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第39話

「隣人さん、笑ってたわ…」


起き抜け、ぼんやりとする頭で夢を思い出す。涙で前が見えなかったから、最後に笑いかけてくれてたなんて気付かなかったな。


朝の支度をしながら。ネージュは名残惜しく夢を想う。戦場に置いて来た同期、庇い立てが出来ずごめんなさいと泣きながら謝る友人、国を去る前におまじないをくれた先輩。瞬きを擦るたびに脳裏に顔が浮かんでくる。


「ネージュ、おはよう」

「おはようございます、ジェラールさま」

「今日はぼんやりとしているな?」

「そう見えますか?」

「あぁ。何かあったのか?」

「いえ、少しだけ懐かしい夢を見まして」

「夢か」


涼しく過ごしやすい気候になってから、テラスで取るようになった朝食。ジェラールが先に席についていて、新聞を読んでいた。ネージュはジェラールの向かいに座って、カトレアが紅茶を注ぐのを見る。


「どんな夢だったか聞いても?」

「すごく凝縮された夢だったんですけど、六歳ぐらいからこの国に着くまでの夢を見てたんです」

「それはまた。故郷が恋しくなったのか?」

「いえ、それはありませんけど…。前に、黒魔術について治癒魔術の対極にあたるとお話したかと思うのですが、それを実践で教えてくださった人が居るんです」


紅茶に口付けて、ネージュは目を伏せた。


「名前は知りません。隣人さんと呼んでいました。そうですね、お歳も体格もネオさんと同じぐらいの方でした」

「でした?」

「はい。前線について二年目の冬、私の前で、私を庇って死んだのです。治癒魔術ぐらいが効かないほど、隣人さんの身体は黒魔術に身体が蝕まれていました」

「そんなことがあるのか?」

「黒魔術師は、己の魔力だけではなく生命力や時には魂を賭けるので反動がつきものです。隣人さんは、特に優秀な方だったので…」

「そうか。ネージュは、その人のことを思い出したんだな」

「ええ…。私にすべてを教えてくださった老婦人も、私を支えてくださった神父様も、私を庇って死に逝かれた方も、たくさんの人との出会いを思い出してしまって」


遣る瀬無いとは思わない。ただ、少しだけ寂しくなってしまった。そりゃあ、ジェラールたちは良くしてくれる。大事にしてくれる。けれど、まだお互いを知ろうとしている途中で。


「ネージュ」

「…はい?」

「明日、遠乗りに行かないか?」

「遠乗り、ですか?」

「ああ。ふたりで、どこかに出掛けよう」

「…元気づけてくださるんですか?」

「それは心に秘めて置くものだな。天気も良いだろうし、少し足を伸ばしても良いだろう」


くつりと笑うジェラールに、ネージュもつられて微笑んだ。


「食べて出勤するか」

「はい、ジェラールさま」


きらきらとした朝食に手を付ける。美味しい料理たちを噛み締めながら、ネージュは考える。自分の運命って、その時になるまで分からないものなのね。こんなに美味しいご飯を食べられるとは思ってもいなかったし、契約婚だけど大事にしてくれる夫も出来た。戦場で生涯を終えると思っていたし、追放されてからはどこかひっそりと暮らしているものだと思っていた。


本当に、どうなるかなんて分からないものだ。


「いってらっしゃいませ、旦那様、奥様」

「いってきます。今日もよろしくね」


玄関前で手を振る使用人たち背を向けて、ネージュとジェラールは本部に向かう馬車に乗り込んだ。ヴェーガがするりと馬車の中に姿を見せる。


「あら。ヴェーガ、何処に居たの?」


くるると喉を鳴らすヴェーガは、気にするまでもないと首を横に振る。額に鼻を埋めれば、彼女から優しいおひさまの香りがしていた。日向ぼっこしていたのかしら。


「あんまり遠くに行っちゃわないでね」

「そういえば、護衛の選出を考えたんだが」

「もうですか?」

「そんなに時間をかけても仕方がないだろう?隠居すると言って聞かない人がいてな」

「まあ」

「能力的にも申し分ないんだが、もう歳だなんだと言ってあわよくば隠居をして、そのまま引退をと狙っているんだ。騎士団でも上位に入る愛妻家でもあるから、俺の意思を汲んでくれるだろう」


ヴェーガの首筋を撫でてやりながら、ネージュはジェラールの言葉に苦笑いをした。本当に護衛をつけられるんだわ…。エクトルが苦い顔をするだろうし、アドルフは楽しそうな顔をするのも想像が出来た。


「朝礼後に呼ぶから、ネージュも俺の執務室に来るように」

「分かりました。でも、その方には拒否権をあげてくださいね?」

「ネージュ、君の護衛だぞ?うちの男どもが断る筈がない」

「愛妻家さんなら、色んな事を考えて辞退する可能性もあるじゃないですか」

「愛妻家だからこそ安心できるものもある。あの人の愛妻っぷりは筋金入りだ」


凄いんだぞ、と言ってジェラールは自身が覚えている限りの話をネージュに聞かせた。遠征後には必ず迎えに来ること、昼食はずっと手作りの愛妻お弁当を持ってきていること、絶対に他の女の人の名前を呼ばないこと、など。仲睦まじい夫婦なのだとネージュは思った。


「ジェラールさま、ネージュさま、着きましたよ」

「あぁ」

「ありがとう、グンジ」

「いえ。ではまたお迎えの時間に」

「気を付けて帰ってね」

「はい」


その話を聞いている間に、本部に着いた。ジェラールが先に降りて、ネージュに手を伸ばす。降りるだけなのだから大丈夫と言っても、ジェラールは手を伸ばした。握り締められてすぐに離れるけれど、ジェラールのぬくもりは暫くはネージュの手の中にある。


「それじゃあ、またあとで」

「分かりました」


頷いたネージュを見たジェラールは、自身の執務室に向かうために身を翻した。ジェラールの朝は忙しい。一緒に暮らし始めてから知った。ジェラール付きの文官がいないから、最終決済の仕事も多いのだろう。騎士団長って書類仕事もあって大変だ。


「あら。今日は街に行かないと駄目なのね」


一枚の紙に書き置きされた伝言に、ネージュは目を瞬かせた。街に行くのは結婚して、ジェラールの突拍子もないあの報告以来だ。時折、騎士団の治癒魔術師に手伝いの要請が出るらしいから、今回の書き置きもそのことなのだろう。一応、ジェラールには報告しておこう。


準備をしていると、あっという間に朝礼の終わりの時間だ。道具を詰め込んだカバンを持って、ジェラールの執務室に向かう。


「ジェラールさま、失礼します」


ノックをして返事を待てば、内側から扉が開いた。ジェラールかと思えば、どこか見覚えのある壮年の騎士が居た。名前は確か、クラウスと言っていたような。ワイバーンの襲撃時に、丘の上で傷の手当てをした人だ。


「おはようございます、夫人」

「お、おはようございます、クラウスさん」

「…名前を」

「えっ、間違ってましたか!?すみません!」

「いえ、そうではなく。お会いしたのは一度だったように思うのですが、覚えてくださっていたのですね」

「ふふ、治療した人の名前は忘れませんよ」


ジェラールの執務室に入り込めば、想像通り苦い顔のエクトルもそこに居た。この人、この顔が基本なのかしら。そう思うようにすれば、大体のことは平気になる。


「知り合いだったのか」

「はい。一度、治療をさせていただいたことがあるんです」

「そうなんだな。じゃあ、自己紹介は必要ないな。クラウス、さっきも言ったんだがネージュの護衛を頼んでも構わないな?」

「はい。実は、夫人に妻の治療をしていただいたことがあるのです。治療をしていただいてから、以前の様に元気になったので、いつか恩返しできればと思っておりました」


それは初耳である。ジェラールも初耳だったのか、蘇芳色の目をまん丸にしていた。


「奥方が寝込んでいたなら、何故早く言わないんだ。休みなり、時短なり都合をつけれたというのに」

「それでは迷惑が掛かるからと妻に押し切られまして…」

「相変わらず、奥方に弱いんだな」


クラウスは小さく笑みを浮かべて頭を下げた。本当に愛妻家なのだな。ネージュはクラウスとジェラールの話を聞きながら思った。にしても、奥様の診察をしていたなんて。あとで経過も兼ねて伺うとしよう。


「それで、ネージュはどうして荷物なんか持っているんだ?」

「あ。置手紙がありまして、街に診療に行くことに」

「そうか。じゃあ、早速だがクラウスと言って来ると良い。クラウス、頼んだぞ」

「承知いたしました」

「じ、じゃあ、クラウスさん。お手数おかけしますが今日からよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

「気をつけて行くように」

「はい!」


ジェラールに見送られて、ネージュはクラウスと共に執務室を後にした。



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