそうな顔でずっとネージュを見ていた。帰宅途中の馬車の中でも、だ。ネージュもそのことに気付きながら、ジェラールが言い出すまで待っていたのだが、なかなか言い出すこともなく食事の時間になってしまった。
「明日の遠乗りなんだが」
「お仕事入っちゃいましたか?忙しいですもんね」
「いや、城に行く用事が出来た」
「お城に?それでは、遠乗りはまた今度の機会ですね」
「君も一緒に行くんだ」
きょとりとした顔でジェラールを見やる。一緒に、お城へ行く。なんだ。次は何の用事がある。尋問会は乗り越えた。ジェラールとベルターのおかげで、クロヴィス家の人間として認められたはずだ。じゃあ、次は一体何があるというのか。
「…王妃が病に臥せったから、ネージュに診てもらいたい」
「おうひさま?」
カタリと音がする。ジェラールから視線を逸らさなくても、それは壁際に立つ使用人たちの方からだと分かった。空気が自然と強張っていくのを肌で感じながら、ネージュは問いかける。
「お城には、国の中でも選りすぐりのお医者様や治癒魔術師が、在中しているとお伺いしているのですが」
「城の医者たちは匙を投げたとのことで、陛下からの要請がきた。あとは、俺からの頼みでもある」
「…ジェラールさまの?」
また、カタリと音がした。
「王妃のエルネスタは、俺の幼馴染なんだ」
「まあ」
「…助けてやってくれないか」
ジェラールの蘇芳色の目は、真摯だった。まっすぐにネージュを見て逸らさない。幼馴染の王妃様。エルネスタ、そう名前をなぞった声が頭に響く。
けれど、ネージュに与えられている応えは一択。それ以外存在しない。目の前にある命を救うために、私は治癒魔術師になったのだ。ジェラールさまに、王妃様に対してどんな想いがあるのかなんて、私には関係ない。それは推測かもしれないけれど、人の想いには機敏な方だから、きっと。
「私に出来ることがあるなら」
「ありがとう」
「さあ、冷めてしまう前に食べてしまいませんか?」
「ああ」
――そうだ。
そこに、どんな想いがあるとしても、治癒魔術師である私には関係がない。揺らいでは駄目。私情を挟んでは駄目。命を前に、感情は無意味なものだ。
「今日も美味しいですね」
「そうだな」
「ジェラールさまは、幼少期どのように過ごされていたのですか?」
「幼少期?」
「はい。王妃様が幼馴染ってとても凄いことのように思うのです。私は一般階級の生まれなので、どのような過ごし方をするのかと思いまして」
ジェラールはネージュの質問に目を瞬かせた後、少し考える素振りを見せた。ああ、不自然だったかしら。だって、会話がなくなる方がもっと不自然じゃない…。
「何をするにもエクトルと一緒だった」
「副団長さんとですか?」
「ああ。アイツの方が一つ年上なんだが、一緒に野を駆けたりしたな」
「野を駆ける…」
「小川で釣りもしたぞ」
「釣り…。少年みたいなことをされていたのですね」
「事実、少年だったからな?」
「ジェラールさまは、本を読んでそうな印象があります」
「そうか?」
「以前、ワイバーン襲撃の際に見た炎の魔術は見事だったので」
煌々と光る炎を思い出す。瞼の裏に焼き付いた美しい色。
「うちは元々炎系の魔術を得意とするからな」
「そうだったんですね」
「父上はからっきしだが」
「得意不得意は誰にだってありますよ。ちなみに、私はお裁縫が出来ません」
「裁縫?」
「はい。縫うのは出来ます。一応、治癒魔術師でも必要技術だと教わりました。ですが、それ以外はどうにも上手にいかなくて。おばあちゃんには、よく笑われましたよ」
「…おばあちゃん?」
「私に生きることを教えてくださった老婦人です」
ネージュはパンを千切りながら、老婦人の笑った顔を思い出す。小さなぬいぐるみを作ってくれたことがある。可愛がっていたが、寂しくないようにと老婦人の棺に入れてしまった。
「おばあちゃんが教えてくださったおかげで私の食事は、実家の味がすると野営する度に言われました」
「野営か。経験があるんだな」
「そりゃあ、前線暮らしですから。前線から前線へ移る時は、必ず野営してましたし」
「前線から前線?」
「西が終われば北に行く、みたいな感じです。ちなみに、西は対人、北は対魔物です」
「それはまた…」
「着いたときには、更地だったみたいなこともあるので、基本的には強行突破も多かったですね。ですが、それなりに野営経験ありますよ。私、動物だって捌けるんですよ」
「え?」
ジェラールが口を開けて、まじまじとネージュを見て来る。笑うだけに留めて置いた。記憶に強く刻まれてほしい。こんなこと言っていたけど真相が分からないままだな、と。
「マルーニ、今日も美味しかったです」
「奥様、いつもありがとうございます」
「明日の朝食も楽しみにしてますね」
「明日は、季節の果物を仕入れて来たのでそちらをお出ししますね」
果物といえば、あの美容に良い果物しか頭に浮かんでこない。あれは印象が強すぎた。そっか、もうあれから季節は一つ、二つは過ぎて行ったのか。早いなあ。
「ネージュ、さっきの」
「ふふ。必要であれば何でもさせるのがトラバルトですから」
それ以上は言わないと、ネージュは口を噤む。ジェラールも悟ったのか、何も言わなかった。
食事を終えたあと、ネージュは緩やかに微笑んだ。
「ジェラールさま」
「どうした?」
「今夜はフルスとヴェーガとお話をするので、お話はお休みにしませんか?」
「え?」
「女子会です」
「じょしかい?」
「はい」
「あ、ああ。分かった」
こくりと頷くネージュに、ジェラールも訳が分からないまま頷いた。よし、今夜はひっそりと自分の感情に片がつけれる。恋とは、至極面倒なものだ。どうしても、鬱蒼としたものが付き纏ってくる。隣人さんの時もそうだったかしら。いえ、あの時は忙しさの傍らの恋だったし、あの人には女の影がなかったものね…。気付いたら、傍に居たようなお人だしね…。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「お、やすみ」
頭を下げて、ネージュはジェラールに背を向けた。ごめんなさい、ジェラールさま。足早になってしまいそうになるのを気をつけながら、ネージュは自室へと向かった。
綺麗に整った寝台の横を通り過ぎて、両開きの窓を開ける。
「フルスー!」
キョッと驚いたような鳴き声が聞こえて来て、間をおいて羽の音。フルスがネージュの下へと飛んできたのを部屋へ迎え入れた。部屋にいたヴェーガも、不思議そうにネージュを見る。
「女子会しましょう」
ネージュの言葉に、ヴェーガが少し身動ぎをした。女子会という響きが、少しどんよりとした空気で、フルスもキョッキョッと否定の声を上げる。ふわふわとした羽をバタつかせるフルスに、ネージュは声を潜める。
「いいの、聞くだけで良いから聞いてちょうだい。ああ、ジェラールさまに報告しないでね。なんてことないのよ、すぐに終わるから。お願い」
ただ、少し聞いてほしいだけだ。
ジェラールさまの心を揺るがす人が居たという事に驚きと、少しばかりの寂しさを抱いて。エルネスタ。たった一度だけ、呼んだだけなのに。こびりついて離れない。
「私ったら、随分と女々しかったのね…」
苦笑いを浮かべながら、冷たい床に座り込む。両手で顔を覆って、大きく息を吐いた。ああ。『本当は愛なんてないんでしょう?』その言葉まで蘇って来る。ええ、そうね。
「…愛なんて、あるはずないのよ」
それでも、ジェラールが与えて来てくれた‘愛’を否定することは、どうにも息苦しくて。それを否定をしたいわけではないのに。それは、全部建前だ。そうだ。結婚した建前、愛があると周りを騙し切ろうとしている。
「……愛なんて、」
信じなければ良かった。こんなことはもう二度と口にはしないから。愛があったって、なくたって、どっちでも良い。元から自分の足で立つと決めていたではないか。寄り掛からなくたって自力で立てるわ。私いままでそうだったもの。
「ごめんね、ヴェーガ、フルス。今夜だけ、今夜だけだから」
心配そうに寄って来たヴェーガの陽だまりの香りを残す毛皮に顔を埋めて、芽生え始めた恋の厄介さに目を閉じた。ああ、恋なんてしなければ良かった。芽生えたての恋なんて脆いだけよ。愛になってしまいそうな、その恋心は小さく丸めて心の奥に秘めておこう。
物言わぬ一頭と一羽と一人で女子会。ネージュのぽつぽつと落とされる言葉たちを、フルスとヴェーガは静かに聞いていた。