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第38話

しんしんと灰色の雪が降る。見上げた先の黒くなった空は重たそうで、気分が酷く憂鬱なものになった。


ネージュは、小さく息を吐く。幼い頃の自分が目の前でしゃがみ込んで、地面に何かを書いている。頭に雪を乗せながら、頬や鼻を真っ赤に染めて。


『ネージュちゃん、お父さんとお母さんは?』


お隣のおばあちゃんが、ネージュに声を掛ける。いつもネージュのことを気に掛けてくれていた老婦人で、幼かったネージュの唯一の頼みの綱だった。


『おばあちゃん。お父さんとお母さん、どこかに行っちゃったの。雪が降る前に出て行ったよ』

『またかい…。おいで、お鼻を真っ赤にしちゃってまあ。どうやら南から流行りの病が来ているからね、うちに入って温まりな』

『…おばあちゃん、いつもごめんなさい』

『良いんだよ。ネージュちゃんが、元気なら良いんだよ』


自分の赤いマフラーをネージュに巻き付けながら、老婦人は幼いネージュを自宅に招き入れる。それを、ぼんやりと見守る。意識がある夢を見るのは、随分と久しぶりだった。


ネージュは、壁を通り抜けながら暖炉の前に座る幼い背を見つめる。老婦人は、暖炉に掛けた鍋の中身をかき混ぜている。うん、覚えている。この日は、とても美味しいスープとパンを貰ったんだ。


『ね、おばあちゃん』

『どうしかしたかい?』

『おばあちゃんの料理、私も覚えたい』

『まあ』

『おばあちゃんに、いつまでも迷惑かけれないし』

『迷惑なんて考えなくて良いのよ』


目元を緩めて笑う老婦人は、スープを啜るネージュの隣に腰掛けてゆっくりと肩を抱いた。暖かくて、ネージュが知る優しさのすべてがこの老婦人にあった。老婦人が居たから、ネージュは生きていたし、優しさを知ることが出来た。


『んーん。だってね、いつかは一人になるって言われたの。だから、一人で生きて行けるようにならなきゃだめなの』

『誰だい、ネージュちゃんにそんなことを言ったのは!』

『知らない人だから、おばあちゃんが怒らなくても良いんだよ』


本当は、知っていた。あれはおばあちゃんの息子さんだった。しゃがみ込んだネージュに、沢山の言葉を投げつけて来た人。おばあちゃんを大事に思っていたからこその言葉だったのだと、今でも思う。


『明日から、明日から私の全部を教えてあげるから。今は幼いままのネージュちゃんで居てね』

『おばあちゃん、ありがとう』


私が、自立を始めた最初の日だ。仲睦まじい様子で出て行く両親を見送って、お腹を空かせながら外で時間を潰すのはこの日で終わった。


次の日から、ネージュは老婦人と共に‘暮らし’というものを覚えた。料理や常識だけではない。髪の結い方から布団の用意の仕方、野菜の作り方まで。老婦人が知るありとあらゆることを、ネージュは教わった。


――その最初の授業は、老婦人が深い眠りにつくまで続いた。眠りに落ちる前の言葉は、料理を作ることにおいて一番必要なこと。


『気持ちを込めなさい。たくさんの想いを込めて、作るのよ』


それが最期の言葉だった。別れの言葉も聞かず、老婦人はネージュの前から去っていった。町医者曰く、老衰だったという。


それから、ネージュはひとりで生きていけるようになった。父や母がネージュを見なくても、町の子供が親と戯れているのを見ても、ネージュは気にしなくなった。だって、一人で生きていけるから。


『ネージュ』


父や母が、ネージュの名前を呼ぶことは殆どない。互いの名前だけを呼んでいるなかで、ネージュはひっそりと息をしている。綺麗なお洋服を身に纏って駆けて行く少女たちのなか、自分で繕ったワンピースを身に纏う。気にならなかった。生きていくことに必死だったから。


そんなある日のこと。

父が発熱し、翌日には母が倒れた。発熱、腹痛、嘔吐、咳、風邪にも似た症状を発症したのだ。それは、なにもネージュの両親だけではなかった。唯一の町医者さえも、寝込んでしまった。


医者の診断がなくても分かる。それは、流行り病だった。南の小さな村々は廃村になってしまうほど、感染力が強くて症状も重たかった。


ネージュも軽く咳をしながら、両親の看病を続けた。


ヒューヒューと掠れる呼吸音。何も食べることが出来ず、少しずつ衰弱していく姿をネージュは見ていた。


『…どうにかしてあげたいけど、私には力がないし学もない。こうやって、看病するしかない…もどかしい』


小さな背を、ネージュは見つめていた。父の鼓動が止まるのを聞いた日が、最初の覚悟の日だった。次いで、追い掛けるように母の鼓動も止まった。二人は最期まで、ネージュを見ることも呼ぶこともなかったけれど、ネージュは恨みも何もなかった。ただ、本当に二人きりの世界に逝けたのだと思っただけだ。それが十歳の時。


一人でなんとか暮らして、十三歳。町の住人たちと助け合いながら、どうにか生きていた時だ。町の小さな図書館の本を読み尽くしたあと、父親の友人だった神父のもとに訪れた。


『――あの、神父様。私は、治癒魔術師になれますか?』


父よりも壮年に見えたその人は、ネージュの額に触れて何かを考えている様子で。


『ネージュ、治癒魔術師になりたいのかい』

『はい』

『過酷だよ。騎士よりも、もっと過酷なものでも?』

『素質があるなら、私は治癒魔術師になりたいです』


これも、よく覚えている。この人は、ネージュが治癒魔術師になるのを後押ししてくれた。王都に上がる面倒まで見てくれて、ネージュの背を支えてくれていた。


確かに、神父の言う通り過酷だった。精神的にも参ってしまい去る同期を何人も見送った。


『アルナルディさんは、即戦力になれそうね!』


養成所の所長の言葉通り、ネージュは幼いと言われながらも十六歳にして治癒魔術師としての資格を手に入れた。血を見ても、臓腑を見ても、ネージュは魔術を駆使して、命を繋ぎとめる術を覚えた。


戦場最前線に配属されることが決まって、所長と一緒にヴェーガを召喚したこと。戦場最前線で、命を救う側なのに救われたこと。


『白雪、危ないから下がっていなさい』

『隣人さん、大丈夫ですよ。近くには何にも居ませんし』

『白雪。君は危機感が足りていないようですね?』


ネージュが‘隣人’と呼び親しんだ人が出来たこと。ネージュを『白雪』と呼ぶその人に、恋に落ちてしまったこと。恋は淡い雪となって消えて行ったこと。


溢れ出す血で真っ赤に染まっていく自分の手。途切れ途切れになる呼吸。ネージュを見ていた黒曜のような目から、光が零れ落ちていく。


『隣人さん、死なないでくださいっ』

『――私っ、あなたのこと、』


血の気の失せた指先が、ネージュの唇を抑えて言葉を遮る。そうして緩やかに笑って、ぱたりと腕が地面に落ちた。黒曜から流れる一筋の涙が、地面に落ちて。そして、最期。


思い出たちが次々が映像として流れていく。この国に流れ着いて、老婆に教えを請い、町に受け入れられて馴染んで、そして王都へ来た。


意識が浮上するのを感じながら、ネージュは考えに浸る。たくさんの人に、ネージュは‘愛’されていたと思う。それは、ジェラールと違うものだ。きっと、人はそれを‘親愛’と呼ぶのだろう。


薬師であるネージュを必要として愛した。


それだけで、十分な気持ちになる。その上から、いま、ジェラールに‘愛’を注ぎ込まれているのだ。


『ちゃんとした夫婦に、家族になりたいと思っているんだ』


ジェラールの真っすぐな蘇芳色の目に、私の独りぼっちだった時間は動き始めた。形だけでは意味がないのだと、ジェラールが告げた日を思い出す。まるで孤独が雪解けていくような感じがした。


『ネージュ、俺と一緒に幸せになってくれないか』


ジェラールの穏やかな声音に、そう言われたことを思い出す。ジェラールは、ネージュに持てるものすべてを教え、与えようとしてくれていた。一緒に幸せに。その言葉に、涙が止まらなかった。


ジェラールの言葉の温かさ。

それを、‘愛’と言わずして何になろう。


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